星野芳樹
ジャーナリスト、政治家
経歴
東京府東京市小石川区︵現文京区小石川︶で、牧師星野光多の三男として生まれた[4][5]。早稲田中学校︵現早稲田中学校・高等学校︶を経て、静岡高等学校文科︵現静岡大学︶に進んだ[4][5]。左翼運動に加わり、1931年︵昭和6年︶日本共産党に入党[1][2][3][4]。1933年︵昭和8年︶検挙されて入獄し静岡高校を中退、1940年︵昭和15年︶恩赦で出獄した[1][2][3][4]。同年、上海に渡り上海自然科学研究所員に就任[1][2][3][4][6]。1941年︵昭和16年︶容海語学校を設立[3][6]。さらに容海小学校、容海忠学校を設立し、在留日本人の指導的存在となった[1][2][3][4][6]。終戦後、上海自治会宣導科教育班長、同代表委員を務め[5]、1946年︵昭和21年︶に帰国した[3]。
帰国後、在外同胞帰還促進連盟を結成[5]して海外抑留者の引揚促進運動を進め[1][2][3]、在外同胞帰還促進全国協議会顧問などを務めた[6]。1947年︵昭和22年︶4月の第1回参議院議員通常選挙に全国区から出馬して当選︵補欠、任期3年︶[6][7]。1950年︵昭和25年︶6月の第2回通常選挙に全国区から労働者農民党公認で立候補したが落選し[8]、参議院議員に1期在任した[3][6]。
1949年︵昭和24年︶から群馬県沼田市に移り[4]、1954年︵昭和29年︶静岡新聞社非常勤論説委員となる[1][4]。1970年︵昭和45年︶同社編集主幹に就任し、世界各国に出張して執筆を行う[4]。1974年︵昭和49年︶3月に静岡新聞社を退職し社外論説委員となる[4]。同年、妻と共にケニア、ナイロビに移住[4]。1975年︵昭和50年︶日本アフリカ文化交流協会を設立しスワヒリ語学院︵星野学校︶を創設して日本人学生を受け入れた[1][2][3][4]。1987年︵昭和63年︶病のため日本に帰国した[2]。
著作
●﹃上海路地裏の人々﹄世界社、1947年。
●﹃共産主義卒業之記‥思想の遍歴とわが半生﹄土佐書房、1948年。
●﹃アジア・アフリカ紀行﹄講談社、1959年。
●﹃動乱のアフリカを行く﹄ダイヤモンド社、1965年。
●﹃いろいろな民族さまざまな生きかた﹄静岡新聞社、1971年。
●﹃アフリカの指導者‥アフリカわが心の友だち﹄︿現代アフリカの証言2﹀ブロンズ社、1978年。
●﹃星野芳樹自伝‥静岡からナイロビへ﹄リブロポート、1986年。
親族
脚注
参考文献
●人事興信所編﹃人事興信録 第15版 下﹄人事興信所、1948年。
●﹃群馬県人名大事典﹄上毛新聞社、1982年。
●﹃現代人名情報事典﹄平凡社、1987年。
●衆議院・参議院編﹃議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑﹄大蔵省印刷局、1990年。
●上田正昭他﹃日本人名大辞典﹄講談社、2001年。
●﹃新訂 政治家人名事典 明治~昭和﹄日外アソシエーツ、2003年。
●﹃国政選挙総覧 1947-2016﹄日外アソシエーツ、2017年。