西[1]xīyù , Western Regions西[1]沿西
西域
中国語
中国語 西域
発音記号
標準中国語
漢語拼音Xīyù
ウェード式Hsi1-yü4
粤語
粤拼sai1 wik6
中古音
中古音/sei ɦwɨk̚/
上古音
鄭張[*sɯːl ɢʷrɯɡ]
朝鮮語
ハングル서역
漢字西域
発音記号
RR式seo-yeok
MR式sŏyŏk
紀元前1世紀の西域諸国(タリム盆地)

西[1]西西西西西[1]西西西[1]西[1]西

地理

編集

西西西西[1]

歴史

編集
 
ストラボンが伝える張騫以前の中央アジアの諸族

張騫以前の西域

編集

西西西6西西2559 - 5291522 - 48623336 - 323

西36[1]西西西[2]

張騫の西域訪問

編集
 
紀元前2世紀頃の中央アジアの地図

141 - 87西使100使10 [3] [4] [5]

烏孫との同盟

編集

13西174 - 1613003使使 [3] [6]

楼蘭・姑師を服属

編集

110使西 [7] [8] [9]

2度の大宛討伐

編集

使104退

310240 [7] [10]

五将軍による匈奴征伐

編集

86 - 7485 - 6873 - 49272西[2]5西20西 [11]

西域都護の設置

編集

神爵3年(前59年)、匈奴の日逐王握衍朐鞮単于(在位:前60年 - 前58年)に叛き、衆を率いて漢に来降したので、護鄯善以西使者の鄭吉はこれを迎えた。漢は日逐王を封じて帰徳侯とし、鄭吉を安遠侯とした。また漢はここで初めて西域都護を設置し、鄭吉にそれを担当させた。 [7]

新の時代

編集

天鳳2年(15年)、王莽(在位:8年 - 23年)は五威将の王駿・西域都護の李崇を派遣して戊己校尉郭欽を率いさせて西域に出兵させた。西域諸国は皆郊外で出迎え、兵士に穀を送ったが、焉耆国が詐降して兵を集めて自衛したので、王駿らは莎車国・亀茲国の兵7千余人を率いて、数部に分かれて焉耆国に入った。焉耆国は伏兵で王駿らを遮り、姑墨国・尉犁国・危須国の兵も寝返ったので、共に王駿らを襲撃し、皆殺しにした。戊己校尉の郭欽は別に兵を率いており、後で焉耆国に至ったため、焉耆国の兵がまだ還ってこないうちに、郭欽はその老弱を攻撃して殺し、帰還した。王莽は郭欽を封じて剼胡子とした。西域都護の李崇は余士を収めて、亀茲国を維持して帰還した。数年後、王莽が死に、李崇も没すると、中国と西域の国交は途絶えてしまう。 [7]

後漢の時代と莎車王賢

編集
 
1世紀のタリム盆地

西西1438西西西西西360使4613 [12]

莎車王賢の死後

編集

153西167357 - 75西西 [12]

班超の西域平定

編集
 
1世紀の中央アジアの地図

1875西退984西使退 [12]

甘英の西方見聞

編集

永元9年(97年)、西域都護の班超は遥か西方にあるという大秦国(ローマ帝国)と国交を結ぶため、掾(えん:副官)の甘英を西方へ派遣した。甘英は安息国(パルティア)を経てその所領である條支国(シリア)に到着し、中国人で初めて西海(地中海)沿岸へ到達したとされている。甘英はそのまま海を渡って大秦国を目指そうとしていたが、地元の船乗りに危険だと言われてそこから引き返してしまった。以上は通説であるが、甘英は、遂に王都に至らなかった文明国安息国に派遣されたと推定される。当時、シリアは安息国の敵国ロ-マ帝国の準州で、ローマ兵数万が常駐していたので、條支国に相応しくないと見える。一方、アルメニア王国は安息国近隣の同盟国である。 [12]

三国時代とカローシュティー文字の時代

編集
 
2世紀の中央アジアの勢力図

2西

西





西





宿: 宿

西



西

















西









[13]

3西3西 [14]

西晋と五胡十六国時代

編集

280 - 289西

駿西西駿使西西

18382西10西20宿7070396 [15]

北朝の時代

編集
 
5世紀のタリム盆地の勢力図

4414422443

6445423 - 45223200使

7470464 - 485西

561 - 565605 - 618西 [15] [16]

突厥の支配下と隋代

編集

56552555西56西558西IltäbärIrkinTudun使

582西西西西西604 - 618[]使 [16] [17] [18]

唐の西域支配

編集
 
7世紀のタリム盆地(大唐西域記)

西612 - 619西西626 - 649西西13639640西西西西西

20646西1310西西530退西西[3]西648 [19] [20]

阿史那賀魯討伐

編集

2651西西西10西 西

2657使西2200

2西西西 [19] [20]

吐蕃の侵攻

編集

宗教

編集

脚注

編集

注釈

編集
  1. ^ 「西」は漢音で「セイ」、呉音で「サイ」。『世界大百科事典』(間野英二執筆)は「さいいき」、『日本大百科全書』(佐口透執筆)は「せいいき」とする。
  2. ^ 翕侯(きゅうこう)とは、月氏における諸侯の意であるが、このとき烏孫の地にも翕侯がいた。それは烏孫がイリ地方に割拠する前に大月氏がイリ地方にいたので、大月氏が烏孫に侵攻された際、いくらかの月氏人がイリ地方に取り残されたためである。
  3. ^ 719年、碎葉(スイアブ)の代わりに焉耆が安西四鎮に加わる。

出典

編集
  1. ^ a b c d e f g シルクロード検定実行委員会 編『読む事典シルクロードの世界』NHK出版、2019年2月、301頁。ISBN 9784140817742 
  2. ^ 和田清榎一雄護雅夫
  3. ^ a b 『史記』大宛列伝
  4. ^ 岩村 2007,p79 - 83
  5. ^ 赤松 2005,p26 - 28
  6. ^ 岩村 2007,p83 - 84
  7. ^ a b c d 『漢書』西域伝
  8. ^ 岩村 2007,p84
  9. ^ 赤松 2005,p52
  10. ^ 岩村 2007,p84 - 86
  11. ^ 『漢書』匈奴伝
  12. ^ a b c d 『後漢書』西域伝
  13. ^ 『魏略』西戎伝
  14. ^ 赤松 2005,p187 - 219
  15. ^ a b 『晋書』四夷伝
  16. ^ a b 『魏書』西域
  17. ^ 『北史』西域
  18. ^ 『隋書』西域
  19. ^ a b 『旧唐書』西戎
  20. ^ a b 『新唐書』西域上下

参考文献

編集

関連項目

編集