ヌルハチ
後金の創始者、清の初代皇帝
太祖 天命帝 ヌルハチ(努爾哈赤) | |
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後金 | |
初代ハーン(王) | |
![]() 清太祖天命皇帝朝服像(北京故宮博物院蔵) | |
王朝 | 後金 |
在位期間 |
天命元年1月1日 - 天命11年8月11日 (1616年2月17日 - 1626年9月30日) |
都城 | ヘトゥアラ → 遼陽 → 瀋陽(盛京) |
姓・諱 | アイシンギョロ・ヌルハチ |
蒙文尊称 | クンドゥレン・ハーン |
満洲語 | ᠨᡠᡵᡤᠠᠴᡳ(nurgaci) |
諡号 |
武皇帝(horonggo enduringge hūwangdi)[1] 高皇帝(dergi hūwangdi) 承天広運聖徳神功肇紀立極仁孝睿武端毅欽安弘文定業高皇帝 (ᠠᠪᡴᠠ ᡳ ᡥᡝᠰᡝ ᠪᡝ ᠠᠯᡳᡶᡳ ᡶᠣᡵᡤᠣᠨ ᠪᡝ ᠮᡠᡴᡩᡝᠮᠪᡠᡥᡝ ᡤᡠᡵᡠᠨ ᡳ ᡨᡝᠨ ᠪᡝ ᡶᡠᡴᠵᡳᠨ ᡳᠯᡳᠪᡠᡥᠠ ᡶᡝᡵᡤᡠᠸᡝᠴᡠᡴᡝ ᡤᡠᠩᡤᡝ ᡤᠣᠰᡳᠨ ᡥᡳᠶᠣᠣᡧᡠᠩᡤᠠ ᡥᠣᡵᠣᠩᡤᠣ ᡝᠨᡩᡠᡵᡳᠩᡤᡝ ᡥᡡᠸᠠᠩᡩᡳ, abka i hese be alifi forgon be mukdembuhe gurun i ten be fukjin ilibuha ferguwecuke gungge gosin hiyoošungga horonggo enduringge hūwangdi) |
廟号 | 太祖 |
生年 |
嘉靖38年1月15日 (1559年2月21日) |
没年 |
天命11年8月11日[2] (1626年9月30日) |
父 | タクシ |
母 | エメチ(顕祖宣皇后) |
后妃 |
トゥンギャ氏 グンダイ アバハイ |
陵墓 |
福陵(ᡥᡡᡨᡠᡵᡳᠩᡤᠠ ᠮᡠᠩᡤᠠᠨ, hūturingga munggan) |
年号 | 天命(abkai fulingga) : 1616年 - 1626年 |
子 | ホンタイジ(皇太極) (第8子) |
名称
編集明朝
編集「奴兒哈赤」[6]のほか、酋長の意で「奴酋」[7]と記されることもある。姓は童または佟とす。
李朝
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明朝を宗主国とする李氏朝鮮王国でも﹁奴兒哈赤﹂[8]の表記が用いられたが、朝鮮語音に則した﹁老乙可赤﹂[9]やその略表記﹁老可赤﹂[10]のほか、明側の﹁奴酋﹂という呼称に倣った﹁老酋﹂[11]という表記もみられる。尚、﹃朝鮮王朝實錄﹄(光海君日記) ではヌルハチの本名を﹁東㺚[注1]﹂と記す。[12]姓は﹁佟﹂のほか、﹁金﹂を挙げる。[12]
清朝
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清朝成立以前の史料﹃滿洲老檔﹄では専ら﹁sure kundulen han﹂と呼ぶ。﹁sure﹂は聡明、﹁kundulen﹂は崇敬の意で、﹁han﹂は﹁汗﹂(君主)。
﹃滿洲老檔﹄を基に乾隆期に編纂された﹃滿洲實錄﹄では﹁太祖崑圖侖汗taidzu kundulen han﹂、﹁太祖淑勒貝勒taidzu sure beile﹂(ここでの﹁beile﹂は首領の意)、﹁太祖英明汗taidzu genggiyen han﹂などのように専ら廟号﹁太祖﹂を冠して呼ぶ。﹁taidzu﹂は漢語﹁太祖﹂の満洲語音写。
﹃太祖高皇帝實錄﹄以降は﹁太祖﹂を以て呼ばれることが多い。忌み名としては﹁弩爾哈齊﹂[13]、弩爾哈奇など。贈り名は﹁高皇帝﹂(dergi hūwangdi) で、諡号+姓氏+諱で﹁太祖承天廣運聖德神功肇紀立極仁孝睿武端毅欽安弘文定業高皇帝姓愛新覺羅氏諱弩爾哈齊﹂[14]とも記される。
生涯
編集生い立ち
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女真族の愛新覚羅氏出身でヘトゥアラ (ᡥᡝᡨᡠ᠋
ᠠᠯᠠ, hetu ala)に生まれた。ヌルハチが生まれた頃の女真は、建州女真五部・海西女真四部・野人女真四部に分かれて、互いに激しく抗争していた。これを利用して明は、朝貢の権利を分散させることで、飛びぬけて力の強い部族を出さないようにしていた。具体的な方法としては、建州・海西女真の有力者300名に対して勅書を渡していた。ただし、土木の変︵1449年︶でのエセン・ハーン侵攻にあたって勅書が無資格者の手に渡るなど混乱した上、期待していた防壁代わりに全くならなかった反省から、ヌルハチが生まれた頃には建州女真に500通、海西女真に1,000通をそれぞれの首長に一括して渡すようになり、若干の権力集中が行われるような政策に転換している。しかしその弊害で、明も放っておけないほど武力抗争が激しくなっていた。ヌルハチの祖先は代々明朝に尽くし、しばしば恩賞を授けられている。
ヌルハチは生まれつき聡明で、力が強く武術を好み、よく働いたので両親に可愛がられた。9歳の時に母のエメチ︵ヒタラ氏︶が病死した。父のタクシが新たに迎えた継母とは折り合いが悪く、我慢できなかったヌルハチは14歳の時に家出して、母方の祖父の王杲の元へと身を寄せた。王杲は都督の地位にあり、漢字が読め、文武に秀でた人物であった。王杲は武芸に秀でた孫を可愛がった[15]。
