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「エコール・デ・ボザール」の版間の差分

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''''''{{Llang|=|fr|École des Beaux-Arts}}, ENSBA17[[]][[]][[|]][[]]

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== 歴史 ==

[[グランテタブリスマン]]の認定校であり、[[フランス文化省]]の管轄下にある。


パリ6区マラケ河岸から入ってボナパルト街(ボナパルト通り)に面して構えたパリ・ボザール校の正面には、[[ニコラ・プッサン]]とピエール・ビュジエの胸像を頂部に載せた門柱が目に入り、[[ルネサンス建築|フランス・ルネサンス建築]]の断片でくみ上げられた壮大な中庭が目の前に展開する。


== 概要 ==

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{{see|芸術アカデミー}}

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ボザールでの教育は伝統的、[[古典主義]]的な作品が理想とされ、これらの理想化された[[様式]]を踏襲させていく、世界にもまれな教育システムであった。


[[]][[]][[]][[]][[]][[]][[]][[]][[]]2<ref>{{cite book |last1=Riviere |last2=Schnerb |title=Conversations with Cezanne |date=10 July 2001 |publisher=UC Press |isbn=0-520-22519-8 |page=86}}</ref><ref>[http://www.visual-arts-cork.com/famous-artists/emile-bernard.htm  Emile Bernard] Visual Arts Cork 6 January 2024</ref>


[[1648年]]、[[ルイ14世 (フランス王)|ルイ14世]]は王立建築物の各種美術工芸や装飾を担当させる人材の育成を要請し、[[枢機卿]][[ジュール・マザラン]]が[[アカデミー・フランセーズ]](フランス王立アカデミー)の付属学校として美術学校を設立した。その後[[古典主義建築]]の母体となる建築アカデミーが[[1671年]]に時の宰相[[ジャン=バティスト・コルベール]]によって創設された。これらのアカデミーは古典主義芸術の進展を促す母体となっていき、ルイ14世から[[ルイ16世 (フランス王)|ルイ16世]]までの旧制度化においてフランスで絶対的な地位を確立するにいたった。また1666年にはローマにフランス・アカデミーを設置し、本国から選りすぐりの芸術家を古典文化の発掘と接収を目的に派遣するようになった。留学制度に対応して古代のギリシア、そしてローマの文化から古典芸術と建築に焦点を合わせているのはこのためで、この毎年各芸術分野ごとに1名をローマ留学生を選抜し数年滞在させる制度はのちのボザールにも引き継がれたが、総括する美術アカデミーの終身書記に就任した[[カトルメール・ド・カンシー]]などは新古典主義芸術に対して深い造詣を発揮し、とくに古代建築に関心を寄せ[[ウィトルウィウス]]を再解釈した大著を著し、古代建築の復元を試み、後に自身が主宰して編纂した建築辞典には古代ギリシャの建築に建築の原型を求め、さらに建築史的な理解の必要性を説いている。こうしたカンシーの一連の作業は[[パエストゥム]]の古代ギリシャ神殿の発掘からギリシャ建築再評価・[[グリーク・リバイバル]]の思潮をさらに一段と高める。そうした古代建築を深く学ぶために大半が崩れ落ちた古代の遺跡を[[建築家]]が自らの観念に基づいて復元する主張はのちのフランス・アカデミーにおける留学生の研修方法に大きな影響を与えた。ボザール建築アカデミー発足に当たって建築史講座の設置を唱え、J・H・ヌイノーをその教授に任命したのはそのためとされる。

[[1648年]]、[[ルイ14世 (フランス王)|ルイ14世]]は王立建築物の各種美術工芸や装飾を担当させる人材の育成を要請し、[[枢機卿]][[ジュール・マザラン]]が[[アカデミー・フランセーズ]](フランス王立アカデミー)の付属学校として美術学校を設立した。その後[[古典主義建築]]の母体となる建築アカデミーが[[1671年]]に時の宰相[[ジャン=バティスト・コルベール]]によって創設された。これらのアカデミーは古典主義芸術の進展を促す母体となっていき、ルイ14世から[[ルイ16世 (フランス王)|ルイ16世]]までの旧制度化においてフランスで絶対的な地位を確立するにいたった。また1666年にはローマにフランス・アカデミーを設置し、本国から選りすぐりの芸術家を古典文化の発掘と接収を目的に派遣するようになった。留学制度に対応して古代のギリシア、そしてローマの文化から古典芸術と建築に焦点を合わせているのはこのためで、この毎年各芸術分野ごとに1名をローマ留学生を選抜し数年滞在させる制度はのちのボザールにも引き継がれたが、総括する美術アカデミーの終身書記に就任した[[カトルメール・ド・カンシー]]などは新古典主義芸術に対して深い造詣を発揮し、とくに古代建築に関心を寄せ[[ウィトルウィウス]]を再解釈した大著を著し、古代建築の復元を試み、後に自身が主宰して編纂した建築辞典には古代ギリシャの建築に建築の原型を求め、さらに建築史的な理解の必要性を説いている。こうしたカンシーの一連の作業は[[パエストゥム]]の古代ギリシャ神殿の発掘からギリシャ建築再評価・[[グリーク・リバイバル]]の思潮をさらに一段と高める。そうした古代建築を深く学ぶために大半が崩れ落ちた古代の遺跡を[[建築家]]が自らの観念に基づいて復元する主張はのちのフランス・アカデミーにおける留学生の研修方法に大きな影響を与えた。ボザール建築アカデミー発足に当たって建築史講座の設置を唱え、J・H・ヌイノーをその教授に任命したのはそのためとされる。

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1789[[]]179318[[|]][[|]]3École royale et spéciale des Beaux-Arts1816121818191897

