[1]1943181026[2][1]
事故直後の現場の様子

事故の状況

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経過

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29418401411848

185130254294[2]D51 65114[1][3]

1854241[3][4][5]2345[3]

救護活動

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[3][6][7][3][6]3[4]

原因

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原因は車両入換で信号掛と操車掛の打ち合わせ不良と操車掛の進路確認不良のため車両を異線に進入させ上り本線を支障させたことと、信号掛が列車防護措置をとらなかったことである。操車掛は接近中の貨第254列車を停止すべく北部信号所に向かったが約500mの距離があり、間に合わなかったとされる。

最初の事故は貨車入換中に発生したもので、入換作業は操車掛の進路要求により信号掛が進路構成し操車掛が機関士に指示することで開始するが、この事故では信号掛が異進路を構成し操車掛が入換標識を確認せず入換を開始したことに起因する。当時土浦駅の信号機は腕木式で、転轍器を割出しても自動的に場内信号機に停止信号を現示することは出来なかったとされる。信号掛は戦時中に列車運行を阻害する事故を発生させたことに気が動転したのか、北部信号所に連絡するなど上り列車抑止手配を取らなかったため、上り貨物列車の進入→衝突を招いた(列車防護不適切)。南信号所で対応可能であった下り場内信号機に停止信号を現示していれば、下り旅客列車の進入は防止可能であった(列車防護不適切)[8]

死者数

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[9]

 - 110107

 - 94103

 - 93103

 - 96[10]

 - 92100[11]

705777

480~88[12]80[13]4[14][15]1105753350430[15]120~128[16]

事故後

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2219651986696

8020231

脚注

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注釈

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  1. ^ 『土浦市史』1055頁の表記による。
  2. ^ 『事故の鉄道史』229頁は日付を「10月21日」(この日は出陣学徒壮行会が行われた)と誤記。
  3. ^ 『茶の間の土浦五十年史』305頁、『土浦市史』1056頁では「3両目は桜川橋梁上から脱線転落、4両目は七分通り桜川に転落した。」と記載。

出典

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(一)^ ab726

(二)^ 1055

(三)^ abcd1056

(四)^ ab727

(五)^ 67

(六)^ ab305

(七)^ 66

(八)^ 229-252

(九)^ 244

(十)^ 243

(11)^ 727

(12)^ 130

(13)^ 245

(14)^ 125-130

(15)^ ab249

(16)^ 250

参考文献

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  • 市村壮雄一『茶の間の土浦五十年史』いはらき新聞社、1965年
  • 『土浦駅史』土浦駅、1967年
  • 『土浦市史』土浦市史編さん委員会、1975年
  • 『茨城県大百科事典』茨城新聞社、1981年
  • 佐賀純一『木碑からの検証‐戦時下の土浦駅構内事故』上巻、下巻、筑波書林、1984年
  • 佐々木冨泰、網谷りょういち『事故の鉄道史―疑問への挑戦』日本経済評論社、1993年
  • 「市民の記憶」収集事業報告書『土浦の人と暮らしの戦中、戦後』土浦市立博物館、2019年。

関連項目

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 - 

 - D51 651

 - 1241

 (1949)