偕行社
日本の東京都千代田区にある公益財団法人
公益財団法人偕行社(かいこうしゃ)は、日本の公益財団法人。大日本帝国陸軍の元将校・将校生徒・軍属高等官および、陸上自衛隊の元幹部の親睦組織。
概要
前身は、戦前に帝国陸軍の将校准士官の親睦・互助・学術研究組織として設立された同名の﹁偕行社﹂︵旧偕行社︶で、戦後は旧陸軍の元将校・将校生徒︵陸軍将校養成過程にあった者、すなわち士官候補生︵主に士官学校本科・航空士官学校生徒︶・予科士官学校生徒・各幼年学校生徒など︶・軍属高等官︵将校待遇の陸軍軍属たる文官︶および、陸上自衛隊の元幹部自衛官といったOB・OGの親睦・互助・学術研究組織として、会名をそのままに﹁偕行社﹂として運用されている。
元々が旧陸軍の組織であったため、戦後も正会員は元将校・将校生徒・軍属高等官に限られていたが会員の高齢化が進み、1992年︵平成4年︶に18,715人を数えた会員も物故による退会者が毎年500名を数える状況になり、2001年︵平成13年︶の評議会において規則が改定され、主として陸自の元幹部自衛官であった者の正会員資格が認められるようになった。
会名の﹁偕行﹂とは詩経に収められている漢詩﹁修我甲兵 興子偕行﹂︵訳‥﹁鎧、打物、うち揃え 二人で行こうぜその時は﹂︶に由来し、﹁共に行こう・共に軍に加わろう﹂の意。機関紙﹃偕行﹄や、戦史資料集、詔勅集など幾つかの書籍を発行している。
歴史
戦前
帝国陸軍の創建まもない1877年︵明治10年︶2月15日、陸軍将校の集会所・社交場︵将校倶楽部︶や一種の迎賓館として東京府九段に集会所︵九段偕行社/東京偕行社[1]︶が設立されたことに始まり、以降各地の師団司令部所在地に偕行社が設立された。偕行社は財団法人として、現役・予備役を問わず陸軍将校准士官ら会員同士の親睦、学術︵世界戦史/軍事史・戦術・戦略・兵器等︶研究や論文発表とそれらを掲載した﹁偕行社記事﹂の刊行、陸軍軍人の英霊奉賛と、戦争・事変・事件犠牲者の救済を主な活動としていた。運営は会員である陸軍将校の会費によってなされた。
また、偕行社は一種の企業としても一大組織であり、各地の偕行社では将校准士官および見習士官を対象とする軍服を筆頭とする各種軍装品[2]︵軍服︵冬衣袴・夏衣袴・防暑衣袴・外套・マント・正衣袴ほか︶、軍帽・略帽・正帽、手套・シャツ・パンツ・袴下・襟布・袖布・カフリンクス、軍靴︵長靴・短靴・半靴・編上靴︶、脚絆・革脚絆、軍刀・指揮刀・刀帯、拳銃・拳銃嚢・双眼鏡から、陸軍記念日や陸軍特別大演習といった行事記念品など︶の製作・販売、および陸軍将校や関係者用の喫茶店・旅館︵各地の偕行社に付属︶、学校の経営なども広く手がけていた。
偕行社製の被服には﹁Kaikosha﹂﹁偕行社﹂﹁陸軍偕行社軍需部﹂﹁九段偕行社﹂﹁大阪偕行社酒保部﹂の文字に﹁桜﹂や﹁五芒星﹂などが描かれたタグが付され、基本であったテイラー・メイドの仕立て品のみならず、太平洋戦争︵大東亜戦争︶期には広く流通した既製服︵通称﹁吊るし﹂︶も販売され、多くの陸軍将校准士官が偕行社製の軍装品を利用した。
大阪偕行社︵第4師団︶は付属の私立学校たる小学校︵大阪偕行社付属小学校︶を有しており、これは名門小学校として陸軍幼年学校進学を目指す高級軍人子弟のみならず、財界・法曹界・医学界といった上流階級の子弟を主な生徒として有していた[3]︵大阪偕行社付属小学校は戦後に追手門学院小学校となる︶。このほか、旭川偕行社付属北鎮小学校︵現‥旭川市立北鎮小学校︶[4]や広島偕行社附属済美小学校が存在し、またいずれも名門小学校であった。
戦後
第二次世界大戦敗戦により偕行社は一時解散したが、1951年︵昭和26年︶頃から有志が集まり帝国陸軍の伝統を継ぐものとして翌1952年︵昭和27年︶に﹁偕行会﹂として復活、1957年︵昭和32年︶12月28日に名称をかつての﹁偕行社﹂に戻し財団法人化された︵﹁財団法人偕行社﹂︶。なお、旧海軍において偕行社に相当する親睦組織・水交社は戦後に同じく復活したものの、旧陸軍の伝統を継承し会名を元に戻した偕行社とは異なり、水交会に変更している。