1574年、王杲は明と摩擦を重ねた末に挙兵したが、惨敗して捕らわれ、北京に送られて処刑された。この時にヌルハチも捕らわれたが、どうにか逃げ切り、父が住む故郷に戻った。その時にタブンバヤンの娘のハハナ・ジャチン︵トゥンギャ氏︶と結婚するが、父の後妻と彼女に惑わされた父に冷遇され、再び家を出た。独立世帯での暮らしとなり、人参や薬草を採取して細々と生計を立てた。その暮らしに満足いかないヌルハチは武将になることを志し、遼東総兵の李成梁の部下になる。壮健で乗馬、弓術などが抜群の腕前であったヌルハチは、李成梁に目をかけられるようになった[16]。
建州部統一
編集祖父の横死
編集「明無端起釁邊陲害我祖父」を参照
スクスフ・ビラ部グレ城主アタイの父王杲 (一説にはヌルハチ外祖父) は、建州右衛の暴れ馬として名を馳せ、都指揮使の官職に任命されていながら明の辺境部を度々掠奪したが、当時飛ぶ鳥を落とす勢いのハダ国主ワン・ハンに捕捉された末、万暦帝の命で磔にされ殺害された。アタイが報復措置としてイェヘと手を組み明の辺塞を何度も侵犯略奪したため、王杲に懲りた明朝は、アタイを辺塞にとっての禍根とみなし、その征討を企てた。
万暦11年1583旧暦2月、同部トゥルン城主のニカン・ワイランなる者の手引きで、遼東総兵官・李成梁率いる明の官軍が同部のグレ城主アタイを征討した。李成梁は難攻のグレ城を二昼夜に亘って火攻し、城主アタイ討伐を果たした。しかしこの時、ヌルハチの祖父ギョチャンガと父タクシが李軍によって﹁誤殺﹂されたことから、ヌルハチは宗主たる明朝への恨みを募らせた (所謂﹁七大恨﹂の第一条)。
ヌルハチは祖父の横死を知って明の辺塞を訪れ、詰問した。明側は﹁誤殺﹂であるとして朝貢勅書、馬、さらに都督任命の勅書をヌルハチに賜与し、幕引きを図った。しかし腹の虫がおさまらないヌルハチが、﹁真犯人﹂たるニカンの身柄引き渡しを求めたため、明側は﹁やるものはやったのにまだ欲を張るか。ニカンが欲しいなら、ニカンに新しく城を与えてお前の主人にしてやる﹂と言ってヌルハチをやりこめようとした。
この一言を真に受けた同部の女真は挙ってニカンに帰向し、有頂天のニカンはさらにヌルハチにも服従を求めた。固より仇敵に服従するはずもないヌルハチはニカンと訣別したが、大伯父らの中にニカンに帰向する者が現れ、ヌルハチ排除を謀ったため、ヌルハチはさらに孤立無縁に陥った。
この頃、同部のサルフ城主ノミナ、ギャムフ城主ガハシャン (ヌルハチの妹婿) らはニカンと反目していたため、利害関係の一致するヌルハチと盟約を結んだ。父タクシの遺産であるわずか13着の凱甲とわずかな兵を頼りに、ヌルハチの国取りがはじまった。ヌルハチ25歳の年であった。
挙兵と復讎
編集「太祖初舉下圖倫」を参照
万暦11年1583、ヌルハチは僅か100人足らずの兵を率いてトゥルン城にニカン・ワイランを征討したが、すんでのところでギャバンへ逃げられた。続けてギャバンへ侵攻するも、サルフ城主ノミナが早くもニカン・ワイランと内通し、またもニカン・ワイランを獲り逃した。
「太祖計殺諾密納鼐喀達」を参照
ノミナの内通を悟ったヌルハチはその排除を計画し、ノミナの宿敵バルダ城への攻撃を請け負うと偽って、サルフ兵の装備を借り受けた。装備を一新したヌルハチ軍により丸腰のサルフ城が陥落し、城主ノミナが殺害された頃、ニカン・ワイランはオルホンに築城していた。
「碩翁科羅巴遜敗哈達兵」を参照
ヌルハチの大叔父の一派がハダ国主ベイレフルガンとジョオギャ城主リダイ (ヌルハチ宗族) を教唆し、ヌルハチ所領を掠奪させたが、ハダ兵はヌルハチの武臣アンバ・フィヤングらの急襲を受け、40人が殺された上に掠奪した人畜をおいて遁走した。
「太祖宥養理岱」を参照
万暦12年1584、ヌルハチはジョオギャ城にリダイを征討した。リダイはヌルハチの大伯父の一派からの密告を受けて迎撃準備を万端に整えていたが、大雪の山路を行軍してきたヌルハチ軍に包囲されるとあっけなく落城し、宗族のよしみで助命され、連行された。
「太祖大戰瑪爾墩」を参照
ヌルハチの大伯父の一派の脅迫を受けたサムジャン (ヌルハチ継母の弟) によって、ヌルハチの妹婿エフガハシャン (ギャムフ城主) が殺害されたことを承け、ヌルハチはサムジャンらが拠点とするマルドゥン山砦を攻略し、仇を討った。
「太祖宥鄂爾果尼洛科」を参照
ヌルハチ討伐を企むドンゴ部が内訌を起こしたと聞いたヌルハチは、隙をついてチギダ城に先制攻撃をしかけ、陥落後さらに返す刀でオンゴル城に侵攻した。交戦中に矢創を負って生死を彷徨ったが、治癒するや戦場復帰して落城させた。
「太祖戰殺訥申巴穆尼」を参照
万暦13年1585、ジャイフィヤンに侵攻したものの、迎撃準備を整えた敵兵の前に為す術なく撤退した。そこへ、マルドゥン戦で逃亡したネシンら率いる敵兵400人が背後に迫った。ヌルハチは殿しんがりとなり、ネシンら敵将を討って敵兵を撃退した。
「太祖四騎敗八百兵」を参照
ジェチェン部征討を企て出兵した矢先、洪水に遭い、少数精鋭のみを伴って行軍していたところ、ジャイフィヤンの渾河河畔に数にして十倍規模の敵兵がいるのがみえた。ヌルハチは、尻込みする兵を置いて、弟ムルハチを含む僅か四人で敵の軍勢を退けた。
「太祖獨戰四十人」を参照
