松平乗全
1794-1870, 幕末の大名、老中。三河西尾藩第4代藩主。大給松平家宗家9代。
松平乗全 | |
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![]() 松平乗全像(盛巌寺蔵) | |
時代 | 江戸時代後期 - 明治時代 |
生誕 | 寛政6年12月9日(1795年1月29日) |
死没 | 明治3年7月6日(1870年8月2日) |
墓所 | 愛知県西尾市盛巌寺 |
官位 | 従四位下侍従、和泉守 |
幕府 | 江戸幕府寺社奉行、大坂城代、老中 |
主君 | 徳川家慶→家定→家茂 |
藩 | 三河西尾藩主 |
氏族 | 大給松平家 |
父母 | 父:松平乗寛、母:阿部正倫娘 |
兄弟 |
乗全、牧野忠衛、牧野忠恭、乗秩、 水野忠義正室、松平某室、松平信恵室 |
妻 | 正室:松平忠宝娘 |
子 |
乗昭、乗梏、乗氏、乗懿、乗承、 松平宗秀正室、松平乗利正室、 松平親良正室、松平近説正室 養子:乗秩 |
略歴
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3代藩主・松平乗寛の長男として誕生。母は阿部正倫の娘。弟に越後長岡藩に養子入りし、老中を務めた牧野忠恭がいる。同じく老中の阿部正弘は母方の従弟で、老中で日本赤十字社創設者の一人でもある松平乗謨︵後の大給恒︶は外孫にあたる。
幕府では寺社奉行、大坂城代を経て老中を務めた。同列の松平忠優︵後の忠固︶と歩調を合わせ、対外問題では開国・和親を、将軍継嗣問題では南紀派に与して紀州藩の徳川慶福︵後の家茂︶を推し、海防参与の水戸藩主徳川斉昭と対立したため、安政2年︵1855年︶、斉昭に譲歩した阿部正弘の命令で忠優と共に老中を免職され、閣外に放逐された。
しかしその後、正弘死後に幕政の実権を握った老中首座堀田正睦により、名誉回復の意味をこめて、帝鑑間席より溜詰格に栄転している。また、安政5年︵1858年︶には大老井伊直弼の推挙により老中に再任している。しかし直弼の暗殺︵桜田門外の変︶後は閣内での影が薄くなり、万延元年︵1860年︶に辞任、文久2年︵1862年︶に1万石減封の上で隠居を命じられ、末弟の乗秩が養子として家督を継いだ。幕府滅亡を経て乗秩の死後、末子の乗承が大給松平家の家督を相続している。
明治3年︵1870年︶に死去、享年76。墓所は愛知県西尾市の盛巌寺。
立山曼荼羅
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富山県立の立山博物館には何種類かの立山曼荼羅が展示されているがそのうちの1つ立山曼荼羅﹃宝泉坊本﹄は松平乗全が老中職を勤めるかたわら、安政5年︵1858︶に、既存の立山曼荼羅を見て立山曼荼羅を描き上げた。その表装には、松平乗全が以前徳川家茂︵江戸幕府第14代将軍︶から拝領した衣類を、事前に徳川慶喜︵江戸幕府第15代将軍︶の許可を得たうえで使用した。そして江戸城内で諸大名やその奥方等に披露した。その後師檀関係︵寺僧と檀家の関係︶を結ぶ宝泉坊に寄進されたものである。[1]
画中に﹁源乗全書﹂の墨書銘と落款が見られ、また裏書きにも﹁立山縁起四幅自模写 以寄附 越州立山寳泉坊・西尾拾遺源乗全 安政五年戊午十二月﹂と記載されている。
年表
編集系譜
編集父母
正室
- 松平忠宝の娘
子女
養子
- 松平乗秩 ー 実弟
脚注
編集- ^ 立山信仰史における芦峅寺衆徒の廻檀配札活動と立山曼荼羅 ―加賀藩支配によって特色が生まれた江戸時代の立山信仰― 福江充(富山県[立山博物館])より松平乗全が制作した立山曼荼羅についての抜粋 20ページ