著作権保護期間の延長問題を考えるフォーラム 公開トークイベントvol.2 「『知の創造と共有』からみた著作権保護期間延長問題」の雑感(2)
執筆者:大久保ゆう(April 16, 2007)
◇境真良さんの意見より
境さんは、著作権の保護期間延長について、条件付きで賛成するという。もちろん、基本的には︿使えない﹀期間をただ延ばすというのには反対で、どのように使っていいのか、という条件の表明があらかじめ欲しいというのが基本であり、延ばす延ばさないだけの議論になるのは、個人的には好きではないとされている。
その意見自体はこれまで何人もの人が表明してきた立場であり、誰しも理解できるところだろうと思われる。実用ソフトウェアのように、あるいはクリエイティブコモンズのように、使用許諾を常に付するという主張だ。だが、境さんの発言を聞いてひっかかることがあるとすれば、それは︿マンガ﹀や︿コミケ﹀、あるいは︿二次創作﹀について触れた箇所だろう。境さんが︿二次創作﹀をすべて︿パロディ﹀と呼び、さらにそれに対して制限を求めるに及んだとき、おそらく、境さんの中での定義と、あのコミケという場所で行われていること、あるいはその行為に対する創作者たちの感覚とは、かなり乖離があるのではないだろうか。
それは境さんがコミケという二次創作の空間の価値を認めていないというわけではない。著作権を最大限に行使すれば、コミケという文化の創造に置いて潤沢な源泉であるはずの空間が崩れてしまうということも、じゅうぶん理解している。それなのに、どこかその発言は実態から遊離している。まずは、著作権と二次創作との関係で、重要な点を挙げておこう。
・著作権法違反という罪は、親告罪であり、著作権者が訴えない限り、罪に問われない。
第百二十三条 第百十九条、第百二十条の二第三号及び第四号、第百二十一条の二並びに前条の罪は、告訴がなければ公訴を提起することができない。︵﹃著作権法﹄第八章 罰則︶
・二次創作は、本来公表権が原著作者にあり、また二次創作者の著作権を同様に原著作者も持つ。
第十八条 著作者は、その著作物でまだ公表されていないもの︵その同意を得ないで公表された著作物を含む。以下この条において同じ。︶を公衆に提供し、又は提示する権利を有する。当該著作物を原著作物とする二次的著作物についても、同様とする。︵﹃著作権法﹄第二章 著作者の権利 第三節 権利の内容 第二款 著作者人格権︵公表権︶︶
第二十八条 二次的著作物の原著作物の著作者は、当該二次的著作物の利用に関し、この款に規定する権利で当該二次的著作物の著作者が有するものと同一の種類の権利を専有する。︵﹃著作権法﹄第二章 著作者の権利 第三節 権利の内容 第三款 著作権に含まれる権利の種類︵二次的著作物の利用に関する原著作者の権利︶︶
というわけであって、つまるところ、原著作者が︿嫌だ﹀といえば罪になるのだけれど、言わないから黙認された状態でその作品を公表できる、という、とても不安定なところで二次創作は作られているということになる。境さんの言うように﹁ある程度はいいや﹂ということでもあるかもしれない。けれども、極端に二次創作を嫌がる企業や作家もいるだろうし、極端にやりすぎる二次創作者もいるかもしれない。だから、境さんが、それが創作における健全なあり方ではないというのもわかるし、マンガのインフラの場所としてあんまり削りたくなくて、そこで
﹁僕からすると、法律的にも大丈夫な︿セーフハーバー﹀というか、大丈夫な領域を作りたいなっていうふうに思ったのが、たぶんこの議論の根幹にもあったように思いますね。﹂
と発言するのも、よくわかるのである。ただ、そのあとで著作権保護期間の延長条件としてあげるふたつの条件というのに、少々、二次創作への理解に難があるように思える。
(一)﹁大規模にビジネスをするんじゃなければ、改変することを認めてよ﹂
(二)﹁パロディの範囲の問題として、常軌を逸したような、たとえばかわいい女の子のキャラクターで突然エロ行為を始めるような、そんなものはどうかと思うんですが、別のキャラクターとちょっとキスをしたシーンを書くのはいいでしょうというのを、本人の判断じゃなくて、社会常識の判断として、枠をはめてほしいな﹂
境さんは自分が言い出した話ではないとしているが、一応それを支持していると考えても、私には2番がどうしてもわからない。それは単にエロとするものの範囲がよくわからないというだけじゃなくて︵さらにそれをなくしたらコミケそのものが消えちゃうんじゃないかという危惧でもなくて︶、︿オリジナル﹀と︿二次創作﹀と言われるもののあいだに、ものすごい断絶があるように聞こえてならない。ある絶対的な︿オリジナル﹀が存在していて、それを侵害するという観念。それは古い世代の創作には当てはまるかもしれないが、サブカルチャー文化、あるいはオタク文化で育った二次創作者、あるいは原著作者が、いったい今そんなことを本当に考えているのだろうか?
