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経歴

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崇福寺文書

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崇福寺は横岳山ともいい、九州大宰府にあった臨済禅の道場で、大応国師はここに於いて多くの門弟を養成した。峰翁祖一はこゝで入門してその法嗣となったが、師の没後同寺に出世した。其後峰翁の門下もこれに出世した。

  • 勅賜正宗大暁禅師住横岳山万年崇福寺語録 門人宗雲等編

峰翁禅師行実 時宗胞弟廿四才出家、顕日高峰につく。後大応に学ぶ。晩美濃之明覚山大円寺に入る。法席丕盛。建武丁丑秋九月廿一日忽有微恙、入寂、老衲九十八。

海蔵寺文書

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崇福三世峰翁祖一禅師 駿州の産、鎌倉執権北条時宗の母弟なり。時宗の実母最明寺時頼の妾にして毛利蔵人の娘なりしが、時宗の嫡母北条氏(北条重時の娘)に養われて家督。時宗の実母毛利氏は後北条義宗に嫁し数子を挙ぐ。禅師は時宗と異父兄弟なり。廿四才出家。大応国師に横岳にて勤業。遠賀郡内浦空徳谷を修禅場として結構し、一寺を開く。之を海蔵寺と称す。横岳二世絶崖転住後、禅師は迎えられて崇福に入院第三世となる。山内に一刹を開基して大聖庵といふ。後大圓寺に転住。 延元二年丁丑九月廿一日大圓寺にて遷化春秋九八(海蔵寺旧記)

妙心寺記録

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峰翁祖一禅師は南浦大応国師の法嗣であって博多崇福寺の三世、筑前海蔵寺の開山、正宗大暁禅師と話す。海蔵寺は福岡県遠賀郡岡垣村宇内浦にある。 峰翁禅師はこれより先勢州桑名城下後藤不干斎の少林寺を創立し、其の上棟の日に於て梁南禅棟禅師を得度す。梁南禅棟の名は之に因んだのである。同師は尾州総見寺の二世である。(妙心寺派 教務本所) (大正六年に大圓寺最後の住職希菴玄密和尚の建碑に際し、恵那郡史の編集者が妙心寺へ問合せた時の回答の抜卒)

峰翁祖一文献の疑問点

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駿981084239832



2124191272西

413655051372

著書

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  • 仏祖直伝

関連リンク

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