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夏の料理
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父は元競輪選手で、僕は2015年の自転車競技で世界ジュニア王者。そう言うと、ほとんどの人が「エリート」という目を向けてくる。きっと、小さい頃から自転車の英才教育を受けてきたのだろう、と。 でも、実は僕が競技を始めたのは高校生になってからだ。それまでは、いわゆる「ママチャリ」にしか乗ってこなかったし、単純に移動手段として近所で使うくらいだった。父が出ている競輪のレースすら見たこともなかった。 自分が特別だとは思わない。ジュニアからシニアのカテゴリーに移ってからは、納得のいく結果を手にしてきたわけでもない。まだまだ無名の、一人の選手に過ぎない。 虹の麓には幸せがあるという。くしくも、自転車競技のトップ選手のみが着ることを許される憧れの「マイヨ・アルカンシエル 」のジャージは、虹色だ。 パリ2024オリンピックまであと2年。ここからの成長を積み上げること、「たたき上げ」のストーリーを紡ぐことこそ
日本語版はこちら This time three years ago, I was literally working a 9-to-5 job. Actually, it was more like a 5-to-3. Five in the morning to three in the afternoon. This was in 2020, after the minor league season was canceled. I had moved back home from spring training in Jupiter, Florida, to my parents’ place in El Segundo. And at first it was sick. I’d wake up, throw on some sweats, and head over to US
ヘリコプターからぶら下がっている。 上空100フィートで、ロープとハーネスで固定されている。1998年3月のことだ。nWo vs. WCW時代最高潮の時期。俺は、“クロウ”スティングのフェイスペイントをしている。普段なら、会場の垂木で待機していて、出番を待っている。一言も発さない。そしてショーのクライマックスを迎え、天井から一気に降下し、俺様の黒バットでバッドガイどもにきっちり挨拶させてもらう。 でも、今回ばかりは勝手が違う。今回の興行は、パナマビーチでのスプリングブレーク特別版ナイトロで、垂木なんてない。屋根もない。スプリングブレークの狂騒の真っ只中、屋外での興行だった。これでは、この夜はスティングが天から降臨し、いつものようにnWoを駆逐するチャンスはない。そうだろ? スキアボーネも、ビショッフも、ホーガンも、俺は現れないと言っていた。 マイクを手に持ち、ファンを挑発していた。「よう、
To Read in English, click here. 僕にとってNBAでの5シーズン目が、いよいよ始まりました。 今日は、今シーズンからお世話になるブルックリン、そして昨シーズンまで在籍したトロント、この2つの街とチームについて想いを伝えられたらと思います。 まずはマンハッタンからイースト川を渡った位置にある街・ブルックリン。 僕はこの街と何か不思議な縁があると感じています。 というのも、9年前にバスケットボールの本場アメリカにやってきた僕は、節目節目でこの街にいたからです。秋景色になり少し肌寒くなったこの街並みを歩くと、特別な思い出がよみがえってきます。 5シーズンに渡って一度も開幕ロスターが確定していない“崖っぷち”の状態からのスタート - 渡邊雄太 今から4年前。ジョージワシントン大学を卒業した僕は、NBAのドラフトで指名されることを目指して様々なチームを渡り歩き、ワークア
今年もメジャーリーグで、大谷翔平選手が圧倒的な存在感を見せつけファンを魅了している。打って良し、投げて良しの二刀流。僕ら世代が考えていた野球とは、まったくかけ離れた世界にいるといって良い。本当にすごい。 僕にとって、彼は現役時代最後に対峙したバッターでもある。その時投じた8球が、「黒田博樹から大谷翔平への無言のメッセージ」として受け止められているのだと、メディアの報道を通じて最近知った。 大谷選手が「ほぼ全球種を打席で見ることができた。間合いやボールの軌道が勉強になった」と言ってくれていたらしい。何しろ普段から自分に関わる報道は目に入れないようにしていたので、これまで知る機会がなかった。 大変光栄に思うと同時に、「いや、あれは大谷選手自身が僕から引き出してくれたものだったんですよ」と言いたい。意図的に球種の幅を見せよう、なんて余裕はなかった。6年ほど前のことなので細かいことは覚えていないが
