ブックマーク / howardhoax.blog.fc2.com (16)
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通常記事の更新を停止してからしばらく経ち、自分の中で色々と考えがまとまったこともあるので、このブログに関する今後のことを記しておこうと思います︵なお、これは、通常記事の更新を再開するという意味では全くありません︶。 まず、以前から考えていた、削除した昔の記事の電子化について。これに関しては、記事をそのまま採録する形で電子書籍化することは現状では考えていません。ただ、自分として比較的納得のいく記事を精選し、改稿を加えた上で、注意深く配列して全体として一つの作品となるように構成することによって、私がこのブログでやってきたことはなんだったのかがわかるようなものを作ることにしました。 とりわけ、自分の中でひっかかっているのが、通常記事の最後となったカサヴェテス論でカットすることになった、カサヴェテスと﹁アメリカ﹂や﹁アメリカ映画﹂との関係性の映画史的な検討にあたる部分です。このことに関してなぜ私の
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ブログの更新を無期限に停止することにしました。今後のことは何も決めておらず、いずれ再開するかもしれませんし全くしないかもしれません。 また、過去の記事の既に削除した部分についても、そのうち電子書籍にでもするかもしれないと書いていましたが、これに関しても、とりあえずやめます。 このブログをやめることにしたのには、一つの明確な理由がありました。……というのも、昨年の記事の中でそれとなく書いたことがあるのが、何らかの評論を書いて何かの賞にでも応募する、ということでした。その後、渾身の力を振り絞り、完全にフルパワーでの文章を書き上げました。 このブログにこれまでアップしてきた文章のほとんどは、単に自分のための備忘録・勉強ノートを公開しているというだけのものであって、たいして推敲もしておらず、全力で書いたものなどはほぼありません。だからこそ、それが消えようがどうなろうが、私自身にとっては割とどうでも
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少し前、電子書籍のキャンペーンで、﹃キン肉マン﹄が1巻から29巻まで期間限定で無料、というものがありました。それで一通り読んでいたんですが、売る側の思惑にまんまとのってしまいまして、結局電子書籍で最新のぶんまで一気に通読してしまったのであります。 実は私、もともと﹃キン肉マン﹄に関しては、最初にいったん完結したときのぶんまでしか読んでいませんでした。これにははっきりとした理由がありまして、最後の結末の改変に納得がいっていなかったということがあります。ネットで軽く調べただけの感じだときちんと確認はとれなかったんですが、私の記憶にある限りだと、もともとの王位継承編のラストは﹁マッスルスパークでスーパーフェニックスを倒す→王位継承の証のマントを血染めにした時点で、即座に終了﹂というなんとも即物的にブツっと終わるもので、ハッピーエンドとは言えない﹁苦い勝利﹂というような感覚がむしろよいと思えていた
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アメリカのヒーローコミックを題材とした映画は依然として続々と制作されているが、最近公開されたそのような作品群の中でも、﹃ローガン﹄と﹃レゴバットマン ザ・ムービー﹄の二作は、その際立った対照性に非常な違和感を感じてしまったものだった。 とはいえ、それは、これらの作品そのものを見たことによる違和感というよりも、これらに対して向けられた論評を読んでの違和感、という側面の方が強い。……というのも、私は﹃ローガン﹄と﹃レゴバットマン﹄の二作を全く対照的な作品だと感じたのだが、この二本の受け取られ方はといえば、両作がそろってともに、私の感想とはまるで正反対であるようなのだ。 これは要するにどういうことかというと、﹃ローガン﹄を見た私は、これこそ、ジャンルとしてのヒーローコミックがどのようなものであるかを考えてみるとまさに直球ド真ん中の作品であると感じた。一方、﹃レゴバットマン﹄は、なるほど確かに製作
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映画﹃バットマンvsスーパーマン﹄の公開もいよいよ近づいてきた今日この頃ですが、アメリカで公開された三番目の予告編を見て、﹁ふむ……!?﹂と、それまで死んだ魚のようだった私の目に活力が取り戻されるということがありました。 まあ、私のようなDCコミックスのファンにしてみると、ノーラン=ゴイヤー体制によってワーナーのDCヒーロー映画が製作されてきた期間は終わりのない悪夢であり、もはやワーナーのヒーロー映画に対して何一つ期待するようなことなどありませんでした。 ところが……という話をしたいんですが、ちょっとその前に、何年も前に書いたエントリにわざわざリンクを張って、どういう状況のものだったのかとかその後のやり取りとか全部無視して、ただでさえバカ丸出しな上にそれ何周目だよというような失笑ものの﹁ツッコミ﹂を罵詈雑言混じりでやるというような輩がまたぞろ現れたので、ノーラン版バットマンとかのことにいつ
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以前からうすうす感じていて、最近ほとんど確信するようになったのですが……日本には、﹁アメコミファン﹂などというものはほとんど存在しないんじゃないでしょうか。 と、言うのもですね……アメリカのコミックブック業界では、DCコミックスとマーヴル・コミックスが、それぞれ四割くらいずつのシェアを占めておるわけです。ということは、単純に考えれば、DCとマーヴルの動向を押さえておけば、まあ業界全体で起きていることの八割方は把握することができる、と。 逆に言えば、DCかマーヴルのどちらかだけのことしか把握していなければ、業界の動向は半分もわからないわけです。……なんですが、日本でアメコミ読んでいる人の多くは﹁マーヴル読者﹂なのであって、DCのことも把握している人ということになると、一気に激減する。 もちろん、読みたいものだけ読んでればそれでいいわけですが……しかし、﹁マーヴル作品しか読んでいない﹂=
