尾張浜主
奈良時代から平安時代初期にかけての貴族・楽人
尾張 浜主 | |
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時代 | 奈良時代 - 平安時代初期 |
生誕 | 天平5年(733年) |
死没 | 不明 |
官位 | 従五位下 |
主君 | 孝謙天皇→淳仁天皇→称徳天皇→光仁天皇→桓武天皇→平城天皇→嵯峨天皇→淳和天皇→仁明天皇 |
氏族 | 尾張連 |
経歴
孝謙朝︵天平勝宝元年︹749年︺ - 天平宝字2年︹758年︺︶において﹃採桑老﹄を舞い、天皇の勅により﹃蘭陵王﹄の桴を改めたという[2]。
天長10年︵833年︶仁明天皇即位大嘗祭において舞を舞う。承和3年︵836年︶遣唐使に随行して唐に渡り、舞の誤謬を正し龍笛の底を極めて、承和6年︵839年︶8月に帰国したとする伝もある[3]。なお、同年正月に外従五位下に叙せられている。
承和12年︵845年︶既に113歳の高齢であったが、大極殿で行われた最勝会に際して、舞︵和風の長寿楽、別名﹁春鶯囀﹂[4]︶を製作し、自ら上表して演じることを請い、1000人を超える観覧者の前で舞った。フグの模様のようなシミがある老人の姿で、起居するのも困難な様子であったが、曲が流れると少年のように舞った。四方の観客は皆﹁浜主は本当のまさに伶人︵楽舞の人︶である﹂と言ったという[5]。その翌々日には仁明天皇に召されて清涼殿でも長寿楽を演じ、天皇は感心して誉め称え、左右の者は感涙し、天皇から御衣を下賜された[6]。翌承和13年︵846年︶再び天皇に召されて清涼殿で舞を舞い、天皇にその高齢を憐れまれて、内位の従五位下に叙せられている。
なお、愛国百人一首に﹁翁とて侘やは居らむ草も木も栄ゆる時に出でて舞ひてむ﹂の一首が採られているが、これは先述の承和12年︵845年︶の清涼殿での舞の後に詠んだものである。
官歴
『続日本後紀』による。