143141817429 - 482518681010
日柳燕石の自題畫(画)像

生涯

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()[1]13 14(1837)[2]

2133

(1860)53[3] (1863)[4]()

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18654418682022[6]23西

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日柳燕石の漢詩と解説[8]

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盗に問う
原文 書き下し文 通釈
問盗何心漫害民 盗に問う 何の心ぞ漫(みだり)に民を害(そこ)なうかと 盗賊に尋ねた。「どういう了見で民衆に害を加えるのか?」
盗言我罪是繊塵 盗は言う 我が罪は是れ繊塵なり 盗賊の答えは「我々の犯した罪は塵ほどの小さなもの。
錦衣繡袴堂堂士 錦衣繡袴(きんいしゅうこ) 堂堂の士 あの錦の衣に刺繡のある袴をつけた堂々たるお偉方は
白日公然剥取人 白日公然と人を剥取すと 真昼間だというのに公然と収奪しているではありませんか。」

盗賊たちに問いかけるというかたちで、答弁を通し、幕閣、諸侯を批判した作品である。 盗賊の犯した罪をはるかに超える大罪を白昼公然とやってのけている幕閣、諸侯の存在を許しがたいものとして捉えている。 財政の逼迫という表向きの理由を盾に、平然と民衆に重税を課して搾れるだけ絞りとっていながら、自分たちだけは錦と刺繡で着飾っている者たちの大罪を、この詩で告発しようとしたのである。当時にあって、声高に討幕を叫んでいた勤王の志士たちさえ、自らが所属する藩主諸侯を批判し告発することはできなかった。これは、燕石が武士ではなく草莽の侠客であったから詠じることができた告発詩であった。

人物

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西

稿西

 

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逸話(掏児に掏られた物を探して取り返した話[12])

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傳説[14](雑誌「ことひら」所載)

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参考文献

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日柳燕石が登場する作品

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脚注

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  1. ^ a b 『日柳燕石』17頁
  2. ^ 『日柳燕石』28頁
  3. ^ 『日柳燕石』56頁
  4. ^ 森田節斎は文久三年備中倉敷に赴いて、学莚を開き、諸藩の尊王攘夷の士多くその門下に集った。『明治維新人名辞典』1010頁
  5. ^ 『明治維新人名辞典』987頁
  6. ^ 『日柳燕石』240頁
  7. ^ 田尻佐 編『贈位諸賢伝 増補版 上』(近藤出版社、1975年)特旨贈位年表 p.19
  8. ^ 『幕末維新の漢詩 志士たちの人生を読む』53~65頁
  9. ^ 『日柳燕石』19~20頁
  10. ^ 『日柳燕石』22頁
  11. ^ a b 『江戸時代 人づくり風土記〈37〉ふるさとの人と知恵 香川 』313頁
  12. ^ 『日柳燕石』56~58頁
  13. ^ 『三国志』魏書崔琰伝に「辭色撓まず」と用例がある。
  14. ^ 『日柳燕石』54~55頁
  15. ^ 「袁彦道(えんげんどう)」とは博打の異名である。

外部リンク

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