金森誠之
経歴・職歴
和歌山県出身。1915年︵大正4年︶、東京帝国大学工科大学土木工学科を卒業し、内務省に入省。東京土木出張所に勤務し、利根川第二期改修工事に従事した。1927年、﹁煉瓦積ノ改善、特二其ノ補強二関スル研究﹂︵﹃土木学会誌﹄︶で工学博士号を得ている。
1918年︵大正7年︶から1921年︵大正10年︶までは、多摩川改修事務所に勤務。その後、1924年︵大正13年︶から1929年︵昭和4年︶まで、1年間の欧米諸国出張を挟んで、1930年︵昭和5年︶から1931年︵昭和6年︶までの2度にわたり、同事務所の所長を務めた。その間、1928年︵昭和3年︶には川崎河港工事を完成させたが、これは岸壁と水門の工事であり、岸壁は平時の荷揚げ、洪水時には多摩川からの避難所となるように設計された。水門は洪水を防ぐためのものであり、その建設資金は、金森の申し出を受けた味の素社により寄贈された。この金森が考奏した鉄筋煉瓦の水門、川崎河港水門は現存する構造物であり、その頭頂部の彫刻峠、金森と畏友の建築技術者との共同作品で、地元川崎市名産の梨や桃、そして葡萄が飾られている。金森はまたこのとき﹁川崎運河﹂構想を発案したが、その構想は紆余曲折の後、ついに実現しなかった。
金森はその後、1940年︵昭和15年︶開催予定のオリンピック東京大会の漕艇場問題で﹁戸田村﹂︵現在の埼玉県戸田市︶を提案、同大会は中止となったが漕艇場計画は生き残り、後任の岩沢忠恭により﹁戸田ボートコース﹂として完成された。その後金森は、国道改良第一部長、荒川上流改修及下流維持工事事務所長、東京土木出張所工務部長に就任した。
1938年︵昭和13年︶、仙台土木出張所︵後の国土交通省東北地方整備局︶の所長に就任。八郎潟の干拓工事計画や、仙台塩釜総合開発計画を提案した。この仙台時代には地元の人々に慕われ、ことに青年層に人望あつく、市長にと請われることもあったという。1941年︵昭和16年︶には、一時期名取川改修・釜房堰堤工事事務所長に就任し、鉄道技師を兼任した。
同年、下関土木出張所長に転任。翌1942年︵昭和17年︶には内務省を退官し、その後、金森総合土木研究所を創設して所長となる。1945年︵昭和20年︶の終戦時には、三井土木建築総合研究所所長の職にあった[1]。戦後は、利根川治水同盟や日本河川協会の副会長などをつとめた。
仙台市長選
人物
技術官僚としては多趣多才で、﹁金森式鉄筋煉瓦﹂や﹁まさかり杭﹂を始め、数多くの発明や特許を残した。
趣味人としては、特に社交ダンスと映画を好み、1931年︵昭和6年︶には﹃力学的に見た社交ダンス入門﹄を著した。また、土木技術者を主人公にした映画を多く製作したが、それは、設計し施工した印旛水門の竣工式祝賀会で工事関係者への労苦言及はなく、祝辞は地元代議士を讃えるものばかりで、自分らが﹁酬いられぬ人﹂であることを寂しく実感したことが契機となったという。すなわち、土木技術者の仕事を社会に認識させる方策として映画という媒体に着眼したものという。そのために自ら脚本を書き、ロケ地を求めて自分の足で歩きまわり、時として映画監督を押し退けて自分でメガホンを手にすることもあったという。また、配役についても一家言を持ち、女優を育てることにも熱心であった。川崎弘子や筑波雪子などの女優の芸名は、金森が名付けたものである。
金森による雑誌連載記事、﹁酬いられぬ人﹂、﹁混凝士道路﹂、﹁国道八号線﹂は、それぞれ映画化された。
著書
- 『応用地震学』(1926年)
- 『大東亜建設と八郎潟』(1940年)
- 『第二放送テキスト 工業講座土木工学』(1931年) 講師として「河川」を講じている。
- 「伝記大地に刻む」雑誌『河川』に14回にわたって連載
脚注
参考文献
- 伊東孝 『東京再発見―土木遺産は語る』(岩波新書、1993年)