白銀重二
日本の軍人
白銀 重二(しろかね ちょうじ、1895年(明治28年)5月18日 - 1989年(平成元年)11月20日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。
白銀 重二 | |
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生誕 |
1895年5月18日 日本 山口県 |
死没 | 1989年11月20日(94歳没) |
所属組織 | 日本陸軍 |
軍歴 | 1916 - 1946 |
最終階級 | 陸軍中将 |
経歴
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山口県出身。商業・塩村清蔵の息子として生まれ、白銀家の養子となる。広島陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1916年︵大正5年︶5月、陸軍士官学校︵28期︶を卒業。同年12月、歩兵少尉に任官し近衛歩兵第3連隊付となる。1924年︵大正13年︶11月、陸軍大学校︵36期︶を優等で卒業した。
1925年︵大正14年︶8月、近衛歩兵第3連隊中隊長となり、陸軍歩兵学校教官を経て、1929年︵昭和4年︶9月から1931年︵昭和6年︶11月までアメリカに駐在。1930年︵昭和5年︶8月、歩兵少佐に昇進。1931年11月、歩兵第26連隊大隊長に就任し、歩兵学校教官、教育総監部課員を経て、1935年︵昭和10年︶8月、歩兵中佐に進級し関東軍参謀に着任。1937年︵昭和12年︶7月、混成第2旅団参謀に就任し、同年8月、兵科を航空兵科に転じ航空兵中佐となる。同年10月、第26師団参謀長に就任し日中戦争に出征。
1938年︵昭和13年︶3月、航空兵大佐に昇進。1939年︵昭和14年︶3月、下志津陸軍飛行学校教官となり、飛行第10戦隊長を経て陸大教官に異動。1941年︵昭和16年︶3月、陸軍少将に進級し太平洋戦争を迎えた。
1942年︵昭和17年︶2月、白城子教導飛行団長となり、第1航空軍司令部付、下志津飛行学校長、防衛総参謀副長、兼東部軍参謀副長を歴任。1944年︵昭和19年︶10月、陸軍中将に進んだ。1945年︵昭和20年︶2月、第7飛行師団長に親補され、フィリピン攻防戦に従事。同年7月、第9飛行師団長に転じ、スマトラ島のパレンバン油田地帯の防衛に当たり終戦を迎えた。1946年︵昭和21年︶7月に復員。
1947年︵昭和22年︶11月28日、公職追放仮指定を受けた[1]。
脚注
編集- ^ 総理庁官房監査課編『公職追放に関する覚書該当者名簿』日比谷政経会、1949年、「昭和二十二年十一月二十八日 仮指定者」138頁。