山田吉利
日本の江戸時代の武士
概要
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吉利は備中新見藩の藩士、後藤五左衛門の次男であった。山田朝右衛門の襲名は、先代の出家が1847年であることからそれ以前であろうと推定されている。
吉利は据物斬り以外にも刀剣鑑定に優れ、公儀御用のほかに御三家御用、さらには公儀腰物拝見役を拝命した。歴代の山田浅︵朝︶右衛門は刀の試し斬りを行ったことから刀剣鑑定も行っていたが、これは異例の抜擢であった[1]。吉利は家譜︵﹁源姓山田家系譜﹂という︶に﹁先祖に先例なき特典なり﹂と割り注を入れている。また、吉利はこれに伴う扶持米を﹁先祖より浪人の分にて﹂として辞退している。
1868年5月27日、吉利は市政裁判所から﹁市政裁判所附﹂を命じられ、翌1869年には山田家伝来の名刀﹁備前長船景光﹂︵通称‥小竜景光︶[2]を宮内省に献上した。宮内省は奇特な行為として500円を下賜したが、これを明治天皇による買い上げと見る説もある。
1869年、吉利は家を長男の浅雄︵山田吉豊︶に譲り、隠居して麹町平河町︵現、千代田区︶2丁目の本宅から同8丁目清水谷上の隠宅へ移った。歴代の山田浅︵朝︶右衛門家当主は、死刑執行人としての家業を子に継がせることを嫌悪し、弟子の中から養子をとっており、実子に家を継がせたのは唯一の例である。
1870年4月15日、政府は山田家家伝の製薬の﹁山田丸﹂︵浅右衛門丸・人丹などとも称する︶など、人間の肝臓や脳などを材料とした薬の販売を禁止した。
1872年の壬申戸籍編成に際し、吉利は隠居のまま一家を新たに興し、販売禁止の製薬﹁山田丸﹂のみを吉利の家へと分け、山田家本家から﹁山田丸﹂を分離させた。なお、麹町区の﹁除籍簿﹂︵58号︶には﹁平民﹂とある。
吉利の墓は勝興寺︵新宿区須賀町8番地︶と正源寺︵港区白金2丁目7番19号︶とにある。これは吉利が養子であり、遺言で葬式は勝興寺、屍は正源寺としたためである。正源寺は実家の後藤家の菩提寺であった。勝興寺の墓誌には﹁明治十七年十二月二十九日、天寿院慶心和水居士、第七世山田朝右衛門吉年、行年七十有二歳﹂とある。
関連作品
編集- テレビドラマ
参考文献
編集- 永島孫一「八代目首斬 淺右衞門吉豊」『伝記』第3巻第3号、伝記学会、1936年、60-68頁、doi:10.11501/148649。
- 永島孫一「首斬淺右衞門吉利」『伝記』第2巻第6号、伝記学会、1935年、77-84頁、doi:10.11501/1486481。