アントゥ・グァルギャ城と、翌14年1586にトモホ城を制圧したヌルハチは、満を持してオルホン城へニカン・ワイランを征討したが、城内にその影はなかった。城外での戦闘で負傷しながらも城を制圧すると、城内の敵兵に迫ってニカン・ワイランの引き渡しを要求した。
明側はニカン・ワイランの引き渡しを約束し、身柄を獲り押さえた。ヌルハチの派遣した兵はその場でニカン・ワイランの首を刎ね、かくしてヌルハチ祖父の仇討ちは果され、明朝との間の確執も一旦は解消された。
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『滿洲實錄』巻1「太祖初舉下圖倫」
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『滿洲實錄』巻1「太祖計殺諾密納鼐喀達」
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『滿洲實錄』巻1「碩翁科羅巴遜敗哈達兵」
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『滿洲實錄』巻1「太祖宥養理岱」
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『滿洲實錄』巻1「太祖大戰瑪爾墩」
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『滿洲實錄』巻2「太祖宥鄂爾果尼洛科」
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『滿洲實錄』巻2「太祖戰殺訥申巴穆尼」
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『滿洲實錄』巻2「太祖四騎敗八百兵」
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『滿洲實錄』巻2「太祖獨戰四十人」
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『滿洲實錄』巻2「齋薩獻尼堪外蘭首」
女真の統一
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李成梁は、明が制御できる程度に大きな勢力を一つ作り、その後ろ盾になることで女真を治めようとした。これに選ばれたのが建州女真の中のヌルハチであった。ヌルハチはその後、1587年にジェチェン︵ᠵᡝᠴᡝᠨ, jecen, 哲陳︶部、1588年にワンギャ︵ᠸᠠᠩᡤᡳᠶᠠ, wanggiya, 完顔︶部を支配した。最後に残ったホホリもヌルハチに帰順した。こうしてヌルハチは、万暦17年︵1589年︶に建州五大部を統一することに成功した。ヌルハチの支配する国は、建州女真の別名でマンジュ・グルン (満洲国) と呼ばれるようになった。李成梁の思惑は上手く行き、ヌルハチは女真の中の大勢力となった。それと同時に李成梁の懐に入る賄賂の量も大幅に増えたが、これに気を良くしたのか、ヌルハチの統御を怠っていた。
女真の大首長となったヌルハチは、明に朝貢して勅書500通を得た。この勅書を活用して馬市や市場を拡大し、富を増やし、他部族の攻略に備えた。建州女真を統一したヌルハチの次の目標は海西女真であった。海西女真も利害の対立から争いは絶えなかった。
1589年、海西女真のフルン四部の一つ、イェへ︵ᠶᡝᡥᡝ, yehe, 葉赫︶部の首長のナリムブルがフルンの盟主となった。ナリムブルは女真を統一しようとしてヌルハチに帰順を求めたが、ヌルハチはこれを無視して対立を深めた[17]。
この時期の明は日本の豊臣秀吉による文禄・慶長の役への対応に忙殺されていたこともあり、女真への介入は少なかった。明と日本が戦っている間に女真の争いは頂点に達した。イェヘ部の首長のナリムブルは1593年6月、ハダ、ウラ、ホイファと連合軍を結成してマンジュ (満洲国) を攻めたが、待ち構えていたヌルハチに追撃されて大敗した。
同年9月、再びイェへ部の首長のナリムブルはハダ、ウラ、ホイファ、ジュシェリ︵ᠵᡠᡧᡝᡵᡳ, jušeri, 珠舎里︶部、ネイェン︵ᠨᡝᠶᡝᠨ, neyen, 納殷︶部、シベ︵ᠰᡳᠪᡝ, sibe, 錫伯︶部、グワルチャ︵ᡤᡡᠸᠠᠯᠴᠠ, gūwalca, 卦爾察︶部、ノン・ホルチン部と9部連合軍を結成し、3万の大軍を繰り出し、3方面からヌルハチを攻撃した (→﹁古勒山の戦﹂)。9部連合軍がマンジュ (満洲国) の城を攻めている間、スクスフ河 (蘇子河とも) 北岸のグレ (古勒) 山の山影にヌルハチ軍の精鋭を置き、ヌルハチはわずか100騎で奇襲して逃げ、連合軍が後を追うと、待ち伏せていたヌルハチ軍に包囲され大敗した。この戦いで、海西女真と建州女真の勢力が逆転する。これにより、女真の諸部族はヌルハチに従う者が多くなり、明はヌルハチに対し竜虎将軍の官職を授けた。なお、李成梁はこの2年前に汚職を弾劾され、更迭されている。
ハダ・ホイファ攻略
