ジュゼッピーナ・ストレッポーニ

ジュゼッピーナ・ストレッポーニ(Giuseppina Clelia Maria Josepha Strepponi Verdi, 1815年9月8日 - 1897年11月14日)は、19世紀前半に活躍したイタリアソプラノ歌手である。早くに引退したこともあり、今日ではむしろジュゼッペ・ヴェルディの妻(後妻)として有名である。

ジュゼッピーナ・ストレッポーニ(1840年代中頃)

ソプラノ歌手時代

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1797-1832

活躍

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1834年オペラ歌手としてデビューを飾り、1835年、トリエステで上演されたロッシーニマティルデ・ディ・シャブラン』で最初の成功を得た。同年中にはウィーンでも歌い、ベッリーニノルマ』アダルジーザ役、同『夢遊病の女』アミーナ役(主役)で大成功、特に『夢遊病の女』は彼女の十八番となった。

ストレッポーニの歌唱スタイルは、当時の評論によれば「澄んだ、透明な、よく通る、スムーズな声」、「上品な身のこなし、美しい容姿」などと形容されている。1830年代の後半から40年代前半にかけては多くの崇拝者を得、たとえばドニゼッティはジュゼッピーナのために『アデリア (Adelia, o La figlia dell'arciere )』を作曲(初演1841年、於ローマ)したりしている。1839年からはミラノスカラ座のプリマとしても活躍した。

恋多きプリマ・ドンナ

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一方で彼女はいわゆる「恋多き女」であったらしい。多くのオペラで共演したナポレオーネ・モリアーニ(テノール)およびジョルジョ・ロンコーニ(バリトン)との男女関係は「知る人ぞ知る」的なものだったようだし、スカラ座の支配人バルトロメオ・メレッリとの間にも何らかの関係があったと考えられている。彼女は少なくとも3人の私生児を産んだし、その他の妊娠・流産(中絶?)も多かったらしい。この激しい私生活の結果、1840年代初めのストレッポーニはプリマ・ドンナとしては早くも声量・声質の衰えをみせていた。その頃出会ったのが、パルマ近郊ブッセート出身の気難しい新進作曲家、2歳年長のジュゼッペ・ヴェルディであった。

ヴェルディとの出会い

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 (Oberto, conte di San Bonifacio )18392 (Un giorno di regno, ossia il finto Stanislao )1840

18428,00018311842

引退

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もっとも、ストレッポーニにとってこのアビガイッレ役は喉を酷使する難役であり、それが彼女のキャリアを更に短くした、との見方もある。翌1843年のヴェルディの次作『十字軍のロンバルディア人 (I Lombardi alla prima crociata )』初演にもストレッポーニは参加していないし、1845年にパレルモの公演で大失敗した後、彼女は1846年2月の舞台出演を最後に歌手活動から引退した。

ヴェルディとの同棲

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同棲の開始

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1846年10月にはストレッポーニはパリへ移住、声楽教師としての活動を始める。その翌年の夏頃にはヴェルディが彼女の住居を訪れ、そのまま同棲生活に入ってしまった。ジュゼッピーナは同地でヴェルディが『十字軍のロンバルディア人』をフランス趣味の『イェルサレム』に改作するのを手伝い、また彼に社交界の礼儀作法を教え、フランス語の苦手な彼の通訳も務め、そしてオペラと切っても切れない関係のパリ社交界の面々に引き合わせるなど、ヴェルディがオペラ界で成功するためのさまざまの側面支援を行った。

周囲の眼

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18493



21851退

椿1853

ヴェルディの正式な妻として

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結婚式

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185982913(Collonges-sous-Salève)

内助の功

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1868


奇妙な三角関係

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こうしたヴェルディとジュゼッピーナとの夫婦関係は、1870年代、新たな女性の登場により緊張したものとなる。ソプラノ歌手テレーザ・シュトルツの存在がそれである。

テレーザ・シュトルツ

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1834-190218631867

18692

5535使20

502018721874退1877

ジュゼッピーナの衰え・そして死

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ヴェルディがその最後のオペラ『ファルスタッフ』を完成させた1893年頃から、ジュゼッピーナは明らかな老衰の兆候を見せ始める。ヴェルディとの間には子供に恵まれず、遠縁の娘マリア・ヴェルディ・カラーラが養女となって世話をしていた。最後の年となる1897年にはほとんど歩くこともままならず、サンターガタの邸宅でただ最期の時を待つばかりとなった。11月14日、死去。82歳。

夫ジュゼッペ・ヴェルディはもう4年存命し、1901年ミラノで長逝した。2人の遺骸は、ミラノに夫妻が建てた音楽家のための養老院「憩いの家」の床に並んで葬られている。ヴェルディを追うように1902年亡くなったテレーザ・シュトルツも、その2人からわずか数メートル離れた床に眠っている。