広瀬正
略歴
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●1924年 - 東京市京橋区︵現在の東京都中央区︶に生まれる
●1942年 - 日本大学工学部建築科に入学
●1952年 - ジャズバンド﹁広瀬正とスカイトーンズ﹂を結成
●1960年 - ﹁広瀬正とスカイトーンズ﹂、借金のため解散
●1961年 - デビュー作﹃殺そうとした﹄が﹃宝石﹄臨時増刊号に掲載される。また同年、同人誌﹃宇宙塵﹄に参加
●1963年 - 日本推理作家協会会員となる
●1965年 - ﹃宇宙塵﹄に処女長編﹃マイナス・ゼロ﹄を連載。また、この頃、パロディ創作集団﹁パロディ・ギャング﹂を水野良太郎、伊藤典夫、豊田有恒と結成。のちに豊田・伊藤が抜け、片岡義男、小鷹信光が加入。さらにのちにしとう・きねおが参加した[1]。竜の子プロダクションのアニメーション﹃宇宙エース﹄の脚本を執筆。
●1966年~1968年 - 友人の鳥海尽三・鈴木良武らとの三木瀬たかしもしくは三木瀬隆の合同ペンネームを用いて、テレビアニメのシナリオを執筆。
●1970年 - ﹃マイナス・ゼロ﹄刊行、作家活動に復帰。河出書房新社での担当編集者は龍円正憲。﹃マイナス・ゼロ﹄により第64回直木賞候補に推されたが落選。
●1971年 - ﹃ツィス﹄、﹃エロス﹄刊行。﹃ツィス﹄により第65回、﹃エロス﹄により第66回の直木賞にそれぞれ推されたが、ともに落選。﹃マイナス・ゼロ﹄に続き、いずれの回も司馬遼太郎のみが激賞したが、他の委員がすべて反対して、受賞にいたらなかった。
●1972年 - 3月9日心臓発作により急逝、享年47。﹁三月九日の昼過ぎ、広瀬正は赤坂の路上をいそぎ足に歩いていた。少し時間に遅れていたからだ。︵略︶同時刻、赤坂の路上にいたある人は、自分の前をいそぎ足に歩いていく肥り気味の中年男性が、突然、崩れるように歩道の上にのめりこんでいくのを目撃した。︵後略︶﹂︵筒井康隆編﹃'72 日本SFベスト集成﹄解説より[2]︶﹁葬儀は小雨の中で行われ、SF作家のほとんど全員が列席した。彼の棺には﹁タイム・マシン搭乗者﹂と書かれていた。﹂︵﹃'71 日本SFベスト集成﹄収録﹁二重人格﹂解説より︶ 同年6月﹃鏡の国のアリス﹄﹃T型フォード殺人事件﹄が刊行された。
●1973年 - 短編集である﹃タイムマシンのつくり方﹄が刊行。日本SF大会において﹃鏡の国のアリス﹄が星雲賞日本長編部門を受賞したことが発表された。
エピソード
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●日活時代の藤田敏八が、﹃マイナス・ゼロ﹄を映画化しようとして、広瀬と共同で脚本まで執筆したという。だが、過去の銀座のセットを作るのに予算がかかりすぎるため、企画は没となった。脚本は棺に納められたという[3]。
●同映画脚本は、1972年の﹃宇宙塵﹄6月号~8月号︵No.164-No.167︶に全文掲載されている。脚本では、原作から大きく改変されていた部分がある。
●脚本作家として活躍していたマッハGoGoGo の第一話では、﹁3番、ロータス、ドライバー、ヒロセ・タダシ君﹂のナレーションが流れていた。
テレビ
編集脚本
編集- ビッグX TBS 1964 ~ 1965
- 宇宙エース CX 1965 ~ 1966
- W3(三木瀬隆名義) CX 1965 ~ 1966
- 海賊王子(三木瀬たかし名義) NET 1966
- 魔法使いサリー(三木瀬たかし名義)NET 1966 ~ 1968
- マッハGoGoGo CX 1967 ~ 1968
- ひみつのアッコちゃん(三木瀬たかし名義) NET 1969 ~ 1970
原作
編集- もしも・あの時 NHK 1977(原作「エロス─もう一つの過去」)
作品リスト
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2015年1月現在、以下の全作品・短編集は集英社文庫版が再版を続けており、購入可能である。
●単行本
●﹃マイナス・ゼロ﹄河出書房新社、1970年9月
●﹃ツィス﹄河出書房新社、1971年4月
●﹃エロス﹄河出書房新社、1971年11月
●﹃鏡の国のアリス﹄河出書房新社、1972年6月
●﹃T型フォード殺人事件﹄講談社︵新鋭推理作家書下しシリーズ︶、1972年6月
●﹃T型フォード殺人事件﹄講談社︵ロマン・ブックス︶ 1973年
●︵短編集︶﹃タイムマシンのつくり方﹄河出書房新社、1973年3月
●全集
●﹃広瀬正・小説全集﹄全6巻、河出書房新社、1977年3月~8月 のち集英社文庫 1982年2月~7月
●﹃広瀬正・小説全集﹄全6巻 集英社文庫 復刊、2008年7月
脚注
編集- ^ 「パロディ・ギャング」については『小説すばる』2009年1月号の牧眞司による年譜より(P.159-160)
- ^ '72年版には広瀬正の作品は収録されていない
- ^ http://channel.slowtrain.org/movie/column-isan/isan_bn/isan1112.html