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都知事選
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最近、あるデータを見ていて気づいたのだけど、こと働き方に関して言うと、自分の世代とその下の世代を比較したときに、僕らは「好きなことを仕事にしたい」「リーダーシップや決断力のある上司が理想」という傾向が強いようだ。サンプルの偏りとか調査設計の問題はあるにせよ、どことなくイメージが浮かぶ結果だと思った。なんといっても、自己主張することと、自分を軸に考えることが結びついているのだと思う。 それは同世代から少し下くらいまでの人たちを見ていても感じるところだ。SNSでも隙あらば自分語りが展開されるし、「セルフブランディング」なんて言葉も飛び交っていた。心理学的には承認欲求の中でも「称賛獲得欲求」というのだけど、世の中の立場がどうあれ、まず自分に注目を集めたいし、称賛されたいという意思の強い人が目立つ。ちょうどベンチャーブームだとかSNSの登場だとかが重なった20世紀末から21世紀初頭にかけての動きが
批判的な思想の弱さ この数年、というかコロナ禍以後、「思想」というものに対してまったく期待が持てなくなっている。個別の思想の内容に、ではない。ほんとうなら、何かを伝え、誰かと別の誰かをつなげるはずの言葉が、誰かを傷つけたり、というより、傷ついたぞ、どうしてくれるんだと詰め寄られたり、そのせいで人々がいがみあったりするものになっていることに辟易している。あるいは、ちょっとした言葉尻を気にして「そういうこと言うとまた炎上するのでは」と怯えたり、センシティブになっている人を見かけたりするのも苦しい。 まず確認しておきたいのは、ここでいう「思想」はいわゆる哲学とか現代思想とか、あるいは文化人類学や精神分析、宗教学など、とりわけ人文系の学問と関わりの深い理論的な思考のことを指している。だから、個人の経験に基づく信念とか、世の中を生き抜く知恵みたいなものとは違って、「役立つ」ことを必要としていない。強
3月1日に東京・お台場にオープンした「イマーシブ・フォート東京」。事前に大きな話題を読んでいたことや、この分野について以前に論じていたこともあって、春休みのタイミングを利用して行ってきた。結論から言うと、自分が論じていた「没入性(イマーシブネス)」について実践的な取り組みが行われていることが確認できた一方で、今後に向けた課題も感じるものだった。 まず押さえておかないといけないのは、「イマーシブ」が2020年代のエンタメのキーワードになりつつあるということだ。イマーシブなエンタメには大きく言って、「イマーシブ・ミュージアム」のように、既存の絵画を動画化してプロジェクション・マッピングとして投影するタイプのものと、今回のイマーシブ・フォート東京のように演者が演劇を行う場面に一緒に参加できる「イマーシブ・シアター」がある。イマーシブ・シアターには、「ひろしまナイトミュージアム」のように舞台と美術
Shank et al. 2019より インタビューの結果からShankらは、人間がAIに対して心を持っているように知覚する条件には3つあると述べている。1点目は、AIがその時々の技術に対する期待を超えるような反応を見せること。この場合、人々は失望よりは驚きを見せることが多い。2点目は、AIが社会的な役割を担うこと。この場合に人々は、AIが本当に何らかの心を持っているように感じ、驚いたり不安を感じたりするという。Shankらは、AIが社会的な役割を担っていると感じることが、より強い反応を引き出していると分析している。3点目は、AIを擬人化することだ。つまり、AIが人間のような心を持っているのだと知覚することで、さらに強い心理的反応が見られるというのである。 もちろんデータとなっているインタビューは統制されたものではないし、その意味では個人の感想の寄せ集めだとも言える。とはいえ、「AIが心を
