尾高亀蔵
経歴
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佐賀県出身[1][2][3]。農業・大谷平治の二男として生まれ、尾高家の養子となる[1]。唐津中学校を経て、1904年︵明治37年︶10月、陸軍士官学校︵16期︶を卒業する[1][2][4]。同期には岡村寧次・土肥原賢二・板垣征四郎・安藤利吉ら陸軍大将がいる。同年11月、歩兵少尉に任官し歩兵第13連隊付となる[1][4]。日露戦争に出征後、陸士生徒隊付、歩兵第13連隊中隊長などを経て、1916年︵大正5年︶11月、陸軍大学校︵28期︶を卒業した[1][2][3]。
陸軍歩兵学校教官、関東兵站参謀、教育総監部付、教育総監部課員などを歴任し、1923年︵大正12年︶8月、第14師団参謀となる[1]。第1戦車隊長、陸士本科生徒隊長、イギリス出張、歩兵第61連隊長などを経て、1932年︵昭和7年︶8月、陸軍少将に進級し陸軍兵器本廠付となる[1][2][3]。東京警備参謀長、第2独立守備隊司令官を勤め、1936年︵昭和11年︶4月、陸軍中将に昇進した[1][2][3]。
第19師団長の際、張鼓峰事件が発生しソ連軍と交戦した[2]。新設の第12軍司令官となり、中国北部での任務に従事[1][2][3]。次いで第3軍司令官となり、満州東部の警備を担った[1][2][3]。軍事参議官を経て、1941年︵昭和16年︶6月、予備役に編入された[1][2][3]。
1942年︵昭和17年︶6月から終戦まで満州国建国大学副総長を務め、1946年︵昭和21年︶9月に帰国した[1]。
著作
編集- 太田庄次編『尾高亀蔵の遺稿と追憶』私家版、1982年。
親族
編集栄典
編集- 位階
- 勲章
- 1940年(昭和15年)8月15日 - 紀元二千六百年祝典記念章[6]