To Read in English(Published May 20, 2022),click here. こんなこともあるさ。 時として、こういうのは本当にシンプルなんだ。 僕はバスケットボールを生業にしている。バスケをプレーしていれば、ケガをすることだってある。メンフィスでの(NBAプレーオフ、ウェスタン・カンファレンスセミファイナル)第2戦が行われた夜...ケガをした。起こってしまったことは仕方がないし、不運だった。でも正直なところ、それほど落ち込まなかったんだ。 あのプレーで起こったことについて、さまざまな論争もあるだろうけれど、僕があの出来事で一番記憶に残っていることは何だと思う? 与えられたフリースローさ。 コートに叩きつけられた後、フリースローを打ちたくて仕方がなかった。悲しさ全開ですぐにロッカールームに下がることだけはしたくなかった。せめて、チームのために点を決めるまでは
悔しくて泣くのは、あれが最後だと思う。 4年前、僕はまだ16歳で、鈴鹿サーキットレーシングスクールの生徒だった。ホンダのフォーミュラ・ドライバー育成プログラムに入るための最終選考会。受かったら翌年の国内F4で走れるが、落ちたら……僕はあのとき、レースをやめようと思っていた。 F1という舞台の入り口に立ったいま。振り返ってみると、あれが人生の分かれ目、ターニングポイントだった。 その年の選考会は、すでにF4で走ったことがある経験者だけじゃなく、海外を経験して帰ってきている選手もいたので、もちろん受かるかどうかはわからなかった。 ただ僕は4歳からずっとカートでレースをやってきて、順調に成績も収めてきた。その年、スポット参戦を許してもらったフォーミュラのデビュー戦では史上最年少で表彰台、スーパーFJ日本一決定戦では初優勝。スクールでも最終選考会まではいい結果が出ていて、それまでのポイントの合計で
元プロ野球選手が、学校をつくる。 普通に考えれば、少年野球やリトルリーグに関連した「野球の学校」だと想像されるだろう。でも、僕がつくったのは小学校だ。6年間の義務教育。子どもたちが学び、育ち、挑戦する場所。 きっと、地元・福岡の知り合いたちは、ひっくり返って驚くだろう。 僕だって、野球1本でやってきた自分が、まさか学校経営に携わるようになるとは考えていなかった。若い頃の自分は、1%だってそんな未来は思い描いていなかった。 じゃあ、なんで――? その答えは、やっぱり野球にある。 野球を通して培ってきたあらゆる経験が、僕を自然と教育現場に導いた。 この4月、札幌市に念願の小学校、「田中学園立命館慶祥小学校」が開校した。僕はその理事長。いまは、この道を歩んでいくことに、とてもワクワクしている。 2013年秋。僕はベネズエラにいた。世界で三本の指に入る犯罪の多い国と言われている。 米大リーグ挑戦1
To Read in English(Published Jan 3, 2018),click here. これまでもたくさんのリストを作ってきた。だけど、今回のような企画は初めてだ。過去に対戦した中で個人的に好きな相手だって? どう考えても俺らしくないじゃないか。 リスト作成の面白いところ。それは、食料品、子供の名前、最悪の相手、何だっていい。短くても、長くなっても、番号をつける形でも、箇条書きスタイルでも、何だって構わない。どんな形にしたっていいんだ。 ジェリコ中毒者でもリスト中毒、愛好家でも誰でもいい。これが俺のリストだ。みんな、ぜひ楽しんでくれ。 ウルティモ・ドラゴン(WAR、1995年7月7日) ウルティモと出会ったのは、俺たちがCMLL(当時メキシコ最大のプロレス団体)で試合をしていた1993年だった。一緒に興行をするようになってから、俺たちがリング上で素晴らしい化学反応を起
