八戸大火

1924年に青森県八戸市で起こった大火



1864188841924516[1]19241924

概要

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1924

19241351641831,3936,9577505807250[2]

江戸時代~明治時代の大火

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1924年以前に現在の八戸市中心市街地で発生した大火は以下の通りである。

1864年

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18641228廿317443
  • 被災区域 - 裏通りの町組町から十一日町まで焼失した。

1888年

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1888年明治21年)4月9日、八戸町廿六日町で発生した。火元にちなみ「莨屋(たばこや)焼け」とも言われている。被災家屋は312棟、土蔵79棟、小屋50棟にのぼる。

  • 被災区域 - 裏通りは十一日町、表通りは三日町から十八日町まで焼失した。

1924年の大火

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出火原因

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火事は1924年大正13年)5月16日午前0時50分[1]に八戸町本鍛冶町(現在の神明宮裏)、経木職人のカマドの残り火から出火し、火は強い南西の風にあおられ延焼した。6時間にわたり八戸町内を焼き尽くした。

出火と同時に半鐘が連打され、八戸の消防組はもちろん、隣接の町村である尻内、三戸などからも消防隊の応援が駆けつけ、消防団員2,000人余りが出動し、蒸気ポンプ2台、腕用ポンプ49台で消火にあたった。しかし、ため池などの消防水利がほとんどなかった上、強風にあおられ、堤町から鳥谷部町に設けた第一次防御線が次々に破られて、かつてない程の大火になった。

被災区域

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被災面積は当時の八戸町のおよそ半分以下、被災者も総人口の5分の2(40%)だったが、商工業の中心部を全部焼失したため、八戸町に壊滅的な打撃を与えた。詳細の被災区域は以下のとおりである。

廿三日町、十三日町三日町、六日町、八日町、十八日町、廿八日町、塩町、下組町表通り、廿六日町、六日町、朔日町、十一日町、下大工町、柏崎新町の裏通りと鳥谷部町、鷹匠小路、長横町、岩泉町[1]

被災した主な建物

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 - 

 - 便

被災者支援

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大火発生後に青森県は青森市において「八戸町火災救護会」を組織し、被災者への低金利貸付を行った。この事業は1935年(昭和10年)10月まで続けられた[3]

大火後の復興

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[1][4]

脚注

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注釈

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出典

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  1. ^ a b c d 八戸市史編さん委員会(編)『八戸市史 通史編』(臨川書店、1987年)pp.361-363(NDLJP:9571854/198NDLJP:9571854/199
  2. ^ 現在価値とは大正10年時点の米価と現在2008年の物価から算出
  3. ^ 『新編八戸市史 近現代資料編2』八戸市、2008年、37P「奥南新報」1924年(大正13年)10月4日
  4. ^ 『新編八戸市史 近現代資料編2』八戸市、2008年、38P「奥南新報」1924年(大正13年)11月28日

参考文献

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  • 楠美鐵二「青森県百科事典」東奥日報社、1981
  • 『探訪 八戸の歴史』八戸歴史研究会、2003
  • 『新編八戸市史 自然編』八戸市、2005
  • 『新編八戸市史 近現代資料編2』八戸市、2008

関連項目

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