サクサク読めて、アプリ限定の機能も多数!
トップへ戻る
デスク環境を整える
www.kouhei-s.com
新たな情報 助詞「ハ」が承ける言葉は、すでに知られている既知のもの、助詞「ガ」が承ける言葉は未知のものであると、国語学者のパイオニア的存在でもある、文学博士の大野晋氏は説かれています。 Ⓐ花は咲いている といえば、すでに「花」は話題に上っていて、「花は(ドウシテイルカトイウト)咲いている」というように「花」をワザワザ取り立て、題目として扱い、「ハ」の下に「咲いている」という説明を加える文とされていることがわかるんです。 そう、極論を言うなら、「ハ」という助詞が出てきたら、それはもうひとつの説明文なんだと認識してもいいのかもしれません。 「ハ」の上の言葉が「問い」であり、「ハ」の下の言葉が「答え」ですね。ですが、 Ⓑ花が咲いている となると、突然そこに花を発見して驚く、あるいは喜び、それを目前の現実として描写した文になるんです。 「花が咲いていること」全体は一瞬にして認識されたのであり、それ
「何を言ってるのか わからない」の「何」 文章(テキスト)を「意味的に、1つのまとまりをなす文(センテンス)の連鎖である」と定義付けするなら、まず、そこに必要となってくるのは「結束性」です。 文連続としてつながれた結束的なテキストには、テキスト全体をつなぎ合わせる重要な役割を果たす「主題」が存在します。 テキスト全体には、その主題を含む「主題文」が散りばめられ、次々と話題となる主題を変えていくタイプもあれば、ひとつの主題が最後まで貫かれるタイプもあり、そのときの書き手の思惑によってさまざまなテキスト構成のあり方が提示されることになるんですね。 よく、何について語られたものであるかが上手く伝わらないときに、相手が「何を言ってるのかわからない」「何の話かわからない」などとよく言いますが、この「何」の部分にこそ、話し手が意図とする「談話の主題」が含まれているんです。 おそらく、その「談話の主題」
前提と含意 前回、全体をまとめ上げる役目を果たす文(センテンス)が文章(テキスト)の構成要素のなかに存在することを示し、その最も有効な例として名詞述語文の仕組みを提示しました。 ひとつのセンテンスだけに収まることなく、連文情報をつなぎあわせ、テキスト全体にまで影響を与えることの出来る表現には他にどのようなものがあるのか、今回も紐解いていきたいと思います。 まず、真っ先に思い浮かぶのは、「とりたて助詞」による主張提示の表現です。 「とりたて助詞」とは、それを含む文で述べられている命題内容(前提)と、それに対する話し手の捉え方(含意)を同時に表す、「は」「も」「さえ」「しか」「だけ」といった副助詞のことを示します。 たとえば、 「森本先生しか、味方になってくれなかった。」という文の場合、 Ⓐ『前提』森本先生が味方になってくれた(こと) といった事実(命題)があくまで前提にあって、さらに、 Ⓑ『
「文章」と「文」の違いをはっきりと意識する 「文章」というものを定義づけしようとすると、観点として、「文章」の単位性というものが重視されます。 「『メロスは激怒した。』という(文章)は名文なのだろうか」 「新聞の社説の(文)は読みにくい」 という言い方がよくされますが、これらは厳密には誤りで、 「『メロスは激怒した。』という(文)は名文なのだろうか」 「新聞の社説の(文章)は読みにくい」 と、されなければなりません。 まず、文章(テキスト)とは、ひとつひとつの文(センテンス)の集合体である、ということを自分のなかで明確に区分けづけることが必要になるのです。 そうすれば、次は、自然に文脈の存在というものを強く意識することになります。 文章のなかに複数の文が存在するからといって、それが必ず文章となるわけではありません。 そこに連続性を持つ文脈が存在してこそ、初めて文章として認められるんですね。
