雲井龍之介
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くもい りゅうのすけ 雲井 龍之介 | |
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本名 | 澤 武史 さわ たけし |
別名義 | 雲井 淳 くもい あつし |
生年月日 | 1903年7月15日 |
没年月日 | 1980年12月22日(77歳没) |
出生地 | 日本 東京府東京市(現在の東京都) |
職業 | 俳優 |
ジャンル | 劇映画(現代劇・時代劇、剣戟映画、サイレント映画・トーキー) |
活動期間 | 1924年 - 1941年 |
活動内容 |
1924年 東亜キネマ入社 1926年 主演昇格 1929年 河合映画移籍 1930年 帝国キネマ演芸移籍 1931年 新興キネマ移籍 1932年 東活映画社へ 1933年 日活太秦撮影所移籍 1935年 第一映画移籍 1936年 極東映画移籍 1941年 極東映画消滅 |
雲井 龍之介︵くもい りゅうのすけ、1903年7月15日[1] - 1980年12月22日︶は、日本の俳優である。初期に雲井 淳︵くもい あつし︶と名乗った[1][2]。本名は澤 武史︵沢-、さわ たけし︶[1]。極東キネマでは、市川寿三郎、綾小路絃三郎とともに﹁極東の三羽烏﹂と呼ばれた剣戟俳優である[3]。
人物・来歴[編集]
1903年︵明治36年︶7月15日、東京府東京市︵現在の東京都︶に﹁澤武史﹂として生まれる[1]。 1924年︵大正13年︶東亜キネマ等持院撮影所に入社[1]、同年、﹁雲井淳﹂の名で、寿々喜多呂九平脚本、沼田紅緑監督の﹃斬奸﹄に久富美雄三役で出演する[2]。1926年︵大正15年︶、主演俳優に昇格し、村越章二郎監督の﹃勤王﹄で新進スターとして売り出される[1]。広瀬五郎監督の﹃剣侠受難﹄︵1927年︶、後藤秋声監督の﹃砂絵呪縛﹄︵1927年︶等に主演した後に、1929年︵昭和4年︶、河合映画に移籍した[2]。同年の主演作﹃貝殻一平﹄は、5社競作の人気原作で、相手役には琴糸路が起用された。 1930年︵昭和5年︶、帝国キネマ演芸移籍、渡辺新太郎監督の﹃次郎吉ざんげ﹄等に出演[2]、1931年︵昭和6年︶、同社が新興キネマに改組された。 1932年︵昭和7年︶には、東亜キネマを改組した東活映画社へ移籍、志波西果が監督した﹃夜明けの女﹄等に出演した[2]が、同年、同社が解散したため、1933年︵昭和8年︶、日活太秦撮影所に移籍した。同社では、9本に出演し、大河内傳次郎の代役で出演した尾崎純監督の﹃へり下りの利七﹄[1]を最後に、1934年︵昭和9年︶に片岡千恵蔵の片岡千恵蔵プロダクション、1935年︵昭和10年︶には永田雅一の第一映画、マキノ正博のマキノトーキー製作所と転々とした[2]。 1936年︵昭和11年︶、前年に設立された極東映画に移籍、5年間に57本に出演した。1941年︵昭和17年︶、高田博文監督の﹃燃ゆる魂﹄に出演した後は、極東映画が合併して消滅し、事実上の引退となった[2]。 1980年︵昭和55年︶12月22日、死去した。満77歳没。おもなフィルモグラフィ[編集]
- 『斬奸』 : 監督沼田紅緑、1924年
- 『勤王』 : 監督村越章二郎、1926年 - 初主演
- 『剣侠受難』 : 監督広瀬五郎、1927年
- 『砂絵呪縛』第一篇・第二篇・第三篇 : 監督後藤秋声、1927年
- 『雲井竜雄』前篇・後篇 : 監督後藤秋声、1928年
- 『高杉晋作』 : 監督広瀬五郎、1928年
- 『夕霧の仙太』 : 監督石田民三、1929年
- 『貝殻一平』 : 監督村越章二郎、1929年
- 『次郎吉ざんげ』 : 監督渡辺新太郎、1931年
- 『夜明けの女』前篇・後篇 : 監督志波西果、1932年
- 『へり下りの利七』 : 監督尾崎純、1934年
- 『新篇水戸黄門』 : 監督山口哲平、1939年
- 『続水戸黄門』前篇・後篇 : 監督山口哲平、1940年
- 『燃ゆる魂』 : 監督高田博文、1941年