旧海軍・海上自衛隊の水交会は海自関係者︵現職者・退職者・遺族・家族︶が全会員の半数に上るが、偕行社では2006年︵平成18年︶末には陸自関係者630人程に留まっていた。しかしながら、将来の陸自の国軍︵陸軍︶化を睨み偕行社も伝統の継承へ乗り出しており、2006年4月には陸上幕僚長から各陸自部隊宛に﹁会の活動を支援せよ﹂との通達が発され、翌2007年︵平成19年︶からの1年間で400人もの幹部自衛官OBが新入会した。2010年︵平成22年︶3月末における会員数は10,000人︵内‥幹部自衛官OB 1,000人︶。
2011年︵平成23年︶2月1日には公益財団法人の認定を受け、﹁財団法人偕行社﹂から﹁公益財団法人偕行社﹂となる。
会館
戦災を免れた日本全国および外地の偕行社の会館は、進駐軍の接収︵アメリカ軍のクラブ化︶などを経て多数が現存している。主なものとしては、旭川市の旧旭川偕行社︵第7師団︶、弘前市の旧弘前偕行社︵第8師団︶、金沢市の旧金沢偕行社︵第9師団︶、善通寺市の旧善通寺偕行社︵第11師団︶、豊橋市の旧豊橋偕行社︵第15師団︶、岡山市の旧岡山偕行社︵第17師団︶、台湾・台南市の旧台南偕行社︵台湾軍︶等。
特に旧旭川偕行社は﹁中原悌二郎記念旭川市彫刻美術館﹂として、旧弘前偕行社は﹁弘前厚生学院記念館[5]﹂として使用され、旧善通寺偕行社は本館横に新設した別棟を﹁偕行社かふぇ[6]﹂として開放している他、自衛官等の採用試験会場、第14音楽隊定期演奏会場、ふれあいパーティなど自衛隊と地元住民との交流の場として、また結婚式会場としても使用されている。これらは重要文化財の指定︵国指定︶を受けている。また、旧金沢偕行社は第9師団司令部庁舎ともども石川県庁の分室として使用され、かつ県指定有形文化財[7]に、旧岡山偕行社は岡山県総合グラウンドのクラブハウスとして使用され、日本の貴重な近代建築物として保存され、国の登録有形文化財に登録されている。
戦後歴代会長・理事長
戦前はその時々の陸軍大臣が偕行社社長を兼務した。戦後しばらくは畑俊六元帥陸軍大将など元将官らが偕行社会長を、1980年代以降は帝国陸軍OBである元将校・士官候補生が理事長を務めていた。現在の偕行社理事長は防衛大学校卒業︵1期︶で陸上幕僚長たる陸将だった志摩篤。
- 鈴木孝雄:1954年(昭和29年)4月18日 - 1958年(昭和33年)7月20日
- 畑俊六:1958年(昭和33年)7月21日 - 1962年(昭和37年)5月10日(在任中逝去)
- 山脇正隆:1963年(昭和38年)2月6日 - 1969年(昭和44年)1月28日
- 菰田康一:1969年(昭和44年)1月29日 - 1974年(昭和49年)12月31日
- 辰巳栄一:1975年(昭和50年)1月1日 - 1978年(昭和53年)12月31日
- 杉山茂:1979年(昭和54年)1月1日 - 1980年(昭和55年)12月31日
- 竹田恒徳:1981年(昭和56年)1月1日 - 1989年(平成元年)12月31日
- 白井正辰:1990年(平成2年)1月1日 - 1990年(平成5年)
- 原多喜三:1990年(平成5年)-
- 役山明: - 2005年(平成17年)
- 山本卓眞:2005年(平成17年) -
- 志摩篤:2012年(平成24年) -
社会活動
靖国偕行文庫
偕行社から靖国神社に建物と旧蔵書を奉納(寄贈)し、1999年(平成11年)より靖国偕行文庫として公開されている。同文庫には水交会から奉納(寄贈)された書籍も含まれるという。靖国神社公式サイトでは「靖国神社に鎮まる英霊の戦歿された当時の調査資料を整備し、その御遺徳を顕彰するとともに、後世の研究に資することを目的とした図書館」と説明されている。
その他
- 偕行社日露戦史刊行委員会 編著『大国ロシアになぜ勝ったのか---日露戦争の真実』芙蓉書房出版、2006年 ISBN 4-8295-0373-4
- 2009年9月、軍事史学会と偕行社近現代史研究会が主催し、シンポジウム「ノモンハン事件と国際情勢」が開催された。
脚注
- ^ 国立国会図書館 写真の中の明治・大正 東京偕行社
- ^ 他の近代列強各国軍と同じく、日本軍において軍服や軍刀など将校准士官の軍装品の大部分は基本的に自弁調達であり、個人の嗜好で誂える私物であった。なおこれら軍装品は偕行社のほかには、民間の紳士服店・軍装品店・百貨店などでも取り扱っていた。
- ^ 学校法人追手門学院 追手門学院小学校
- ^ 旭川市立北鎮小学校 沿革
- ^ 弘前厚生学院記念館
- ^ 偕行社かふぇ
- ^ 金沢市 金沢市の文化財と歴史遺産 旧陸軍金沢偕行社