「AIによる業務効率化」がブームだ。といってもAIが仕事に使える、使わなければという機運が高まったのもこの1年足らずのことだし、技術動向が目まぐるしく変わっていることもあって、いまだ「定番」と呼べるスキルは生まれていない。プロンプトエンジニアリングが大事になるぞとか言われていたかと思えば、データ分析、画像生成、直近では動画の生成などが話題になり、「何に使える技術なのか」というイメージすら明確ではないのが現状だ。 こういうときに、新しもの好きというか、アーリーアダプター層とマジョリティの間の「キャズム」はずいぶん大きなものになると思われる。マジョリティ層が「使い方や規制の動向がはっきりするまで待っておこう」と考えるのに対し、アーリーアダプター層は次々と新しいものを試し、それによってAI活用の「コツ」のようなものを掴んでいく。おそらくそれはかつての「検索エンジンの使い方」と一緒で、言語化しづら
Twitterがいよいよヤバいらしい、という話が、再び話題になっている。イーロン・マスクが経営権を握って以降、似たような話は何度も囁かれていたが、今度こそは本物だ、ということのようだ。 ことの発端は日本時間の7月1日から2日にかけて、Twitterが全ユーザーに対して1日あたりの閲覧数を制限したことだ。上限の投稿数についてはたびたび変更が繰り返されたものの、春に行われたAPIの有料化に続いて大きなインパクトを持つ出来事だといえよう。 背景にあるのは、Twitterに対するスクレイピングがサーバーにもたらす過負荷らしい。ただこのスクレイピングも、そもそもAPIの有料化によってデータを取得できなくなったユーザーが代替策として行っているものである可能性が高い。さらに、Twitter内部のバグによってセルフDDos状態になっているとの指摘もある。単純に技術的な問題というよりは、経営の判断ミスがネガ
47歳の誕生日は、この数年でもなかったくらい、複雑な心境だった。自分の人生を振り返ると5年おきくらいに大きな転機が訪れるのだけれど、昨年秋から今年にかけての半年くらいの間、「もうこれまでの自分とは考え方も、やり方も変えなければいけない」という確信が日に日に強くなり、その新しい姿を求めて悩み、考え抜く時間がすごく多かったと思う。 実際、この春からとある企業の顧問に就任したり、その他にも新しいプロジェクトが始まったりしたこともあって、その「転機」は頭の中だけのことではなく、縁あって実際的なこととしても起きたのだけれど、それによって、これまでの自分の価値観や考え方の中にあった迷いや甘さのようなものを捨てなければいけなくなっている。 LifeのPodcastでも話したことだけれど、特にこの半年は、スピリチュアルな言葉を参考にすることが多かった。オカルトという意味ではない。そもそも合理的に考えたり解
公開直後に観に行って、ほんとうに声を上げて泣く寸前まで嗚咽したのが、新海誠の最新作『すずめの戸締まり』。過去2作と比べてもエンターテイメント性の高い、アクションありコメディあり感動ありの高い完成度には舌を巻いたし、ものすごいスクリーン数で公開されていたことを考えても、興行収入は記録的なものになるだろうという印象を持った。周囲に聞くと人によっては「難しい」という声もあったのだけど、公開直後から良質なレビューブログもたくさん書かれていたので、以前のような考察を書くほどでもないかなと思っていた。 ただ、少し時間がたってあらためて振り返ってみると、自分の気になっていた点について論じている人があまりいなかったことや、それが自分自身の考えてきたこととシンクロする論点であることにも気づいてきて、それならば、と少し書いてみることにした。以下では作品へのネタバレを含むものの、作品そのものへの批評や感想ではな
調べてみたら2014年以来8年ぶりだった、サマーソニック2022。普段は音源で「聴くだけ」の海外アーティストが多数来日ということもあって、これは行くしかないと意気込んで参戦。お目当てのステージを何度も行き来するハードなタイムテーブルだったけど、ものすごく満足できる内容だった。 この8年、またはコロナ前と比較して大きく変化したこととして、エンターテイメントと政治的なものの関係がある。アーティストたちはステージで、SNSで、自分たちの政治的なスタンスを表明するようになった。社会全体としても、価値観をめぐる議論が沸き起こることが多くなった。 今年のステージでは、リナ・サワヤマが自身の曲を紹介するMCでLGBTQの権利に言及。日本がG7の中で唯一、同性婚を認めていないこと、セクシャル・マイノリティをからかうようなジョークを言わないこと、自分たちと一緒に戦ってほしいということを訴えていた。続いて登場