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なぜ、批評は必要なのだろうか。 おそらく、日本国内の環境では、このように問うこと自体が、半ば挑発的な意味を持ってしまうだろう。そもそも、批評などというものは悪口や揚げ足取りと同義であり、悪い意味しかないと考えている人が多いのだから。 しかし、小説でも映画でも演劇でも美術でも音楽でもマンガでもなんでも、何らかの文化的・芸術的なジャンルにおいては、作品の価値判断や分析・検討において、批評は必要不可欠なはずである。批評がなければ、それぞれの受け入れ手が気に入ったか・気に入らないかの主観的な気分しか残らないことになってしまう。 その意味で、最も切実に批評を必要としているのは、実は作り手のはずである。批評がなければ、作品が検討され、進歩するための契機が切り開かれることもなくなってしまう。 一流の作者であればあるほど、批評を必要としていると思う。以前は私も、作者によってそういう部分は違うのかも、ただ
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2014-01 « 12345678910111213141516171819202122232425262728293031 » シド・フィールドの有名な﹃スクリーン・プレイ﹄の邦訳が出ていたので、読んでみた。邦題は﹃映画を書くためにあなたがしなくてはならないこと﹄となっている。 この書物は、ハリウッドでの脚本作成がマニュアル化していく流れに先鞭をつけたことでよく知られている。しかし、読んでいたら途中で﹃マトリクス﹄が脚本分析の対象として挙げられていたので、かなり違和感を覚えた。そこで﹁あとがき﹂などをチェックしてみたら、やはりというか、この本は初版以降何度も改訂されているらしい。 しかし、それにしても、この書物が﹃マトリクス﹄を分析の例として挙げるのはおかしい。﹃マトリクス﹄の脚本は、まさにシド・フィールド以降のハリウッドで形成された脚本作成のマニュアルに極めて忠実にのっとって書かれた
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現在の日本が置かれた状況を思うにつけ、今こそ我々は夏目漱石の小説を詳細に読み直すべきなのではないか、という思いにとらわれている。 日本近代文学の礎を築いた偉大なる文豪・夏目漱石。その名声と栄光はゆるぎないものに思えたが……千円札からもその肖像を外され、国語の教科書からもその作品は削られつつある。まさに漱石パージが進行する中で、日本人は、漱石を始めとする明治のパイオニアが築いた、何かとても大切なものを忘れつつあるのではあるまいか? そんな慨嘆の念を抑えることができないのである。 例えば、である。日露戦争直後という、近代日本の節目となるような社会状況の中で……我らが偉大なる夏目漱石は、かの名高き傑作小説﹃吾輩は猫である﹄において、そのものずばり、﹁大和魂﹂について詳細に論じているのである。名無しの猫の飼い主たる苦沙弥先生は、友人たちに、自作の文章を朗読しているのが、以下に引用する場面である
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ジョゼ・パジーリャの監督による﹃ロボコップ﹄を見てきた。もちろんこの映画は、第三作まで作られた有名シリーズの、現代に舞台を移しての、改めてのリメイクであるわけだが……あ、あれ? ……これ、面白いよ!? いや~、これは意外だった。駄作を見る気満々で見に行ったのだが……正直、もともとのシリーズ第一作のヴァーホーヴェン版より面白いんじゃないの? と思った。 今回のリメイク版﹃ロボコップ﹄を見てみると、同じネタを使いながらも、ヴァーホーヴェン版とは全く異なる方向性で映画化がなされていることがわかる。 ヴァーホーヴェン版の場合、舞台となるデトロイトは現実とはかけ離れた空想的な場所として描かれ、その上で、現実にはおよそあり得なさそうなロボコップというヒーローが現れ、ド派手なドンパチをやらかした。そういう勧善懲悪の強固な枠組みは保たれた上で、その内部で展開されるヴァーホーヴェンの悪趣味な演出を楽し
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SF小説を読んでいると、技術的に酷い水準のものが平然と流通していることに出くわすことが多く、呆れかえることが結構ある。 特に、語りの構造に対する自覚のなさという意味では、絶望的である。例えば、25世紀なり30世紀なりを語りの現在時とする語り手が、なぜか、20世紀や21世紀の英語や日本語の使用者にとってわかりやすく自然な表現を書き連ねる。また、25世紀なり30世紀なりに生きている人物にとっては常識的すぎてわざわざ説明の必要もないはずの説明が、︵ちょうど20世紀なり21世紀なりの人間にとっては飲み込みやすいようなほど親切に︶饒舌に語られる。 もちろん、ここには、SFそのものの持つジャンル的な特性が原因としてある。いかなる話者がいかなる聞き手に向けて小説の語りを遂行しているのかを意識しすぎれば、そもそも成立しなくなってしまうような作品も多い。逆にミステリであれば、話者がどのようなスタンスで誰
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