有坂鉊蔵
日本の海軍軍人
有坂 鉊蔵︵ありさか しょうぞう、1868年2月4日︵慶応4年1月11日︶ - 1941年1月19日︶は、日本の海軍軍人、工学者、考古学者。工学博士。東京帝国大学名誉教授、帝国学士院会員。最終階級は海軍造兵中将。海軍造兵廠長、東京帝国大学教授を歴任した。
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経歴
編集勘定所支配下四川用水方普請役、有坂銓吉(せんは金偏に全)の二男として生まれる。1887年9月、東京帝国大学工科大学に入学し海軍技術学生(造兵学科1期生)となる。同大学を1890年7月に卒業しフランス(パリおよびルアーブル)に留学。翌年1月からオチキス速射砲製造所で修学する。
軍歴
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1893年12月に帰国し、海軍少技士に任官。造兵廠製造科主幹、呉仮設兵器製造所製造主幹などを歴任。1898年から1900年まで造兵監督官としてイギリスに出張。呉造兵廠製造科主幹、呉工廠造兵部部員、海軍省出仕、呉工廠造兵部長などを歴任し、1909年10月、造兵大監に進級。呉工廠砲熕部長、艦政本部出仕、海軍技術本部員、造兵廠長などを経て、1915年12月、造兵総監、1920年12月、造兵中将に進級した。1923年3月、予備役に編入され、1935年1月に退役した。
教授歴
編集逸話
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●若い頃の有坂はエンジニアを志望する一方、考古学にも深い関心を持ち、しばしば各地の遺跡を訪ねて遺物を採集していた。1884年3月、有坂は東京府本郷区向ヶ岡弥生町︵現東京都文京区︶で素焼きの壷を発見し、その過程で坪井正五郎、白井光太郎とも共同で遺跡研究を行うことになった。後に、有坂が向ヶ岡弥生町で発見した壺が、当時通例であった﹁石器時代の縄文土器﹂とは異なるものと認められるようになり、発見地の地名から﹁弥生式土器﹂と呼ばれるようになり、これが考古学界に普及して、後に﹁弥生時代﹂の時代名を生むことにもなった。