現代文化を中心に評論活動を行っている東浩紀によれば、コミケ時代で著作物がどのようにとらえられているかを、その著書﹃動物化するポストモダン﹄︵講談社現代新書︶で語っているが、それを参考にして、簡単に説明してみよう。
︵A︶
/ ̄ ︿二次創作﹀
︿オリジナル﹀ ―― ︿二次創作﹀
\_ ︿二次創作﹀
たとえば、旧時代のオリジナルと二次創作の関係が上のようだとする。大きくて絶対的な物語として、まずオリジナルが存在し、そこから派生したものが二次創作であるという構造だ。
︵B︶
┏━━━━━━┓――︿二次創作﹀
┃ ┃――︿オリジナル﹀
┃ データベース ┃――︿二次創作﹀
┃ ┃――︿二次創作﹀
┗━━━━━━┛――︿二次創作﹀
一方、最近の感覚では、オリジナル作品でさえ、ひとつのデータベース︵世界観・設定︶などから生み出されたひとつの派生物にすぎず、同じデータベースを活用するという意味では、二次創作と同じ地平に置かれる。並列した作品は、データベースを犯すことさえしなければ、お互いに何も干渉しないし、傷つけない。
︵A︶で考えると、エロ二次創作はオリジナルを傷つけることがあるかもしれないが、︵B︶の観念で創作している人間にとって、エロ二次創作でもってオリジナルを傷つけているという感覚はない。もともと別のものであって、何の関係もない。もちろん、それでも原著者というのはデータベースの制作者であり構築者であり管理者でもあるのだから、常に︿嫌だ﹀という権利は持っている。しかしそのデータベース管理者でさえ、そもそもコミケなどを出自としている場合、自分が作ったのがどんなオリジナルであっても、それも二次創作と同じ平行世界のひとつであるから、同じデータベースから作られたものに対して、何も感情を害することがなくても、何の不思議もない。︵むしろ原著作者が率先して自らの二次創作︵エロ含む︶を書くことだってあるのだ。︶
もはやここにはオリジナルと二次の区別はなく、すべてデータベースの派生物であり、管理者の制作物として付加価値的なアウラがくっつくかくっつかないか、という意味でのオリジナルしか存在しない。
これは東浩紀の言うように、﹁むろん現実には、著作権の存在がある以上、このような感覚をそのまま肯定するわけにはいかない﹂ものだとは思う。著作権法で定義される著作物および二次的創作物の概念に著しく反している。﹁しかし、コミケが誕生して四半世紀が経つ今、その心理の背景を知っておくのは重要﹂であり、その理解なしで︿社会常識﹀などを持ち出してコミケをどうこうしようというのは、いささか無理があるように思える。社会常識によって、ひとつのデータベースから産出してよいものと、産出してはいけないものの線を引くというのは、いったいどのようにして可能なのだろうか。︵東浩紀、前掲書、p.79、p.90-91︶
ひとつ考えられるのは、一般的にここまでは非市場経済的なものとして産出を認める、という線があって、エロ︵別にエロじゃなくてもいいけどそれぞれの事案︶がいいか悪いかはデータベース管理者に表明してもらう、というのが、今まで通りやれていちばんいいのではないか、と思うのだけれど。つまり、パロディをここまでは絶対的に認めるけれど、そこからはみ出る部分は今まで以上にちゃんと管理する権利と義務を与える、ということ。そうなると、またいずれにせよ、しっかりとした表明が必要だ、という結論に再度落ち着くことになる。
そういえば、トークイベントの最後の方で、境さんはこんなことも言っている。
﹁権利を逆に弱めて、再利用しやすく︵すると︶、むしろ世界中のクリエイタが日本に集まってきて、ここで新しいものを作ってやろうという実験場効果が生まれることが︵あるんじゃないかと︶、僕は考えています。﹇検閲まがいのことをするひどいところもあるけれど、﹈日本に来れば何を書いてもオッケーだと︵いうことにすると︶、それじゃあ日本に来て発表しましょうか、となる。そういう意味では、自由にすることイコールお金が回らないということではないし、海外に負けるということでもないし、もっと日本という場所を、クリエイティブに、クリエイティブなものを作るという行為にとって、もっと適した場所にするっていうことが、今日の産業政策というふうに、今はやってないんですが、そう思います。﹂
なるほど。境さんの言うことは、あっちに揺れたり、こっちに揺れたりするが、全部まとめてみると、結構面白い︵まっとうな︶ことになる。
﹁保護期間存続中の権利は強くする。その代わり、ちゃんとどのように使われたいのか表明すること。ただ、保護期間自体は短くして、そのあとはみんなが自由に使ってよいことにする。﹂
︵3︶につづく