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その後、アムール川周辺にあるフルハ部と朝貢関係を結んだヌルハチは、次にハダの攻略にかかる。ハダもまたイェへとマンジュの間で板挟みの状態にあった。1599年5月、イェへ部のナリムブルはハダを攻撃し始めた。ハダ部の首長のメンゲブルは人質と共にヌルハチに援軍の要請を送った。ヌルハチはこれに応じてシュルガチ (ᡧᡠᡵᡤᠠᠴᡳ, šurgaci)と2000の兵を差し向けるも、急遽自ら兵を率いてハダを攻撃して支配下に置き、メンゲブルを捕虜にした。その後、メンゲブルは妾と通じたという罪で死刑になる。ヌルハチはハダの住民を全てマンジュ国に連れ去り、ここに事実上ハダは滅んだ。
ハダは明の対女真対策の要地であり、これを滅ぼしたヌルハチに対して明は経済制裁をちらつかせるなどの圧力をかけた。そこでヌルハチは、メンゲブルの長男のウルグダイとハダの住民を元の地に帰したが、イェへ部のナリムブルがハダへの侵略を繰り返したために、結局ハダの住民はマンジュ (満洲国) に戻されることになった。ウルグダイはその後ハダの地を踏むことなく、ヌルハチの忠臣となって活躍した。
1607年、ホイファも内乱に乗じてヌルハチに制圧され、滅亡を迎えた[18]。この前年に日本 (豊臣) 軍が撤兵したこともあり、明はようやくヌルハチに危機感を抱き始め、海西女真のイェヘ部の後押しをすることでヌルハチに対抗しようとした。
ウラ攻略
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ヌルハチはウラ国主・ブジャンタイに対し、娘を嫁がせるなど懐柔を見せるが、内心は快く思っていなかった。またブジャンタイは裏ではイェへと関係を結んでいた。1607年1月、ウラがワルカ地方のフィオ城を攻めた際、ワルカはヌルハチに助けを求め、ヌルハチはこれに応じ弟のシュルガチを派遣した。1607年3月、ブジャンタイとシュルガチの軍が烏碣岩で衝突した結果、シュルガチが大勝した (→﹁烏碣岩の戦﹂)。その後、ブジャンタイは和睦に応じた[19]。ブジャンタイは腹いせに自分の妻でヌルハチの娘のムクシを虐待した。これに激怒したヌルハチは、1613年1月にウラを攻め滅ぼした[20](→﹁烏拉城の戦﹂)。こうしてヌルハチはイェへ以外の海西女真族を全て支配下に入れた。
弟のシュルガチとの確執
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ウラ攻略で大功を挙げたシュルガチであったが、次第にヌルハチとの仲が悪化した。権力を握ったヌルハチの自分への態度が尊大になることに不満を覚えた。またヌルハチも、自分の言うことを聞かないシュルガチに対して不満を覚えるようになった。ウラ攻略で戦い方が消極的だったと叱責し、ヌルハチはシュルガチの兵権を縮小した。さらに城を建設しようとシュルガチに兵を送るように命令するが、兵を送るどころかシュルガチは自分の城を築いた。1607年1月、シュルガチは3人の息子と密謀し、イェへ、明朝へと近づくことした。これがヌルハチに知られて、シュルガチは財産を没収され、息子のうち2人が殺害された。シュルガチは深く謝り、許しを請うた。ヌルハチは一度は許そうとしたが、恨みごとを言っていると耳にし、幽閉して死に到らしめた[21]。
後金の建国、明との戦い
編集
万暦44年︵1616年︶、ヌルハチは本拠地ヘトゥアラ︵ᡥᡝᡨᡠ
ᠠᠯᠠ, hetu ala、赫図阿拉︶でハン︵ᡥᠠᠨ, han、汗︶の地位に即き、国号を金︵後金、aisin︶、元号を天命︵abkai fulingga︶とした。前後してエルデニ︵ᡝᡵᡩᡝᠨᡳ, erdeni, 額爾徳尼︶とガガイ︵ᡬᠠᡬᠠᡳ, g'ag'ai, 噶蓋︶に命じ、モンゴル文字を改良した満州文字︵無圏点文字︶を定めた。また、八旗という軍事組織を創始した。このことで、満州人が勢力を拡大する基盤が固められた。
天命3年︵1618年︶、ヌルハチは﹁七大恨﹂と呼ばれる檄文を掲げ、明を攻めることを決定した。この文書の中には、明がイェヘに加担して満州を攻撃すること、祖父のギオチャンガと父のタクシが明に誤殺されたことなどが書かれている。同年、ヌルハチは明の庇護を受けていたイェへ周辺の諸城を攻撃し始めた。李永芳が守る撫順城は兵1000人ほどだったが、ヌルハチは女真人を馬市に参加させて李永芳に通知し、隙を狙い撫順城を攻めて李永芳を投降させた。ついでに清河城が陥落した[22]。
同日に東州、マゲンダン(magendan、馬根丹)など500箇所を陥落させた。1619年4月29日、明はイェヘ部と朝鮮の兵を配下に47万と総大将に楊鎬を置き、軍を杜松軍3万、馬林軍1万5千、李如柏軍2万5千、劉綎軍1万の4つに分けて、4路からヌルハチの居城であるへトゥアラに侵攻させた。北は馬林軍1万5千とイェヘ軍1万、西は杜松、保定総兵王宣2万5千、東は李如柏軍2万5千、南は劉綎軍2万8千で攻めた。こうして、撫順近くのサルフ︵ᠰᠠᡵᡥᡡ, sarhū, 薩爾滸︶において、10万を号する後金軍と激突した (→﹁サルフの戦い﹂)。なお、﹁号して﹂とした場合、およそ実数は半分といわれる。ともあれ数の上では後金軍の不利であったが、明の将軍が功を焦って突出したため各個撃破できたことと、戦闘中に砂塵が舞い上がり、これに乗じて明へ奇襲をかけることができたことなどが幸いし、後金が大勝した。明に大勝したヌルハチは、サルフの戦いから5カ月で長年の宿敵のイェへを統合し、悲願であった全女真族の統一に成功した[23]。
