「なぜ人を殺してはいけないのか?」に対するニーチェの答えが「すごい」と騒がれているが、実はもっとぶっ飛んですごい 『たまたま「これがニーチェだ(永井均)」を読んでいたら「なぜ人を殺してはいけないのか?」という問いにニーチェがどう答えたかという話があったので一部引用してみます。』 という小野ほりでいさんのツイートに対し、「ニーチェの答えがすごい」というコメントがいくつも寄せられています。 その小野ほりでいさんのツイートで引用されたのは永井均『これがニーチェだ』の以下の部分です: この問いに不穏さを感じ取らずに、単純素朴に、そして理にのみ忠実に、答える方途を考えてみよう。相互性の原理に訴える途しかないー きみ自身やきみが愛する人が殺される場合を考えてみるべきだ。 それが嫌なら、自分が殺す場合も同じことではないか、と。だが、この原理は、それ自体が道徳的原理であるがゆえに、究極的な説得力を持たない
論理学における誤謬(ごびゅう、英: fallacy[注 1])とは、誤った推論のことである。平易には「論理の飛躍」などと表現される。誤謬には「形式的」なものと「非形式的」なものがある。論理学やその周辺分野では、結論の正否を問わず「誤謬」という。意図的な誤謬は「詭弁」という。 概説[編集] アリストテレスのころから、非形式的誤謬はその間違いの根源がどこにあるかによっていくつかに分類されてきた。「関連性の誤謬」、「推論に関する誤謬」、「曖昧さによる誤謬」などがある。同様の誤謬の分類は議論学によってももたらされている[2]。議論学では、論証(論争)は合意を形成するための個人間の対話プロトコルとみなされる。このプロトコルには守るべきルールがあり、それを破ったときに誤謬が生まれる。以下に挙げる誤謬の多くは、このような意味で理解可能である。[要出典] 個々の論証における誤謬を認識することは難しい。とい
『素晴らしき日々』の雑感。終ノ空IIまで一通りやってから再びDown the Rabbit-Hole STORY:Aをプレイするとかなり印象が変わって、素晴らしいなーという印象に。twitterにだいたい書いてしまったので、そのまとめ的な記事。基本的に蛇足。 ウィトゲンシュタインとか "Tell them I've had a wonderful life." ―Ludwig Josef Johann Wittgenstein 『素晴らしき日々』という題名の元ネタはおそらくウィトゲンシュタインが死ぬ間際に言ったとされるこの言葉だろう。そもそもすば日々がウィトゲンシュタインの思想から大きな影響を受けている事は周知の事実なので、まずは僕に分かる範囲でウィトゲンシュタインに関連するあたりの話を。 まず、Down the Rabbit-Hole STORY:BやIt's my own Invent
「弁証法」や「アウフヘーベン」といった哲学用語の基礎知識をおさらいするとともに、近代小説の雛形を作った「教養小説」の中でそれらの要素がどのように取り入れられているのか、現代小説との比較も交えて解説します! 2018/05/25 皆さんは年配の上司と会話している時に「弁証法」や「アウフヘーベン」という単語が出てきて当惑した経験はありませんか? そんな時、 「確かに、この局面ですと弁証法的に考えることが重要ですよねー(なにそれ?)」 「ああ、アウフヘーベンですね。よくわかります(……ヨーロッパのお菓子かな?)」 ……といったような、知ったかぶりの相槌をいれてしまってはいないでしょうか? 「弁証法」、「アウフヘーベン」、いずれも哲学用語なのですが、岩波文庫などを片手に西洋人文学の古典を議論し、教養を身につけることが“クール”だった昭和の時代には、知性をアピールするためにはこれらの哲学用語を使いこ
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