池淵家
系譜
編集池淵家
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︵境港市上道町︶
三代目の三右衛門は学問にすぐれ、仏門に帰依し大坂、高野山に屢々往来し、苗字帯刀を許されていたという[1]。
五代・勘兵衛は医師をしていたか明らかでない[2]。
六代・恕軒は多くの医師、文士と交友があり思想家頼山陽とも親交があった[2]。文政8年68歳で没した[2]。
七代・令寿も医師となり、この頃池淵家は富裕であったのか天保7年の飢饉の折に施粥を行い、その施粥帳が残されている[2]。令寿は慶応2年73歳で没した[2]。令寿の長男令治は医術を学ぶため大坂に出て、中之島の儒者安藤太郎家に滞在したが、修行中コレラで病死したため弟・彦平が跡を継いだ[2]。彦平は医師であったかどうか明らかでない[2]。
九代・麗寿は弘化元年︵1844年︶彦平の長男として生まれ、万延元年︵1860年︶から文久2年︵1862年︶まで中野村の景山立碩の門に漢方医術を学び、更に松江の錦織春象について漢蘭折衷医術を学んだ[2]。元治元年︵1864年︶上道村で開業した。明治年間この地方の名医として評判であった[2]。大正3年︵1914年︶71歳で病没した[2]。
︵境港市朝日町︶
上道分家の初代の俗名は不明だが、戒名は﹁大医如水居士﹂とあって天保14年︵1843年︶に没しているので、本家六代目の恕軒の弟が分家したものと思われる[3]。
二代目の如仙は境・朝日町で開業した[3]。
三代目の碩庵も朝日町で開業した。又、同地で寺子屋を安政2年より明治4年︵1871年︶まで開いた[3]。
︵境港市栄町︶︶
中野村出身であり、玄造の代になって境に移ったという[4]。
二代・玄達は玄造の甥で若くして中野村の景山粛に医術を教えられた[4]。粛の娘・りんを嫁にもらい境村栄町で開業し、大いに繁盛した[4]。
竹治郎の長男貢は明治40年︵1907年︶東京慈恵医専を卒業し、更にアメリカに渡りカリフォルニア州市他各州の病院で研修し大正2年︵1913年︶帰国し境町栄町で開業した[4]。
貢の長男正賢は昭和14年︵1939年︶京都大学医学部を卒業し、陸軍軍医となったが戦後帰国し、米子医学専門学校︵現在の鳥取大学医学部︶の外科教室に勤めた[3]。昭和23年︵1948年︶上道村で開業していたが、翌年より栄町に戻って開業した[3]。
正賢の長男滋雄は鳥取大学医学部を卒業し、鳥取大学第一内科に勤務した[3]が、現在は栄町に戻り開業している。