大塚英志『サブカルチャー文学論』を一応読了、『「おたく」の精神史 1980年代論』(講談社現代新書)[bk1 amazon] にとりかかる。個人的に、いろいろと痛い指摘が多い。たとえば湾岸戦争時の文学者の「声明」について論じたあたりでこう書かれている: あの文学者の声明は、80年代にすっかりボーダーレス化してしまった「知」とサブカルチャーの境界の一種の仕切り直しとしての側面があった(中略)。蓮實重彦が業界系少女まんが家とカフェバーか何かで同席してしまっている自分に困惑したエッセイを書いたのが80年代半ばだったが、そういった自体に「知」の側の人たちがいいかげん耐え難くなっていたという印象がその時点であった。 もっともぼくに言わせればサブカルチャーの方に足を踏み入れてきたのが「ニューアカ」や「ポストモダン」といった類の「知」やら「文学」の側であり、その結果としてぼくのようなおたく系のライターと
方法論的メモ オタク系サブカルチャーの研究をポストモダン社会論として行うことにはそれなりの危険がある。近年のマンガ研究において浮上した「反映論」と「表現論」との対立という偽の構図に照らしていえば、もちろん「表現論」が正しい――というかその次元を踏まえずにはマンガとか映画とか文学を社会学の素材として用いることに意味はない。「反映論」はそれなりに根拠はあるにしても、必ずしも自明ではない前提――芸術作品だのエンターテインメントだのにおいて表現される物語その他の内容が、現実社会において生起している現象、問題を、デフォルメしつつ有意味な形で表現している――に乗っかっている。しかしもちろん、こういう「素朴リアリズムへの信頼」は必ずしも自明ではない。たとえば文学やマンガの中で多重人格が好んで素材として取り上げられているからといって、それが現実における多重人格現象を適切に反映しているとは限らない。 という
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