吾輩は猫ではある 「吾輩は猫である」という日本人なら誰もが知る有名な作品タイトルがあります。 もしこの作品が「吾輩は猫だ」というタイトルだったとしたら、ここまで国民的知名度を得ることが、果たしてできていたでしょうか。 「吾輩は猫だ」という文は名詞述語文であり、「吾輩は猫である」という文は動詞述語文になります。 「吾輩は猫だ」なんていう強く断定した言い方ではなく、「吾輩は猫ではある」と、「ある」という動詞を用いることで、ぼやかすような表現を用いり、「吾輩」のことなのに主観的にではなく、あえて客観的なニュアンスを醸し出す。 猫を擬人化させるというタイトル表現を、あくまでも自然に成功させている感じがするんですね。 「猫(ではある)」「猫(ではない)」に使われている(ではある)(ではない)というこのふたつの言い方は、日本語で判断を下すときに、肯定否定の典型的な表現方法となっているんです。 なぜなら
パラグラフとトピックセンテンス 文章教本としては、異例のロングセラーとなった木下是雄著「理科系の作文技術」。 物理学者の木下氏が、理科系の若手研究者や学生を対象として、論文、調査報告者といったレポート作成のための最も効果的な表現法を具体的にまとめ上げた一冊となっています。 エッセイや小説とは違って、理科系の仕事の文章というのは、そこに心情的要素を差し込む余地はありません。 実験研究をもとにした事実や状況と、それに伴う、判断や予測といった研究者の意見だけを、ただひたすらに淡々と現実の情報として、わかりやすく読者に伝達することを目的とする文章です。 そこで木下氏は、理科系の文章を書く心得として、「パラグラフ」の概念をもう一度、きちんと取り入れることを改革のひとつとして提唱されています。 パラグラフという言葉を日本語に言い換えるならば、長い文章のなかの一区切り(段落)という意味と同じ概念を持つも
血が通わない言葉 鋭い風刺とあふれるユーモア、言葉の魔術師と呼ばれた日本の小説家、井上ひさし氏。 「言葉を作ったのは人間なのだから言葉は楽しく使うべきである」という持論をもとに、戯曲、小説だけでなく、数多くの文章読本、文章入門書の書き下ろしを遺されています。 そして、その遺された数多くの文章読本で、井上氏が必ず取り上げているのが「複合動詞の重要性」についての指摘なんですね。 たとえば、井上氏は「自家製 文章読本」のなかで下記のように述べられています。 「とりわけ日本語の動詞は、そのままで単独で用いると、意味を訴える力が弱いのである。単独で用いたのでは意味が漠然としている。具体性に欠ける。現実と激しく斬り結ぼうとしない。生き生きしない。血が通わない。」 「その大きな原因は、日本語の構文では動詞がいちばん最後に来るせいである。構文全体で意味を拡げるだけ拡げてゆく、あるいは意味をつぎつぎに限定し
政教分離 794年に、国家権力の中枢として人為的につくり出された平安京。それは、政治的な意味を強く帯びた新政都市でした。 このとき同じタイミングで平安京に創建された東寺・西寺も、国家鎮護の目的だけで建てられたわけではなく、唯一この国で、公式に創り出され、認可されていた寺院だったのです。 それまでの奈良・平城京の社会では、多くの政治的矛盾をはらみ、政争と内乱を繰り返していたので、大仏開眼など仏教的霊験に頼らざるを得ない状況下に陥っていました。 そのために、玄昉・道鏡といった僧侶による政治的介入を許してしまうことになり、皇室の継承問題にまで関与させてしまうことになってしまうのです。 再び同じ過ちを繰り返さぬように、遷都を機に、桓武天皇は仏教界の政治的進出を許さず、徹底的に排除する方策を取っているんですね。 788年に根本中堂がすでに建てられていた比叡山・延暦寺ですらも、延暦の寺号を許されたのは
公武和合の舞台 大坂夏の陣、冬の陣が始まる少し前の1603年頃に、幕府本営・二条城は完成しました。 徳川家が上洛する際の宿所として造営されたこの城郭から、家康は戦場へと出陣しているんですね。 その後、1626年に三代将軍・家光が後水尾天皇を迎えるために二条城の大改修を行います。 つまり、寛永行幸ですが、家光は二条城へ天皇を招き入れ、公武和合の政策を天下に示したのです。 ところが、幕府が巨額の費用を注ぎ新装した二条城は、それから200年以上、たった一度も使われることはありませんでした。 4、50人の二条在番という留守番たちが暇をもて遊ぶ平和な日々が、ただ流れていたんですね。 幕末に徳川慶喜が来て、並ぶ大名たちを前に、その大広間で大政奉還を奏上する歴史的ステージとなるまでの長い間、まるっきり放置されていたのです。 そして、そのすぐ後に、明治維新を経て二条城は朝廷のものとなってしまいました。 二
