井口喜源治

研成義塾の創設者

井口 喜源冶(いぐち きげんじ、明治3年5月3日1870年6月1日) – 昭和13年(1938年7月21日)は、長野県安曇野市出身で、キリスト教精神に基づく私塾「研成義塾」の創設者である。

井口喜源治の胸像(井口喜源治記念館)

生い立ち

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生家「江戸屋」跡に建つ井口喜源治記念館

宿[1]3188417[2][1]W[3]

189023退[4]189326[4]

相馬愛蔵と禁酒会

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帰郷するとすぐに、愛蔵が主唱する東穂高禁酒会に入会し、積極的に社会活動に参加していった[5]。また、聖書を通してキリスト教へ傾倒していった。しかし、教え子の中からキリスト教を信仰するものが続出したことや、キリスト教に基づき、芸妓置屋の設置に反対したことから[6]、校長、その他の教員たちから排斥されることになってしまった。原因は、当時の田舎ではキリスト教はヤソと言われ毛嫌いされていたことと、井口が教壇を使って生徒達に布教活動をしたのではないかと思われたことであった。結果的に、1898年(明治31年)井口は公教育の場を追われることとなった。

研成義塾の設立

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研成義塾跡

[6]

2[7]

19317 [8]800

井口と内村鑑三

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内村鑑三(1901年)

[6]

190134

 

信州教育への影響

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1928330

193271020[8]193813721113069[9]

脚注

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  1. ^ a b 「井口喜源治と研成義塾」p.841
  2. ^ 高村と々力村の意
  3. ^ 「安曇野・穂高町の人物群像」p.146
  4. ^ a b 「安曇野・穂高町の人物群像」p.125
  5. ^ 「井口喜源治と研成義塾」p.843
  6. ^ a b c 「長野県史 通史編 第7巻」p.544
  7. ^ 「安曇野・穂高町の人物群像」p.135
  8. ^ a b 「井口喜源治と研成義塾」p.852
  9. ^ 「井口喜源治と研成義塾」p.852

参考文献

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  • 『井口喜源治と研成義塾』 南安曇教育会、1981年
  • 『孜々として―安曇野・穂高町の人物群像』 穂高中学校編、2000年
  • 長野県史 通史編 第7巻 近世1』

関連文献

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  • 『井口喜源治』 研成義塾教友会、1953年
  • 『キリスト教社会問題研究 第19号・第21号』 同志社大学人文科学研究所、1971年
  • 『信州穂高の人脈 井口喜源治と研成義塾』 同志社大学人文科学研究所、1973年
  • 坂本令太郎 著『近代を築いたひとびと 3』 農山漁村文化協会、1975年
  • 斎藤茂、横内三直 編『井口喜源治』 井口喜源治記念館、1976年
  • 『長野県歴史人物大事典』 郷土出版社、1989年
  • 『安曇野人間教育の源流 1-3巻』 井口喜源治記念館、2003-2009年

外部リンク

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