長田桃蔵
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長田 桃蔵︵おさだ とうぞう、1870年9月8日︵明治3年8月13日[1]︶- 1943年︵昭和18年︶7月18日[2]︶は、日本の政治家。衆議院議員、淀町長、京都競馬倶楽部理事[3]、大林組副支配人[4]。旧姓・梅村[1]。
来歴・人物[編集]
丹後国与謝郡宮津[5]︵現京都府宮津市︶で旧宮津藩儒家[4]梅村踈影の三男として生まれ[1]、梅村が助教をしていた天橋義塾で学ぶ[6]。1891年︵明治24年︶11月、長田忠恕の養子︵娘婿︶となる[1]。 日本法律学校で学び、1894年︵明治27年︶同校を卒業[3]。淀町長、秋田物産社長、六甲土地取締役、北鮮産業取締役、奈良電気鉄道専務のほか、国有財産調査委員、京都競馬倶楽部理事長などを務める[7]。 京都府農会長、帝国農会議員、京都府畜産組合総合会会長等を経て、1917年︵大正6年︶4月、第13回衆議院議員総選挙で京都府郡部より衆議院議員に当選[3]。その後、第14回、第15回、第18回総選挙でも当選し、衆議院議員を通算4期を務めた[3]。 奈良電気鉄道の設立の中心人物で、設立後は専務取締役[注 1]として同社を経営する。その後五私鉄疑獄で横領容疑で逮捕され、裁判で有罪判決を受ける。晩年は淀で生糸機械研究所を経営[8]。親族[編集]
娘の多喜子[9]が谷川徹三に嫁いだため、谷川俊太郎の母方の祖父にあたる。 父親の梅村踈影は、天保4年(1833年)生まれの宮津藩士で同地で私塾を開いていたと言われ、1877年ころには天橋義塾︵小室信介らを中心とした1875年創設の士族結社[10]︶の助教を務めていた[6]。﹁民権をどなり散し国会を騒ぎちらし彼方此方を飛廻り口過をし﹂ていたが、1881年ころにキリスト教︵ロシア正教︶に入信し、天橋義塾幹部では最初のキリスト教徒となった[6]。脚注[編集]
注釈[編集]
出典[編集]
(一)^ abcd﹃人事興信録﹄5版, p. 198.
(二)^ 政治家人名事典 明治~昭和
(三)^ abcd﹃議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑﹄155頁。
(四)^ ab﹃奈良電鉄社史﹄, p. 53-54.
(五)^ ﹃新代議士名鑑﹄, p. 307.
(六)^ abc飯塚一幸﹁<論説>京都府における国会開設運動の展開 : 私擬憲法案﹁大日本国憲法﹂の成立と沢辺正修﹂﹃史林﹄第92巻第2号、史学研究会 (京都大学大学院文学研究科内)、2009年3月、359-387頁、doi:10.14989/shirin_92_359、hdl:2433/240064、ISSN 0386-9369。
(七)^ 長田桃藏﹃人事興信録﹄第8版 昭和3(1928)年7月 ﹃人事興信録﹄データベース
(八)^ ﹃人事興信録﹄13版上.
(九)^ 同志社女子大学バックナンバー第五回
(十)^ 天橋義塾︵読み︶てんきょうぎじゅくコトバンク