高山信武
高山 信武︵たかやま しのぶ、1906年︿明治39年﹀10月24日 - 1987年︿昭和62年﹀10月16日︶は、日本の陸軍軍人、陸上自衛官。陸士39期首席、陸大47期首席。最終階級は陸軍大佐、陸将。
高山 信武 | |
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生誕 |
1906年10月24日![]() |
死没 | 1987年10月16日(80歳没) |
所属組織 |
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軍歴 |
1927 - 1945(日本陸軍) 1952 - 1964(陸自) |
最終階級 |
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墓所 | 多磨霊園 |
経歴
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千葉県出身。農業・馬場伝吉の二男として生まれ、高山公通陸軍中将の養嗣子となる。松戸中学、仙台陸軍幼年学校、陸軍士官学校予科を経て、1927年︵昭和2年︶7月、陸軍士官学校︵39期︶を首席卒業。同年10月、砲兵少尉に任官し、横須賀重砲兵連隊付となる。1930年︵昭和5年︶11月、陸軍砲工学校高等科卒業。1935年︵昭和10年︶11月、陸軍大学校卒業︵47期‥首席︶。
その後、横須賀重砲兵連隊中隊長、二・二六事件東京軍法会議判士、参謀本部作戦課の部員、ドイツ駐在、大本営兵站総監部参謀などを歴任。1945年︵昭和20年︶6月、陸軍大佐に昇進し、同年11月、予備役に編入となった。
戦後は復員庁第1復員局総務課長、厚生省引揚援護庁復員業務部長を経て、1952年︵昭和27年︶7月、警察予備隊に入隊。1953年︵昭和28年︶8月16日、保安大学校幹事。陸上自衛隊では、陸上幕僚監部第5部長。1956年︵昭和31年︶8月16日、陸将に昇任し統合幕僚会議事務局長、1959年︵昭和34年︶3月17日から第1管区総監、1960年︵昭和35年︶8月1日から北部方面総監、1962年︵昭和37年︶3月12日から陸上幕僚副長を勤め、1964年︵昭和39年︶4月1日、退官。
エピソード
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●秀才の誉れ高く、陸軍士官学校と陸軍大学校を共に首席で卒業した。
●1940年︵昭和15年︶末、参謀本部作戦課に在籍中、山下奉文中将を団長とする独伊軍事視察団に参加。シベリア経由でベルリンに向かう。そのときアドルフ・ヒトラーと会見し握手をしている。
●1941年︵昭和16年︶7月初頭、当時の参謀本部作戦課長の服部卓四郎に、対ソ早期開戦案を強く主張している。
●1942年︵昭和17年︶1月中旬、田中新一作戦部長の特命により、バターン半島攻略の督戦と作戦指導のためマニラに飛んでいる。第65旅団長奈良晃少将の戦闘司令所を訪問し、実情を把握した高山は、参謀本部に対し急遽兵力の増援を要請したとされる。
●陸上幕僚監部第5部長時代、アメリカ陸軍で最難関とされるレンジャー課程 (Ranger School) を陸上自衛隊に導入すべく、柴田繁1尉︵陸士59期︶および首藤愛明2尉︵陸士61期︶の2名を派米してレンジャー課程に入校させたのち、1956年より、両名を教官として富士学校共通教育部内にレンジャー研究課程を設置した[1]。
親族
編集- 妻 高山マサ子 臼井国(海軍中将)の娘
栄典
編集著作
編集著書
編集- 『参謀本部作戦課 作戦論争の実相と反省』芙蓉書房、1978年、新版1985年
- 『参謀本部作戦課の大東亜戦争』芙蓉書房出版、2001年
- 『続・陸軍大学校』芙蓉書房、1978年(正は共編著、1973年)
- 『陸軍大学校の戦略・戦術教育』芙蓉書房出版、新版2002年
- 『昭和名将録(一)』芙蓉書房、1979年
- 『昭和名将録(二)』芙蓉書房、1980年
- 『服部卓四郎と辻政信』芙蓉書房、1980年、新版1985年
- 『二人の参謀 服部卓四郎と辻政信』芙蓉書房出版、1999年
- 『いまなぜ防衛か』芙蓉書房、1982年
監修
編集- 芙蓉書房プロジェクトチーム編『婦人自衛官 - その生活と意見』芙蓉書房、1982年。
脚注
編集参考文献
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●秦郁彦 編﹃日本陸海軍総合事典 第2版﹄東京大学出版会、2005年。ISBN 978-4-13-030135-0。
●谷, 三郎﹃レインジャー―陸上自衛隊最強の戦闘員﹄扶桑社︿世界大戦文庫スペシャル﹀、1988年。ISBN 978-4594002350。
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