岩崎喜勢
岩崎 喜勢(いわさき きせ、弘化2年2月10日(1845年3月17日) - 大正12年(1923年)4月8日)は、江戸時代末期(幕末)から大正にかけての女性。三菱財閥の祖・岩崎弥太郎の妻。
生涯
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弘化2年︵1845年︶、土佐国長岡郡三和村浜改田︵現・高知県南国市︶郷士・高芝重春︵玄馬︶・徳夫妻の次女として誕生。
生まれて間もなくに父・重春が死去したため、母・徳は安芸郡井ノ口村︵現・高知県安芸市︶郷士の久萬氏に再嫁し、喜勢は吾川郡御畳瀬村︵現・高知県高知市︶に住む叔父の高芝小七郎・古馬夫妻によって養育された。
文久2年︵1862年︶、母の再嫁先である久萬直勝と吉村喜久次・はつ夫妻︵岩崎弥太郎の姉夫婦にあたる︶の仲介・媒酌によって土佐藩の地下浪人・岩崎弥太郎に嫁いだ。弥太郎との間に長女・春路︵加藤高明夫人︶、長男・久弥︵三菱の3代目総帥︶、次女・磯路︵木内重四郎夫人︶の1男2女をもうけ[1]、家庭では義父・弥次郎や義母・美和によく仕えたといわれている。喜勢は明治7年に東京府に移転するまで美和達と土佐で暮らした。
維新後の明治7年︵1874年︶、東京府︵現・東京都︶に転居。自邸内に雛鳳館を作って子女︵養子や弥太郎の妾腹の子を含む︶の教育を行い、また美和とともに真言律宗の釈雲照に帰依し、十善会・婦人正法会を発足した。
大正12年︵1923年︶、死去。墓所は東京都豊島区の染井霊園︵のちに染井霊園に隣接する岩崎家の墓地に改葬されている︶。