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この項目では、1935年から1940年まであった日本陸軍の防衛司令部について説明しています。1941年から1945年まであった防衛総司令部については「防衛総司令部」をご覧ください。 |
防衛司令部︵ぼうえいしれいぶ︶は、1935年から1940年まであった日本陸軍の組織である。本州・四国・九州の防空のために置かれ、東部、中部、西部の3司令部があった。1940年に、防衛全般の指揮権を持つ軍に転換してなくなった。
設置の経緯[編集]
第1次世界大戦で航空機が戦争に利用されてから、戦後には性能の向上を前提とした航空戦略が欧米諸国で議論されるようになった。日本陸軍も防空問題を検討してはいたが、近隣に大きな空軍力を持つ国がなかったこともあり、国土防空よりも航空戦力そのものの養成に注力すべきと考えていた[1]。1930年代に入ってソビエト連邦の極東航空戦力が増強されると、日本本土空襲の可能性も考えられるようになり、防空に向けた取り組みに着手することになった[2]。その一つは高射砲戦力の増強で、もう一つは国土防空を担当する防衛司令部を設置することであった。
東部防衛司令部の設置[編集]
1935年5月25日制定︵29日公布、8月1日施行︶の昭和10年軍令陸第8号で制定された防衛司令部令にもとづき、東京に東部防衛司令部、大阪に中部防衛司令部、小倉︵現在の北九州市︶に西部防衛司令部を設けることになった[3]、﹁平時より要地の防衛に関し諸計画を準備﹂させることが目的である[4]。
3人の防衛司令官の管轄地域には、13の師団︵あるいは留守師団︶があったが、その師団長は天皇の直接の隷下に属する点で防衛司令官と同格であった。階級も同じ中将である。防衛司令部は防衛計画上必要なことにつき区処︵指示︶できることになってはいたが[5]、防衛そのものは師団長に任されており、両者の関係は曖昧なところがあった[6]。
ただちに編成されたのは東京警備司令部が編成管理にあたった東部防衛司令部で、中部防衛司令部と西部防衛司令部は、2年後の1937年︵昭和12年︶8月発足とされた[7]。東部防衛司令部は東京警備司令部の一部に入って事務を開始した[8]。その人員のほとんどは、司令官・参謀長以下、東京警備司令部との兼任者であった[9]。
防衛司令部の強化[編集]
1937年の防衛司令部と防空管区境界[10]。色分けは師管。
1937年8月に、中部防衛司令部と西部防衛司令部が発足した。建物は、中部防衛司令部は第4師団司令部の一部に入り、西部防衛司令部の所在地は、小倉にある野戦重砲兵第2旅団司令部と小倉連隊区司令部の一部とされた[8]。人員の一部は第4師団、第12師団の兼任者であった[11]。
1937年11月27日制定︵29日公布、12月1日施行︶の昭和12年軍令陸第8号による防衛司令部令改定で、防空管区と警備管区の区別が付けられた[10]。防空管区は複数の師管にまたがる従来からの管轄地で、防衛司令官は防空に関して管区内の部隊を指揮できるようになった[12]。警備管区は防衛司令部が所在する師管を範囲とし、そこについてだけ、防衛司令官が警備に関する権限を行使できるようになった[12]。師団長より上になったが、それでも軍隊用語での指揮下は状況による一時的な上下関係にすぎない。1939年に、防衛司令官には師団に対する査閲権があるのかという照会が、師団司令部から相次いであった。﹁師団長の統帥に関わる重要事項﹂だという質問に対し、陸軍省の回答は、防衛司令官は師団長に対し﹁所見を述べ得る﹂のだという曖昧なものにとどまった[13]。
また、司令部は従来﹁官衙﹂の扱いであったが、1937年12月1日から﹁軍隊﹂とされるようになった[14]。同時に東京警備司令部が廃止されたため、東部防衛司令部と東京警備司令部の重複は解消された。
廃止と軍司令部の設置[編集]
1940年︵昭和15年︶に、陸軍は防衛司令部を軍司令部に変える改革を実施した。新制度で師団長は天皇の直隷ではなくなり、軍司令官の隷下におかれたため、軍と師団の上下関係は明確になった。4つの軍のうち、東部軍、中部軍、西部軍の司令部は防衛司令部を改組して作り、司令官も同一人が任命された[15]。北部軍司令部だけは新編成となり、やや遅れて発足した。
組織人員[編集]
防衛司令部令が定める職員は以下の通り[3][16]。