もしかしたら、あれが生涯で最後の瞬間だったのかもしれない。ふと、そんなことを考えた。コロナで途絶えてしまった飲み会やイベント。誰かと話をしたこと。悔しくて涙が止まらなかったこと。自分は無敵だと思えた瞬間。あれもれこも、あのときが最後だったのかもしれないと。 懐かしいとか戻りたいとか、そういうことじゃない。すべてのものはいつかなくなってしまう。だからこそ、愛おしいとか美しいと思えたその瞬間を、永遠に記憶していられるくらいのつもりで全力で生きようと思っている。ただそれでも、あの瞬間はもう来ないのだという事実は、時間の流れの前に抗うことができる人間はいないという真理は、やっぱり体のあちこちを軋ませる。ちゃんと、明日死んでもいいと思えるくらいの今日を生きられているだろうか? 先日、沖縄に行く機会があって、いくつか戦跡をめぐった。おとなになってからそうした場所を真剣に見て回るのが初めてだったのですご
人から奪った時間は高く売れる。民放テレビ局の平均年収が異常に高い、あるいは一部のYoutuberの年収がトンデモないことになっているのはそういうことです。奪われた側はどうなるかというと見ての通りです。ホッブズ的に言えば現在の様相は「万人による万人の時間の奪い合い」です。 — 山口周 (@shu_yamaguchi) April 9, 2022 あとに続く議論も含めて考えると、じっくりと考えるべき論点はたくさんある。一方で、「人から奪った時間は高く売れる」という最初に提示された命題は、それ単体で検討するに値するものだとも思う。僕自身、時間と消費の関係についての著作があるくらいなので、せっかくだから思いついたことをいくつか書き連ねてみたい。 時間を奪うということ まず、命題を要素に分解しよう。この命題は「人から奪った時間」が主語になり、それが「高く」「売れる」という修飾語、述語につながっている
学者が論文を書くときのプロセスにはいくつかのパターンがある。先行研究を広く批判的に読み込んだ上でリサーチ・クエスチョンを立てるというのが正統派のやり方だと思うのだけど、僕が好きなのは、先行研究と最新の事例や現象を組み合わせて、既存の枠組みをアップデートするような研究だ。なので、書いたときにはまだはっきりしなかったけれど、あとになって振り返ったときに、この指摘はいまのこれを示しているのではないか、と思えてくることがある。 たとえば『ウェブ社会のゆくえ』(2013)は、後にポケモンGOが登場した際、現実空間と情報空間の関係を表す理論枠組みとしてたびたび言及されたし、社会学の教科書で書いた「グローバリゼーション」(2017)は、執筆時点でまだ起きていなかったトランプ現象やブレグジットの背景とされた、格差が生み出すグローバリゼーションへの反発を主題としていた。書いた方は、あまり自分の論考を振り返る
自分自身もそうなのだけど、周囲からも、ネットやSNSを見なくなったという声を聞くことが増えた。もともとROM専(見るだけで発言はしない人)の割合が諸外国と比較して高いのが日本のネット文化の特徴だけど、「見るに値する情報」がめっきり減ってしまったということの現れなのかもしれない。 実際、世の中はどこでもささくれ立っているから、流れてくる話題も、日々の感染者、それを受けての政治に対する文句、誰かと誰かの仲違い、炎上した芸能人、美容広告、事件、事故と、喜怒哀楽の中でも感情に偏りの激しいものばかりだ。こういうとき、何か言ってやりたくなるような話題こそ気をつけろ、と大学のときに授業で聞かされていなかったら、あるいはコメンテーターとして「何か一言」を求められるような立場にいなかったら、おしゃべりの好きな僕はいろんなことに首を突っ込んで燃えていたかもしれない。 そもそも、なんだってこんなに疲れることをし
大学教員になってから、年の暮れというものの感覚がずいぶん変わった。確かに学生たちの卒業論文・修士論文が大詰めの時期だからあまり気の休まることはないのだけど、一方でレギュラーの授業がない時期だというだけで、あるいは事務職員との打ち合わせや会議が入らないということだけで、普段よりものんびりできるようにも思える。考えごとをする時間が増えるから、1年を振り返りながら、余計なことばかり考えてしまうのは若い頃と変わらないのだけれど。 ただ今年に関しては、振り返っても「辛かった」「苦しかった」という思いがフラッシュバックするばかりで、あまり有意義なところはないかもしれない。たしかに昨年のように多くのものが止まってしまうという状態ではなくなった。だけど、「どの程度まで動くかは各自の判断に任せる」という世の中全体の方針が、昨年以上に僕たちをバラバラにしたように感じる。どのくらいリモートワークを続けるのか。い
