ジョルジュ・オーリック
ジョルジュ・オーリック︵Georges Auric, 1899年2月15日 - 1983年7月23日︶は、フランスの作曲家。﹁フランス六人組﹂の一人として、また映画音楽の大家として知られる。﹃ムーラン・ルージュの歌﹄の作者である。
ジョルジュ・オーリック Georges Auric | |
---|---|
基本情報 | |
生誕 |
1899年2月15日 フランス共和国、ロデーヴ |
死没 |
1983年7月23日(84歳没) フランス |
職業 | 作曲家 |
略歴
編集
南仏エロー県のロデーヴ出身。15歳で最初に作品が出版されたほどの神童ぶりを発揮し、20歳になる前に、いくつかの舞台公演のために機会音楽を作曲し、管弦楽法を施した。
まだパリ音楽院に在学中の1920年に、エリック・サティやジャン・コクトーを庇護者とする﹁フランス六人組﹂に参加し、アヴァンギャルドの一員とみなされた。
コクトーが1930年代初頭に動画の制作に取りかかると、映画音楽の作曲を始める。フランスやイギリス、アメリカの映画産業に多くの楽曲を提供し、その方面で大家として成功を収めた。代表的な映画音楽に、﹃自由を我等に﹄︵1931年︶、﹃美女と野獣﹄︵1946年︶、﹃赤い風車︵ムーラン・ルージュ︶﹄︵1952年、主題曲が非常に有名︶、﹃ローマの休日﹄︵1953年︶、﹃恐怖の報酬﹄︵Le Salaire de la Peur, 1955年︶、﹃男の争い﹄︵Rififi, 1956年︶、﹃悲しみよこんにちは﹄︵1958年︶、﹃テレーズとイザベル﹄︵1968年︶などがある。
オーリックは、コクトーの規定した﹁六人組﹂の理念を映画音楽に持ち込み、単純明快で屈託のない表現と、はっきりと民謡を連想させる旋律やリズム、生命力あふれるオーケストレーションが特徴的である。映画音楽と並行して芸術音楽の作曲も続けていたが、1962年に映画音楽の作曲をやめてパリ・オペラ座の音楽監督に就任し、後にフランス音楽著作権協会の議長に就任した。
モンパルナス墓地に埋葬されている。
主要作品
編集映画音楽
編集- 詩人の血(1930年)
- 自由を我等に(1931年)
- シーザーとクレオパトラ(1945年)
- 美女と野獣(1946年)
- オルフェ(1949年)
- ラベンダー・ヒル・モブ(1951年)
- 夜ごとの美女(1952年)
- 赤い風車(ムーラン・ルージュ)(1952年)
- ローマの休日(1953年)
- 恐怖の報酬(1953年)
- アンリエットの巴里祭(1954年)
- 歴史は女で作られる(1956年)
- ノートルダムのせむし男(1956年)
- 居酒屋(1956年)
- 悲しみよこんにちは(1957年)
- 月夜の宝石(1958年)
- 恋ひとすじに(1958年)
- オルフェの遺言(1960年)
- クレーヴの奥方(1961年)
- さよならをもう一度(1961年)
- 大進撃(1966年)
バレエ音楽
編集
●エッフェル塔の花嫁花婿︵1921年︶ - ﹁序曲﹂﹁リトルネロ﹂
﹁六人組﹂のオネゲル、ミヨー、プーランク、タイユフェールとの合作。
●うるさがた︵1923年︶
●船乗りたち︵1925年︶
●ジャンヌの扇︵1927年︶ - ﹁ロンドー﹂
イベール、ミヨー、プーランク、ラヴェル、ルーセル、フローラン・シュミットらとの合作。
●フェードル︵1948年︶
●燃え上がる火︵1952年︶
●画家とモデル︵1969年︶
外部リンク
編集- ジョルジュ・オーリック - allcinema
- ジョルジュ・オーリック - IMDb(英語)
- Visite à Georges Auric by ina.fr オーリックの自宅でのインタビュー映像
- ジョルジュ・オーリックの楽譜 - 国際楽譜ライブラリープロジェクト。PDFとして無料で入手可能。