遼東を巡る戦いと晩年
編集
サルフの戦いの後の1619年6月、楊鎬に代わって遼東経略に就いたのは熊廷弼であった。その頃にはサルフでの勝利とイェへの滅亡により、遼東における後金の有利は決定的であり、兵士の士気も低かったため、鉄嶺は既に落ちており、モンゴルもヌルハチを恐れて明に就こうとしなかった[23]。治安も悪く、農民も離村して社会混乱を起こした。そこで熊廷弼はあえて守勢に回り、軍備を整え、軍律を厳守して18万人の兵で守りを固め、朝鮮と連携するなどヌルハチを牽制した[24]。この方針により農民は耕作を再開したが、中央政府の目からは消極策に映り、熊廷弼は更迭された。
この時期はヌルハチの側も、戦後処理での戦功の配分や朝鮮との通商停止、モンゴルの中立化など様々な国内問題を抱えており、1620年まで積極的な戦争を仕掛けられなかった[25]。
熊廷弼の後任には袁応泰が就いた。袁応泰は消極的と批判された熊廷弼を反面教師として、撫順と清河を奪い返す計画を立てたが、それに先んじてヌルハチは瀋陽を強襲した[26]。1620年2月にジャイフィヤンからサルフへ遷都していたヌルハチは、瀋陽城をあっという間に陥落させた。ヌルハチは挑発を繰り返して城の守将の賀世賢を誘い出し、深追いしたところを包囲して戦死させた。大砲と銃で守られていた城をこれだけ素早く攻略できたのは、賀世賢に不満を持っていたモンゴル人が後金に内応して中から城を開いてしまったからだと言われる[27]。
この時、袁応泰は陳策に瀋陽へ援軍に行くよう命じたが、陳策が駆けつけた時には既に城は落ちていた。陳策は引き返そうとしたが部下に止められ、勝ち目がないとわかりつつ進軍した。迎えたヌルハチは追撃して明軍をほとんど戦死させた。3月8日、袁応泰は兵を遼陽城に集めて防備を固めた。城が堅いと認識したヌルハチは、山海関に兵を進めるよう見せかけた。袁応泰はヌルハチの計略を見抜けず、5万の兵を出して野戦で交戦してしまい敗北した[28]。
その後、後金軍は遼陽城を攻めたが、攻城は困難だった。そこで、東の入水口を土濠で塞ぎ、排水口を開こうとした。すると明兵が出てきて両軍が激突した。橋を奪取した後金軍は、梯子をかけて城に侵入した。もはやここまでと袁応泰は自害した[29]。城を得たその日のうちに、ヌルハチは遼陽に居を構えた。明、朝鮮、モンゴルに近く、建築資材を川に流せば資源に欠かさず、山に獣、川に魚が多く食料も欠くことがないとしたためであった。1625年に正式に遷都を決定し、重臣たちの反対を押さえてこれを決行した[29]。瀋陽と遼陽の2大重要拠点を獲得したヌルハチであったが、この2つの戦いは後金にとっても大きなダメージを残した。一方で、瀋陽と遼陽を失った明政府には大きな動揺が起こり、以前は遼東を無難に治めていた熊廷弼の再任が強く推されるようになった。
1621年5月、朝廷に召還された熊廷弼は﹁三方布置策﹂という遼陽奪還策を提言した[30]。三方布置策とは
●広寧には騎馬・歩兵部隊を置いて守りを固める。
●天津と山東半島の登州・萊州に水軍を設け、隙をついて遼東半島を攻撃する。
●遼東経路は山海関を本営として全般の指揮を執る。
そうすれば後金は故郷の本拠地が気になり兵力が分散され、その間隙を縫って遼陽を回復するという作戦である。また朝鮮と連携を取ることを進言した。時の皇帝天啓帝はこれを採用し、熊廷弼を経略に起用する。しかし、熊廷弼は遼東巡撫王化貞と意見が衝突することが多く、また王化貞が兵を自由に動かせる権限を持っていたため統一した戦いができなかった。加えて王化貞は軍事知識に乏しく、大言壮語して後金を侮っていた。その上、明が指針としていた熊廷弼の三方布置策も、王化貞配下の毛文龍が後金から鎮江を奪還してしまったことで崩れた︵鎮江の戦い︶。
1622年1月、ヌルハチは2人の指揮官が争っていた時に、重要拠点の一つである広寧を5万の大軍で攻めた。広寧城は堅いのでまず西平堡を攻め、明軍を誘い出して野戦に持ち込んだ。王化貞に派遣された劉渠は戦死、孫得功は剃髪してヌルハチに降伏した。またこの戦いに勢いづき、遼河以西40の城を落とした。さらに、遼西で略奪をして遼東の食料不足を解消した。大勝利であったが、この戦いで孫のエセンデリを失った[31]。王化貞は速やかに逃げて熊廷弼と合流し、山海関に退却した。後にこの責任を問われ、1632年に死刑に処されている。また熊廷弼は同じく責任を問われ、王化貞に先んじて1625年に死刑になった。この頃、ヌルハチは毛文龍のゲリラ攻撃にも苦しめられ、一方で後金領内の漢人との文化的な軋轢もあり、国内問題に対応した。
天命11年︵1626年︶、連戦連勝のヌルハチは、明の領内に攻め入るために山海関を陥落させようとした。ところがその手前の寧遠城︵現在の興城市︶に、将軍袁崇煥がポルトガル製大砲の紅夷大砲を大量に並べて後金軍を迎え撃った︵寧遠の戦い︶。
袁崇煥の名声を聞いたヌルハチは、降伏勧告をして高位につかせると約束したが、袁崇煥ははねつけた[32]。明軍はわずか1万人ながら、遼人をもって遼を守る防衛策で農民を登用・総動員し、袁崇煥は援軍が来ると言い続けて士気を鼓舞した。明軍の徹底抗戦に後金軍は散々に討ち減らされ、退却した。この戦いはヌルハチ最初にして最後の挫折と言えた。しかしこのまま引き下がると権威が失墜すると恐れ、ヌルハチは覚華島を攻撃し、食料と軍船2千を焼いた。この戦いの中で、ヌルハチは背中に傷を負い、8月11日に崩御した。宝算68であった。遺体は瀋陽の東の郊外の福陵に葬られた。