再開されたからこその苦しみ 2021年も、昨年に引き続きコロナに翻弄された音楽業界だったと思う。昨年よりはリリースも増えたものの、多くの曲の歌詞に「延期」や「中止」といった言葉が直接的、比喩的に盛り込まれ、リスナーに届けるエンターテイメントというよりも、アーティスト、あるいは業界全体の苦しみを共有したいという思いがあちこちで見られた。 実際、去年よりは今年の方が苦しかったという印象はぬぐえない。ライブは再開され、大規模イベントも、様々な制約の中で開催されるようになった。だがそうやってボールが主催者、アーティスト側に投げられたことで「どこまでが許されるのか」を考えることも、彼らの役割になったのだ。緊急事態、自宅療養、アーティストへの感染などの話題が続き、「ギリギリまで悩んだのですが」というツイートを何度も目にした。何年も好きだったアーティストが、何組も活動を休止した。 だからこそ、というわけ
対面授業は再開されていないのか 大学では、後期(秋学期)がスタートする時期になっている。勤め先でも8月からワクチン接種が始まり、いまがちょうど2回めの時期ということで、副反応を理由に欠席する学生も多いようだけれど、夏休みの時期よりはキャンパス内もにぎやかになってきたように思う。 このように書くと、大学は再開しているのかと思う向きもあるかもしれない。しているとも言えるし、まだまだとも言える。毎日新聞が報じているように、ワクチン接種を進めている大学の中でも、スタートが遅れたことや緊急事態宣言下であることなどを理由に、後期のスタートから全面再開とはいかないのが実情だ。 ただ、ここで注意しなければいけないことがある。同じ記事にもある通り、ゼミや実習といった対面で開講することが望ましい科目については既に学内での受講が可能になっているということだ。これは勤め先に関して言えばこの春からずっとそうだし、昨
政府への不信が直接の原因ではない 3度めになる緊急事態宣言が出されて1週間。大型連休と重なることもあって宣言のアナウンスメント効果も期待されたが、現実には感染防止どころか、むしろ拡大する傾向にある。人々の行動抑制に対する効果のタイムラグを考えても、今回の「宣言」とそれに伴う措置が成果を挙げられていないのは明らかだ。 どうしてこうなってしまったのだろう。ネット上では、行動制限を促す一方でオリンピック開催に向けて突き進む政府の方針の一貫性のなさに呆れ、「もう従うだけバカバカしい」という声も散見されるようだ。だが、「政府の方針」と「行動を抑制する人が増えない」ことの間に、直接的な因果関係を見るのは難しい。本来、このふたつは独立の出来事であり、「政府は危険だと言っているが、コロナなんてただの風邪なのであり、感染防止なんてしなくてもいい」と考えない限り、両者が論理的に結びつくものではない。 東京都の
「対面の再開」と大学 コロナに翻弄され、学びの環境が激変した大学の2020年度が終わりを迎えようとしている。あと数日もすればキャンパスはまた新入生を迎えることになる。報道によれば少なくない割合の大学が「対面中心」の新年度を迎えるようだ。「中心」と言っても人によって受講している授業が異なるので、対面授業の割合をカウントすることに意味はない。ただ、昨年のように入学直後からキャンパスに入れず孤立した状態でオンライン教材と格闘するという事態は、学生にとっても教員にとっても避けたいところであるようだ。 自分の勤め先についても、ウィズコロナ時代の学びの情報環境構築に向けた取り組みは随分進んだように見える。ネットワークインフラの増強、動画素材の撮影・編集・配信のスキルや学生のITリテラシーの向上によって、「オンラインの長所を生かした学び」を提供したり享受したりする余地も増えた。1年前には「スマホしか持た
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