神西清
1949年 | |
人物情報 | |
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生誕 |
1903年11月15日 日本東京市 |
死没 |
1957年3月11日 (53歳) 日本神奈川県鎌倉市 |
出身校 | 東京外国語学校 |
学問 | |
研究分野 | 文学(ロシア文学) |
生涯 編集
1903年、内務省の官吏の息子として東京市に生まれる。1910年、麹町の番町小学校に入学。父の転勤に伴って日本国内各地を転々とした末、父は台湾へ赴任。清も台湾の日本人学校に学ぶ。内向的で孤独な少年だった。1912年、父をマラリアで失う。
1916年、東京府立第四中学校︵現在の東京都立戸山高等学校︶に入学。このころ、母方の伯母を頼って北村家に同居。従兄の北村寿夫の影響で文学に親しむ。中学で、終生の友人竹山道雄と知り合う。
1920年、旧制第一高等学校に入学。堀辰雄と知り合う、親交は終生続き、堀の没後には全集の編集を担当した。建築家志望だったが、フランス象徴詩に熱中し、文学志望に転向。フランス語を独学する。このため一高を中退し、東京外国語学校露西亜語学科に入学。1925年、竹山や堀たちと共に同人誌﹁箒﹂を出し、戯曲、小説、詩を発表。
卒業後、1928年から1929年にかけて、北海道大学図書館に嘱託として勤務。1929年、東京電気日報社に移る。1931年、ソ連通商部を退職して文筆生活に入る。翻訳業のほか﹁雪の宿り﹂などの短編小説も多く発表した。後半生は鎌倉市に終生在住した。
戦後の文芸運動では、岸田國士らの雲の会に参加、チェーホフの戯曲訳を通じ文学座などの演劇活動に関わり、三島由紀夫、福田恆存、中村光夫らと鉢の木会の集いを持った。
1956年より舌癌の治療を受けていたが、病状が回復しないまま翌1957年に自宅で死去。53歳没。遺骨は没時まで在住していた鎌倉市山ノ内の東慶寺墓地に埋葬された[1]。戒名は﹁徹心院文軒清章居士﹂[2]。