ヌルハチは生前に後継者を定めなかったため、崩御後に紛糾したが、皇八子のホンタイジが後を継ぐことになった。
後継者問題
編集
ヌルハチが還暦を過ぎると、宮廷でも内紛が勃発した。宮中では、ヌルハチの養子や婿が不可解な処罰を受けたり処刑された記録が残っている。
最初に後継者とされたのはチュイェンであった。生母はアムバ・フジン︵ᠠᠮᠪᠠ
ᡶᡠᠵᡳᠨ , amba fujin、正妃︶のトゥンギャ氏で出自は申し分なく、生来豪胆で17歳の時から戦争に参加して﹁フン・バトゥル︵hūng baturu, 洪巴図魯︶﹂の称号を得た。勇猛果敢という意味である。だが、チュイェンは1615年8月に処刑された。チュイェンは太子となるとすっかりハン気取りで弟や老臣に対して威張るようになった。また﹁長兄の言うことを聞き、内輪の話は父王の耳に入れては行けない﹂﹁父王亡き後、先に分配した財産を分割しなおし、また関係の良くない大臣や弟を排除する﹂と公言するようになった。そこで不安に思った大臣と弟たちはヌルハチに直訴した。ヌルハチがチュイェンを戒めても態度を変えないので、ついに太子を廃し、幽閉した。戦の敗北の責任を負わされたとも言われている。チュイェンはその後、ヌルハチや弟たちを恨み、呪詛や陰謀を企てた。それを耳にしたヌルハチはついに彼を処刑した[33]。
ヌルハチの死後、後継者が決められていなかったので、八旗の権力者の四大王︵ダイシャン、アミン、マングルタイ、ホンタイジ︶、四小王︵アジゲ、ドルゴン、ドド、ジルガラン︶から選ばれることになった。ヌルハチの遺命でアジゲ、ドルゴン、ドドの生母のアバハイが殉死しており[34]、これは3兄弟の勢力を抑えるためだったとも言われている。
結局、四大王の中から後継者が選ばれるようになった。アミンはヌルハチの弟のシュルガチの息子で、勢力が他の大王と比べて低かった。次男のダイシャンは兄のチュイェンと同じように戦功を立て、明征伐でも多くの戦績があった。正紅、鑲紅二旗を持つホショイ・ベイレ︵ᡥᠣᡧᠣᡳ
ᠪᡝᡳᠯᡝ, hošoi beile, 和碩貝勒︶筆頭で、しかも2人の息子のヨト、ショトも成人しており、一家に勢いがあった。しかし、ダイシャンも太子にはなれなかった。理由は3つあった。
●ヌルハチの正妃フチャ氏との曖昧な関係。
●サルフでの居住地を決める際に、ダイシャンは息子の方が待遇が良いと言い争った。面倒になったヌルハチは自分の居住地をダイシャンに与えた。
●次男ショトに関して不倫や明への逃亡など様々な噂を聞いたダイシャンは、ショトを処刑しようとした。しかしショトは無実であった。ヌルハチには無実の者を処刑したり、佞臣を登用する人物と思えたのだろう。
ホンタイジはこの問題を蒸し返し、ダイシャンの品性とフチャ氏、その息子のマングルタイも批判した。ダイシャンの息子ヨトやサハリャンもホンタイジに積極的に加担した。2人はダイシャンの後嗣から外されていた[35]。アバハイの葬儀が終わると、ヨトやサハリャンは﹁ホンタイジは才徳があり、衆人も心服しています。速やかに王位を継ぐべきです﹂と述べ、ダイシャンも同意した。
ヌルハチはあくまで明からの独立を目指しただけで、明を征服しようと思ったことはなかったと言われる。後継者を定めなかったのも、それまでの部族合議体制を維持しようとしたことの現われとも見られる。
逸話
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●ヌルハチが軍馬に乗って敵軍に追いつかれそうになった時、彼の猟犬は敵の足に噛み付き、時間を稼いだため、ヌルハチは逃げることができ、それ以来満州族は犬を祀るようになった。[36]
●騎馬民族の頭目でもあり、乗馬と弓術は名人級であったと言われる。特に弓術は南ドンゴ部の名人と﹁射柳﹂という弓の競技を行い勝利した[37][16]。
●戦いの際に敵の矢がヌルハチの兜に当たり、頭に傷を負ったが、その矢を引き抜いて自分の弓に使い、敵兵を倒した[37]。
●ワンギャ︵完顔︶部の残党ニングチン=ジャンギンの拠点ジョーギヤ城を攻めた時に、城兵が出てきてまっすぐヌルハチへと突っ込んだ。ヌルハチは1人で100人の敵に立ち向かい、蹴散らした[37]。
●ジェチェン部の遠征に出かけた際に突如800人の大軍が現れ、ヌルハチ軍は狼狽したが、ヌルハチと弟3人で800人の軍勢に突入して20人あまりを倒し、最終的に敵を敗走させた[37]。
●李成梁の軍にいた頃に漢人の文化に触れ、﹃三国志演義﹄や﹃水滸伝﹄を読み、義侠心や人情の機微を感じること、そして軍略を身に着けた[38]。
●互市での交易の際、それまでは朝鮮人参は明の商人が安く買い叩くために腐る直前まで受け取らないということを行っていたが、ヌルハチは朝鮮人参を鍋で煮てから天日干しして日持ちさせる方法を考案して値崩れを防いだ。
●身体的特徴は、故宮博物院蔵に描かれたものと違って﹃満州実録﹄に記された実物に近いヌルハチは目尻が上がって、鋭い形をしているが、これはホンタイジの画像に似せて描こうとしたため、実際とはかなり違う描写をしていると思われる。また、歩き方は堂々とし、動作に威厳があり度胸も据わっていたため、若いうちにリーダーとなっても十分の一族の長として風格を備えていた。カリスマ的な性格であり、部下たちはヌルハチを英明剛毅な人物と畏敬した[39]。
