大東亜共栄圏
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概要
編集(インドネシア地図参照)。
「大東亜が日本の生存圏」
編集日本・満洲国・中国を一つの経済共同体(日満支経済ブロック)とし、東南アジアを資源の供給地域に、南太平洋を国防圏として位置付けるものと考えられており、「大東亜が日本の生存圏」であると宣伝された。ただし、「大東亜」の範囲、「共栄」の字義等は当初必ずしも明確にされていなかった。
用語としては陸軍の岩畔豪雄と堀場一雄が作ったものともいわれ、1940年(昭和15年)7月に近衛文麿内閣が決定した「基本国策要綱」に対する外務大臣松岡洋右の談話に使われてから流行語化した。公式文書としては1941年(昭和16年)1月30日の「対仏印、泰施策要綱」が初出とされる。ただし、この語に先んじて1938年(昭和13年)には「東亜新秩序」の語が近衛文麿によって用いられている。
大東亜共同宣言
編集1941年(昭和16年)に日本がアメリカ合衆国やイギリス帝国に宣戦布告をして大東亜戦争(太平洋戦争)が勃発し、アジアに本格的に進出すると、日本は大東亜共栄圏の建設を対外的な目標に掲げることになった[10](大東亜建設審議会も参照)。1943年(昭和18年)には日本の占領地域で欧米列強の植民地支配から「独立」させた大東亜共栄圏内各国首脳が東京に集まって大東亜会議を開催し、大東亜共同宣言が採択された。
東条首相の説明
編集大東亜共栄圏の実態と評価
編集計画の破綻とその後
編集八紘一宇
編集大東亜共栄圏を語る上で重要な概念にこの語がある。この語は日本が大東亜共栄圏の建設を推進するための政策標語(スローガン)として広く掲げられた。
アジア主義との関係
編集脚注
編集注釈
編集- ^ ちなみにヘンリー 2012, pp. 127–128での日本語訳では以下のように書かれている。
日本は第二次世界大戦において、自国ではなく、大東亜共栄圏の他の国々に思いがけない恵みをもたらした。それまでアジア・アフリカを200年の長きにわたって支配してきた西洋人は、無敵で、あたかも神のような存在だと信じられてきたが、日本人は実際にはそうではなかったことを、人類の面前で証明してしまった。これは、まさに歴史的な偉業であった。…日本は白人のアジア侵略を止めるどころか、帝国主義、植民地主義、人類差別に終止符を打つことをなしとげた。 — アーノルド・J・トインビー 英紙『オブザーバー』1956年10月28日[21]
出典
編集参考文献
編集関連文献
編集- 判澤純太「「大東亜会議」外交と東南アジア=欧米植民地の初期独立」『新潟工科大学研究紀要』第10号、2005年12月
- 中尾幸「大東亜共栄圏構想の成り立ちと国益」『日本大学大学院総合社会情報研究科 電子紀要第9号』、2008年7月
関連項目
編集- 大東亜省
- 興亜院
- アジア主義
- 大東亜会議
- 大東亜共同宣言
- 雁行形態論
- 世界征服
- 肌の色による差別
- 第二次世界大戦における枢軸国の勝利
- 大ゲルマン帝国
- 新秩序 (ナチズム) - ナチズムによる戦後世界の構想
- ラテン民族圏 (同盟構想)
- 高い城の男 - 枢軸国が勝利したという設定のフィリップ・K・ディックのSF小説。