三根山藩

日本の江戸時代末期(幕末)~明治時代初期に、越後国に所在した藩

2024年3月15日 (金) 15:12; 故城一片之月 (会話 | 投稿記録) による版 (→‎職制)(日時は個人設定で未設定ならUTC

(差分) ← 古い版 | 最新版 (差分) | 新しい版 → (差分)

三根山藩(みねやまはん)は、江戸時代末の越後国蒲原郡三根山(のちの西蒲原郡巻町嶺岡→峰岡、現在の新潟市西蒲区峰岡)にあった藩。藩主は譜代大名牧野家

三根山藩址公園(陣屋跡)にある「三根山藩址之碑」(新潟市西蒲区

沿革

編集

三根山分知

編集

1634 11521()駿6000[1][1]1 5000[2][2]

三根山藩立藩

編集

18633500011000

561862(2)411000[3][3]


戊辰戦争とその後

編集

48122187031871
 
三根山藩址公園にある米百俵の碑

米百俵の逸話

編集

宗家の長岡藩は北越戊辰戦争敗戦後に極度の食糧不足に陥ったため、急遽三根山藩が100俵ほどの義援米を送り届けたが、その義援米の扱いをめぐって長岡藩が人材育成を優先したことが、後に戯曲化されて「米百俵」の美談として世に知られるようになった。

領地変遷

編集


1634(11)521() - 17(6000)[4]

1692(5)124 - 35(6000)[5]

1856(2)11 - 45[6]

1869(2)124 - 44500[7][4]

1871(4)71412(2)[8]

三根山藩の機構

編集

職制

編集



[9]

家格

編集



[10][5]

17 [11]

主要家臣

編集

33200[12]

家臣数と俸禄

編集

1848641863377392313918727調6658124[13]

78[14][6]

歴代領主・藩主

編集
牧野家
旗本寄合 6000石 (1634年 - 1863年)
  1. 定成(さだなり)
  2. 忠清(ただきよ) 養子、定成の弟
  3. 忠貴(ただたか)
  4. 忠列(ただつら) 養子、秋月種封の子
  5. 忠知(ただとも)
  6. 忠義(ただよし)
  7. 忠救(ただひら)
  8. 忠衛(ただもり) 養子、松平乗寛の子
  9. 忠直(ただなお) 養子、奥平昌高の子
  10. 忠興(ただおき) 養子、松平乗美の子
譜代 11000石 (1863年 - 1871年)
  1. 忠泰(ただひろ) 養子、五島盛保の子[15]

江戸屋敷変遷

編集

1650(3)9() - 西

1729(13)325 - 

1736()8 - 

1751() - [7]

1817 (14)85 - 

1831(14)620 - ()[16]

脚注

編集

注釈

編集


(一)^ ()()()6003694

(二)^  211000

(三)^ 1754()4526

(四)^ 4331

(五)^ 

(六)^ 186621.8278.2%66.4%

(七)^ 1812 996000() () 1816 13 

出典

編集


(一)^  15521

(二)^ 2

(三)^ 18-19

(四)^  34-35

(五)^ 56

(六)^ 589︿2

(七)^ 19011329-330

(八)^ 20310

(九)^ 34-3516西

(十)^ 35西

(11)^ 35西

(12)^ 3574611498

(13)^ 38-39

(14)^ 40498

(15)^ 8-17

(16)^ 8-172

参考文献

編集
  • 今泉省三『長岡の歴史 第1巻』野島出版、1968年
  • 長岡市史編集委員会編 『長岡懐旧雑誌』長岡市史双書 No.25、長岡市、1996年
  • 武田広昭編『三根山藩』巻町双書第二十集、1968年10月10日

関連項目

編集
先代
越後国
行政区の変遷
1634年 - 1871年 (三根山藩→嶺岡藩→嶺岡県)
次代
新潟県