●ヌルハチは城攻めの際に2本の矢を受けた。城が落とされた後、自分を射た敵兵オルグニ︵ᠣᡵᡤᡠᠨᡳ[40], orguni︶を勇士と称えて恩賞を与えた[41]。
祖先同胞
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●曾祖父・フマン‥清興祖。
●長祖・ 德世庫デシク‥フマン長子。
●二祖・劉闡リョチャン‥フマン次子。
●三祖・索長阿ソォチャンガ‥フマン三子。
●四祖・ギョチャンガ‥フマン四子。清景祖。
●父・タクシ‥清顕祖。
●姉不詳‥異母姉。ウラ国主ベイレの妻。
●ヌルハチ‥清太祖。喜塔喇氏阿古都督の娘の子。
●二弟・穆爾哈齊ムルハチ‥李佳氏古魯禮の女の子。
●三弟・舒爾哈齊シュルハチ‥喜塔喇氏阿古都督の娘の子。
●四弟・雅爾哈齊ヤルハチ‥喜塔喇氏阿古都督の娘の子。
●五弟・巴雅喇バヤラ‥ワン・ハンの養族女の子。
●妹・阿吉格アジゲ‥喜塔喇氏阿古都督の娘の子。伊爾根覺羅氏噶哈善哈斯虎の妻。
●五祖・包朗阿ボォランガ‥フマン五子。
●六祖・寶實ボォシ‥フマン六子。
妻妾子女
編集正室
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正室 (嫡妻) は、清初には﹁大福晋アムバ・フジン﹂や﹁大妃﹂などと呼ばれ、太宗ホン・タイジが皇帝を称してからは﹁皇后﹂と呼ばれた。
●元妃・佟佳氏ハハナ・ジャチン‥一人目の嫡妻。
●長子・褚英チュイェン‥広略ベイレ。
●次子・代善ダイシャン‥礼親王。
●長女・嫩哲ヌンジェ‥端荘グルン公主。棟鄂氏何和里ホホリに婚嫁。
●継妃・富察氏袞代グンダイ‥二人目の嫡妻。
●5子・莽古爾泰マングルタイ‥ベイレ。
●10子・徳格類デゲレイ
●16子・費揚果フィヤング
●3女・莽古済マングジ
●孝慈高皇后・イェヘ・ナラ氏モンゴ・ジェジェ‥イェヘ初代東城主ベイレヤンギヌ娘。三人目の嫡妻。清史上初めての皇后追封[注2]。
●8子・ホン・タイジ‥清太宗。
●大妃・ウラ・ナラ氏アバハイ‥ウラ第三代国主ベイレマンタイ娘。四人目 (最後) の嫡妻。
●12子・阿済格アジゲ‥英郡王。
●14子・ドルゴン‥睿親王。
●15子・多鐸ドド‥豫親王。
側室
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●ボルジギト氏‥寿康太妃。
●伊爾根覚羅氏名不詳
●7子・阿巴泰アバタイ‥饒余郡王。
●孫・ヨロ‥アバタイ第四子。安親王 (死後、郡王に降格)。康熙帝の皇八子・胤禩の正室はヨロの孫娘。
●2女‥ホショイ公主。
●イェヘ・ナラ氏名不詳‥モンゴ・ジェジェ (孝慈高皇后) の妹。
●8女‥ホショイ公主。聡古倫。
●ハダ・ナラ氏アミン・ジェジェ‥ハダ第二代国主ベイレフルガン娘。
妾 (庶妃)
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●兆佳氏名不詳
●3子・阿拝アバイ‥鎮国公。
●鈕祜禄氏名不詳
●4子・湯古代タングルダイ‥鎮国将軍。
●6子・塔拝タバイ
●嘉穆瑚覚羅氏名不詳
●9子・巴布泰バブタイ‥鎮国公。
●11子・巴布海バブハイ
●4女・穆庫什ムクシ‥ウラ第四代国主ベイレブジャンタイ第三夫人。
●5女
●6女
●西林覚羅氏名不詳
●13子・頼慕布ラレムブ‥鎮国公。
●伊爾根覚羅氏名不詳
●7女
登場作品
編集- 小説
- 漫画
- テレビドラマ
脚注
編集出典
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(一)^ 莊聲﹁17世紀におけるマンジュ人の語る漢文化﹂﹃東方學報﹄第88巻、京都大學人文科學研究所、2013年12月、320-294頁、doi:10.14989/180566、hdl:2433/180566、ISSN 0304-2448、NAID 120005367784。
(二)^ ﹃清太祖実録﹄巻10, 天命十一年八月庚戌条による。
(三)^ ﹃満洲実録﹄乾隆本
(四)^ ﹃努爾哈赤伝﹄2P
(五)^ ﹃満文太祖高皇帝本紀書﹄嘉慶本
(六)^ “萬曆15年11月4日段62783”. 神宗顯皇帝實錄. 192
(七)^ “萬曆29年11月7日段67044”. 神宗顯皇帝實錄 . 365
(八)^ “宣祖25年(1592)10月9月18日段60226”. 朝鮮王朝實錄. 30
(九)^ “宣祖22年(1589)7月12日段59874”. 朝鮮王朝實錄. 23
(十)^ “宣祖28年(1595)7月25日段61251”. 朝鮮王朝實錄. 65
(11)^ “宣祖29年(1596)2月2日段61419”. 朝鮮王朝實錄. 72
(12)^ ab“光海君日記 (太白山本) 6年(1614)6月25日段68268 ”. 朝鮮王朝實錄. 79. "建州夷酋,佟奴兒哈赤,本名東㺚。我國訛稱其國爲奴可赤,此本酋名,非國名。酋本姓‘佟’,其後或稱‘金’,以女眞種故也。"
(13)^ “癸未歲至甲申歲萬曆11年至12年段260”. 太祖高皇帝實錄. 1
(14)^ “太祖高皇帝實錄”. 清實錄. 1
(15)^ 清太祖ヌルハチと清太宗ホンタイジ, p. 15.
