青木周弼
江戸時代後期の蘭方医
生涯
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初め、長州藩医の能美洞庵に医学と儒学を師事する。18歳で大坂、30歳で江戸に行き、深川の坪井信道にオランダ語、臨床医を学び、その縁で宇田川榛斎にも師事した[2][3]。同門に緒方洪庵がいる。弟の青木研蔵と長崎にシーボルトに教授を受けにも行った。
天保10年︵1839年︶に長州藩医、天保13年︵1842年︶、周防医学所の教授蘭学掛になった。また、医学校の好生館設立に尽力、安政2年︵1855年︶に御側医に昇進した。研藏とともに藩内に種痘をし、コレラ治療に貢献した。門人も多く、村田清風とも交流を持ち、晩年は江戸で西洋医学所頭取就任の要請を固辞した。
著書に﹁袖珍内外方叢﹂や﹁察病論﹂などがある。
明治36年︵1903年︶、従四位を追贈された[4]。
山口県萩市南古萩町にある青木周弼の旧宅は、当時の様子をよく残しており、萩市により公開されている。
脚注
編集外部リンク
編集青木周弼旧宅萩市観光協会公式サイト