河内鯨
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河内鯨の名前が登場するのは、﹃日本書紀﹄巻第二十七の、天智天皇8年︵669年︶の記事に、
是歳︵ことし︶、小錦中︵せうきむちう︶河内直鯨︵かふち の あたひ くぢら︶等︵ら︶を遣して、大唐︵もろこし︶に使︵つかひ︶せしむ[2]
だけであるが、このことは﹃新唐書﹄には、
咸亨︵かんかう︶元年︵670年︶、︹日本は唐に︺使ひを遣はして︹唐が︺高麗を平らげしこと︵668年︶を賀︵が︶す
と記されている[3]。
倭国︵日本︶側が高句麗の滅亡を知悉していたことは、天智天皇7年10月の記事に、
大唐︵もろこしの大将軍︵おほいくさのきみ︶英公︵えいこう=李勣︶、高麗︵こま︶打ち滅︵ほろぼ︶す
とある[4]。
鯨らの派遣の前年、12年の時を経て、新羅から倭国に金東厳︵きんとうごん︶ら使節が到来し[5]、近江朝廷側からは、中臣鎌足が新羅の金庾信に向け、また天智天皇が布勢耳麻呂を通じて文武王あてに﹁御調︵みつき︶輸︵たてまつ︶る船﹂を1隻ずつ贈っている[6]。さらに、近江朝廷は、絹50匹・綿500斤・韋︵おしかわ=なめし皮︶100枚を新羅の使者に授け[7]、道守麻呂︵ちもり の まろ︶・吉士小鮪︵きし の おしび︶らを新羅に派遣している[8]。高句麗滅亡後当時、新羅と唐との関係は悪化しており、唐への対抗上、新羅は倭国との友好関係を復活させようとしていた。新羅は、翌年9月にも調を進上している[9]。
その時に起こったことかどうかは不明だが、草薙剣が沙門道行︵どうぎょう︶に盗まれ、新羅に持ち去られそうになるという事件もあった︵草薙剣盗難事件︶[10]。
以上のような複雑な国際情勢下で、倭国の遣唐使派遣は再開されている。守大石を大使とする遣唐使︵665年︶[11]などに続けて、鯨たちが派遣されている。
この後、天智天皇10年1月︵671年︶に唐の百済鎮将・劉仁願の使いとして李守真︵りしゅしん︶が派遣され[12]、6月には、﹁百済の三部︵みたむら︶の使人の請︵もう︶す軍事﹂について宣している[13]。すなわち、唐側から何らかの軍事的要請があったことがわかる。同年、︵滅亡したはずの︶高句麗からも調が進上されている[14]。
河内鯨らの帰国についての記録は、何も残されていない。﹃日本書紀﹄巻第二十九によると、河内直氏は681年︵天武天皇10年4月︶、河内県︵かわち の あがた︶が﹁連﹂の姓を与えられている[15]。
脚注
編集- ^ 『日本書紀』欽明天皇2年7月条
- ^ 『日本書紀』天智天皇8年是歳条
- ^ 『新唐書』巻第二百二十、東夷伝、日本条
- ^ 『日本書紀』天智天皇7年10月条。大陸側の史料では9月13日になっている
- ^ 『日本書紀』天智天皇7年9月12日条
- ^ 『日本書紀』天智天皇7年9月26日条
- ^ 『日本書紀』天智天皇7年11月1日条
- ^ 『日本書紀』天智天皇7年11月5日条
- ^ 『日本書紀』天智天皇8年9月11日条
- ^ 『日本書紀』天智天皇7年是歳条
- ^ 『日本書紀』天智天皇4年是歳条
- ^ 『日本書紀』天智天皇10年正月13日条
- ^ 『日本書紀』天智天皇10年6月4日条
- ^ 『日本書紀』天智天皇10年正月9日条
- ^ 『日本書紀』天武天皇10年4月12日条