(16)^ ab清太祖ヌルハチと清太宗ホンタイジ, p. 16.
(17)^ 清太祖ヌルハチと清太宗ホンタイジ, p. 24.
(18)^ 清太祖ヌルハチと清太宗ホンタイジ, p. 32.
(19)^ 清太祖ヌルハチと清太宗ホンタイジ, p. 33.
(20)^ 清太祖ヌルハチと清太宗ホンタイジ, p. 34.
(21)^ 清太祖ヌルハチと清太宗ホンタイジ, p. 3.
(22)^ 清太祖ヌルハチと清太宗ホンタイジ, p. 43.
(23)^ ab清太祖ヌルハチと清太宗ホンタイジ, p. 46.
(24)^ 清太祖ヌルハチと清太宗ホンタイジ, p. 47.
(25)^ 清太祖ヌルハチと清太宗ホンタイジ, p. 48.
(26)^ 清太祖ヌルハチと清太宗ホンタイジ, p. 49.
(27)^ 清太祖ヌルハチと清太宗ホンタイジ, p. 50.
(28)^ 清太祖ヌルハチと清太宗ホンタイジ, p. 52.
(29)^ ab清太祖ヌルハチと清太宗ホンタイジ, p. 53.
(30)^ 清太祖ヌルハチと清太宗ホンタイジ, p. 76P.
(31)^ 清太祖ヌルハチと清太宗ホンタイジ, p. 82.
(32)^ 清太祖ヌルハチと清太宗ホンタイジ, p. 90.
(33)^ 清太祖ヌルハチと清太宗ホンタイジ, p. 38.
(34)^ 清太祖ヌルハチと清太宗ホンタイジ, p. 94.
(35)^ 清太祖ヌルハチと清太宗ホンタイジ, p. 98.
(36)^ https://japanese.cri.cn/20180105/c5267b3f-ae75-1e56-facf-bf2cc65ce1df.html
(37)^ abcd﹃満和蒙和対訳満洲実録﹄
(38)^ 清太祖ヌルハチと清太宗ホンタイジ, p. 17.
(39)^ 清太祖ヌルハチと清太宗ホンタイジ, p. 19.
(40)^ ﹃満州実録 巻一﹄
(41)^ 清太祖ヌルハチと清太宗ホンタイジ, p. 21.
註釈
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(一)^ 参考‥﹁㺚﹂犭+達。﹁獺かわうそ﹂の異体字。
(二)^ 参考‥生前のヌルハチは貝勒ベイレや汗ハンは名のったものの、皇帝フワンディを名のったことはないため、清朝に皇后が現れるのは子のホン・タイジ以降であり、その第一号がホン・タイジの生母であるモンゴ・ジェジェ。
文献
編集史書
編集- 編者不詳『滿洲實錄』天聡9年 (1635) (漢) *中央研究院歴史語言研究所版
- 編者不詳『manju i yargiyan kooli:滿洲實錄)』天聡9年 (1635) (満) *今西春秋版
- 覚羅・勒德洪, 他『太祖高皇帝實錄』崇徳元年 (1636) (漢) *中央研究院歴史語言研究所版
- 『朝鮮王朝實錄』(漢) *中央研究院歴史語言研究所版
- 趙爾巽, 他100余名『清史稿』清史館, 民国17年(1928) (漢) *中華書局版
日本語
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●若松寛﹃奴児哈赤﹄︵第2期中国人物叢書8‥人物往来社、1967年︶
●今西春秋編﹃対校清太祖実録﹄︵国書刊行会、1974年︶
●松浦茂﹃清の太祖ヌルハチ﹄︵中国歴史人物選‥白帝社、1995年8月︶
●立花丈平﹃清太祖ヌルハチと清太宗ホンタイジ : 清朝を築いた英雄父子の生涯﹄近代文芸社、1996年。ISBN 477335142X。 NCID BN15494511。全国書誌番号:96070335。
●松村潤﹃清太祖實録の研究﹄︵東北アジア文獻研究會、2001年3月︶
●鄭杜熙、李璟珣編著﹃壬辰戦争16世紀日・朝・中の国際戦争﹄︵金文子監訳 小幡倫裕訳 明石書店 2008年12月︶
●三宅理一﹃ヌルハチの都 満洲遺産のなりたちと変遷﹄︵ランダムハウス講談社、2009年2月︶
●森田雅幸﹃天命は易ったか 清の太祖アイシンギョロ・ヌルハチ﹄︵文芸社、2011年8月︶
中国語
編集- 閻崇年『努爾哈赤伝』(北京出版社、2006年)[1] ISBN 9787200016598