事態はひとつの時間軸のなかで 今回は、複文の表現形式のひとつである「連用修飾節」の仕組みを紐解いていきたいと思います。 先行する連用修飾節には、それこそ様々な接続方法による表現形式があるのですが、基本的には、後行する文末の述語(用言)に向かって文意を繋げる役割を果たします。 よく使用される連用修飾節のひとつのタイプとして、「~たら」「~けれども」などの条件を示すもの、「~ので」「~ために」などの原因・理由を示すもの、といった論理的因果関係の接続助詞を語尾につけて主節につなげていく形があります。 宝くじが当たったら、家を買いたい。(順接条件節) いくら薬を飲んでも、いっこうに熱が下がらないのです。(逆接条件節) 風邪を引いたので、学校を休みます。(原因・理由節) このように、連用修飾節(従属節)と主節は因果関係をもって論理的に結びつけられているんですね。 連用修飾節で構成された複文の場合、主
長文を自由自在に 日本語における「複文」、つまり複雑な「文」というのは、いったいどのような構成で作られているのでしょうか。 一般に実用文では1文平均50文字が理想的な文字数だと言われてますので、1文100字を越すような「複文」になると、頭から読み下してそのまま理解することが若干難しくなってくるようです。 だから「文は短く、短くと心掛けて書くべきだ」と、どの作文入門書にも書かれているわけですが、やはり、字数にこだわることなく長文を自由自在に操って読み手に文意が通じるように書けるようになりたいものです。 では、どうすればいいのか。その答えはただひとつ。これは、「複文」として組み立てられているパターンにはどのようなものがあり、それぞれどの様な特質を持って表現されているのか、ということをまず徹底的に分析・比較するしかないんですね。 日本語の「複文」は「従属節」と「主節」で組み合わされていて、従属節
状況的枠組みの提示 作家やジャーナリストたちが雑誌記事やエッセイを書く場合、当然ですが、その紙面のスペースは限られています。 限られた紙面の中で簡潔に効率よく読み手に情報を伝えるために、彼らは冒頭の書き出しで、ある工夫をするそうです。 それは「状況的枠組みの提示」と呼ばれていて、これから述べることがらの背景的状況をいきなり冒頭で提示するという手法です。 ハードボイルド小説の書き出しで目にされたり、シリアスタッチな刑事ドラマの語り出しなんかで耳にされたことがあるかも知れません。 私が律子に出会ったのは、2年前の、乾いた静かな夏の日のことだった。 ジュリーの愛称で知られる沢田研二が京都・河原町にあるダンス喫茶「田園」でボーイをはじめたのは、昭和40年のことでした。 ふたつの例文ともに、このあと「2年前の夏の日」、「昭和40年」について述べられていくのではありません。 あくまで「律子」と「沢田研
無言の読み手 文章表現という「書き言葉」は、会話コミュニケーションという「話し言葉」とは違って、あくまでも書き手からの一方的な伝達手段に過ぎません。 ですが、常に無言の読み手を意識し、対話を頭に想定しながら、言葉が紡ぎ出されていく表現であることに、違いはないはずです。 「話し言葉」というのは「声」を持って聞き手に伝える手段なのですから、当然、「音声ボリューム」の強弱を調整することが出来ます。 最も強調したい指示対象の部分にインパクトを加えて強く発声することで、聞き手に注意を促し意識させることが可能になります。 でも、音を持たない「書き言葉」では、そんなふうには表現することは出来ないんですね。 ではどうすればいいのか。「!」マークをつけたり、強調したい指示名詞だけを太字にすることで解決できるのかといえば、やはり、それでは難しいのだと思われます。 それらは読み手からすれば、仰々しくダイレクトに
次のページ
このページを最初にブックマークしてみませんか?
『京都案内 こうへいブログ 』の新着エントリーを見る
j次のブックマーク
k前のブックマーク
lあとで読む
eコメント一覧を開く
oページを開く