3月8日は国際女性デーです。僕は、8年間のプロ野球選手としてのキャリアを通して、球界の女性に対する態度が徐々に変化してきていることを自分の目で見てきました。今日はそんな僕の経験をみなさんに共有したいと思います。 フロリダ州ダニーデンのスプリングトレーニング施設に初めて足を踏み入れたときに最初に気付いたことは、ブルージェイズで働く女性の数の多さでした。ブルージェイズは多くの女性を雇用しているだけでなく、その女性たちは打撃コーチからフィジカルコーチ、バイオメディカルエンジニアにも配属されています。これらの役職はこれまで長い間、MLBでは男性のみが担っていた役職です。 僕は8シーズンもプロ野球でプレーすることができ、さまざまなチームでプレーする機会をいただけたことをとても幸せに思っています。その間に僕が学んだことの1つは、野球界は常にものすごいスピードで変化しているということです。野球界で女性が
2008(平成20)年8月23日――。 僕はこの日を一生、忘れないと思います。この日、中国・北京ではオリンピック野球競技の試合が行われていました。日本代表チームはアメリカとの3位決定戦に臨んだものの、4対8で敗れてメダル獲得はなりませんでした。その敗因となったのが、逆転のきっかけとなった僕の落球でした。 実はその前日に行われた韓国戦でも、僕は2つのエラーを犯しています。オリンピックの大舞台で、まさかの3つものエラー……。 金メダルの夢が僕のせいで途絶えてしまって、本当に申し訳ございませんでした - G.G.佐藤 日本代表チームを率いる星野仙一監督は、大会前に「金メダル以外はいらない」と宣言していました。しかし、僕のエラーによって、金メダルどころか、銅メダルさえも獲ることができませんでした。最後の試合が終わってホテルに戻った後、チームメイトに合わせる顔がありません。「死にたい」という思いを抱
To Read in English (Published Oct 14, 2019), please click here. 親愛なる17歳のジャンルイジへ。 多くの人生経験を重ねて、間違いも犯してきた41歳の男として、今夜、私はこの手紙を君に宛てて書く。いいニュースも悪いニュースも伝えようと思うけれど、実は、君の“魂”について語ろうと思ってペンを取った。 そう、君の魂だ。まだわからないかもしれないけれど、君はそれを持っているんだ。 まず、悪いニュースから始めよう。君は17歳。夢にまで見たプロのサッカー選手に、いままさになろうとしている。自分は万能で何でも知っていると思い込んでいる。だが実際は、残念ながらまだ何ひとつわかっていない。 数日後、君はパルマの選手としてセリエAデビューのチャンスを得ることになるだろう。だが、まだ怖いもの知らずで無知なだけだ。夜は温かいミルクでも飲んで早く寝るの
【Dear Jeter | 松井秀喜】はこちら English version please click here. 「ヤンキースでワールドチャンピオンになりたい」 この夢を実現するために、日本を飛び出したのが2003年。あれから18年が経ち、気づけばアメリカで生活した月日が、生まれ育った故郷・石川で過ごした歳月を超えようとしています。 夢を現実にすると決意したのは、1999年の秋です。 その年、所属していた読売巨人軍がリーグ優勝を逃し、少し早いシーズンオフに入ったので、ヤンキースのプレーオフをニューヨークで観戦したいと思い、すぐにニューヨークに向かいました。リーグチャンピオンがかかったヤンキースとレッドソックスの試合を観戦する機会を得ることができました。当時のヤンキースはまさに黄金時代。ピンストライプのユニフォームをまとった名選手たち、スタジアムの雰囲気、そして肌で感じる緊張感。すべてに
To Read in English, please click here. 私は6年半前に、ちょっと“らしくない”ことにチャレンジしました。ヤンキースの選手として現役生活を終えた2014年10月のことでした。それまでの人生のほとんどを大きな夢の中で過ごしてきましたが、新たな情熱を捧げられる次のステップに進むべきことを理解していました。 私の決断は、多くの人を驚かせることになりました。少数精鋭の信頼できるメンバーとともに、あるネットメディアを立ち上げることにしたのです。 それが「ザ・プレーヤーズ・トリビューン(TPT)」でした。 発想は至ってシンプルです。アスリートが自分の言葉で、自分自身のストーリーを語ることができる場を作ろうと、私たちは考えました。 彼ら、彼女らが、ありのままでいられる場所です。 そしてこの数年間で、私は「ザ・プレーヤーズ・トリビューン」の存在意義を再認識する機会を幾度
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