猪使子首
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﹃日本書紀﹄巻第二十九によると、以下の出来事の直前、猪使連氏は天武天皇13年︵684年︶の八色の姓の制定により、同年12月、宿禰の姓を与えられている[2]。
それに連続するかのように、同月、
大唐︵もろこし︶の学生︵ものならひひとども︶土師宿禰甥︵はじ の すくね をひ︶・白猪史宝然︵しらゐ の ふびと ほね︶、及び百済の役︵えだち︶の時に大唐︵もろこし︶に没︵をさ︶められたる者︵ひと︶、猪使連子首︵ゐつかひ の むらじ こびと︶・筑紫三宅連得許︵つくしのみやけ の むらじ とくこ︶、新羅に伝︵つた︶ひて至︵まうけ︶り
︵唐に派遣された留学生の土師宿禰甥・白猪史宝然及び、百済の戦役の時、唐に捕らえられた猪使連子首・筑紫三宅連得許が、新羅を経由して帰国した︶訳‥宇治谷孟
そこで、新羅は大奈末︵だいなま︶の官職にあった金物儒︵こんもつぬ︶を遣わして、甥一行を筑紫国に送った[3]。
それから1週間後、大和政権は、死刑以外の罪人の恩赦を行った、という[4]。
この時の送使の饗応はのちの参考にされたようで、持統天皇4年︵690年︶に、大伴部博麻を送り届けてくれた新羅使に対しても、大和政権は同様の処遇をした、と伝えられている[5]。
記録に現れている限りでは、最初の白村江の戦いの捕虜帰還である。