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*第二次世界大戦後の改革


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1960年、アカデミー・デ・ボザール会員に独占されていたローマ大賞の審査委員会にボザールのパトロンの参加が決定される。続いて1962年には文化省が建築教育の改革を検討する委員会を設立した<ref>[https://www.beauxartsparis.fr/en/ エコール・デ・ボザール] beauxartsparis.fr 2023年1月6日閲覧</ref>。これと平行してでボザール卒業生の建築家を中心として利益を保護する同窓会のような組織であるグランド・マスも同様の目的の委員会を設置するが、これはあくまで建築家と建築の学生の利益を守るための団体でありのちに立ち消えとなるが、この結果[[ジョルジュ・キャンディリス]]や[[エミール・アヨー]]ら、集合住宅などを中心に活躍する建築家たちのアトリエ開設につながり、1965年に建築のアトリエがA、B、Cと三つのグループに分割する制度が取り入れられる。この中でCグループが住宅問題を取り上げより改革色、政治色の強いグループと化していき、この中からさらにC'グループが分離、セーヌ右岸の8区[[グラン・パレ]]にアトリエを移動させる。このグループはその後の1967年には縦割り制のアトリエ制度を廃止し、同一学年の横割りクラス制を採用、設計演習も建築家とアシスタントとのグループでの合同審査制となり、パトロンも教授グループとして教育を行うことにした。こうした改革が進む中、[[1968年]]2月に文化省まで次年度からの制度変更を発表した。


== 第二次世界大戦後の改革 ==

1960年、アカデミー・デ・ボザール会員に独占されていたローマ大賞の審査委員会にボザールのパトロンの参加が決定される。続いて1962年には文化省が建築教育の改革を検討する委員会を設立しこれと平行してでボザール卒業生の建築家を中心として利益を保護する同窓会のような組織であるグランド・マスも同様の目的の委員会を設置するが、これはあくまで建築家と建築の学生の利益を守るための団体でありのちに立ち消えとなるが、この結果[[ジョルジュ・キャンディリス]]や[[エミール・アヨー]]ら、集合住宅などを中心に活躍する建築家たちのアトリエ開設につながり、1965年に建築のアトリエがA、B、Cと三つのグループに分割する制度が取り入れられる。この中でCグループが住宅問題を取り上げより改革色、政治色の強いグループと化していき、この中からさらにC'グループが分離、セーヌ右岸の8区[[グラン・パレ]]にアトリエを移動させる。このグループはその後の1967年には縦割り制のアトリエ制度を廃止し、同一学年の横割りクラス制を採用、設計演習も建築家とアシスタントとのグループでの合同審査制となり、パトロンも教授グループとして教育を行うことにした。こうした改革が進む中、[[1968年]]2月に文化省まで次年度からの制度変更を発表した。



1968年の5月革命をきっかけに、[[ソルボンヌ大学]]に続いて構造改革を要求して立ちあがったボザールも大学の改革が行われ、解体そして分校制といった結果を招くことになり、エコール・デ・ボザールもパリ、[[ディジョン]]、[[ブールジュ]]、[[ナンシー]]、[[リヨン]]と、[[ロリアン]]、[[レンヌ]]、[[カンペール]]、[[ブレスト (フランス)|ブレスト]]というように各地に分割された。この中で最も有名なのがパリのエコール・デ・ボザールとして続いている、ルーヴルからはセーヌの対岸にあたるセーヌ左岸の[[6区 (パリ)|6区]]に位置しているパリ学校で、現在の校舎、本館は1830年に、卒業生の[[フェリックス・デュバン]]による建築作品である。

1968年の5月革命をきっかけに、[[ソルボンヌ大学]]に続いて構造改革を要求して立ちあがったボザールも大学の改革が行われ、解体そして分校制といった結果を招くことになり、エコール・デ・ボザールもパリ、[[ディジョン]]、[[ブールジュ]]、[[ナンシー]]、[[リヨン]]と、[[ロリアン]]、[[レンヌ]]、[[カンペール]]、[[ブレスト (フランス)|ブレスト]]というように各地に分割された。この中で最も有名なのがパリのエコール・デ・ボザールとして続いている、ルーヴルからはセーヌの対岸にあたるセーヌ左岸の[[6区 (パリ)|6区]]に位置しているパリ学校で、現在の校舎、本館は1830年に、卒業生の[[フェリックス・デュバン]]による建築作品である。

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[[2009年]]現在ではフランス国内には59の国公立の美術芸術系の学校があり、それらの美術学校(日本国内における芸術・美術大学)を総称としてボザールと呼ぶ。

[[2009年]]現在ではフランス国内には59の国公立の美術芸術系の学校があり、それらの美術学校(日本国内における芸術・美術大学)を総称としてボザールと呼ぶ。



== ボザール様式とアメリカン・ボザール ==

建築セクションの場合、美術のアカデミーで実権を掌握していたカトルメール・ド・カンシーは、ローマ留学生に対して厳しい制約を課していて、実測はローマ建築に限らせていた。しかし若手の建築家はより深遠なる古代の歴史を求めて様々の試みを行っている。後のポザール建築史教授ユイヨーは1817年からギリシアやアジアにまで足を運び、数々の実測図をき 持ち返り、その後の講義に用いている。この頃は[[ギリシア建築]]に対する認識は一段と高まっていたが、そこに新たな論争の種が加わることになる。古代ギリシア建築が多彩色を用いて派手やかに彩られていたかいなかったかという問題で、[[ジャック・イニャス・イトルフ]]のローマから送りつけた実測図はその問題を最初に投げかけ、古代建築彩色論を登場させた。

建築セクションの場合、美術のアカデミーで実権を掌握していたカトルメール・ド・カンシーは、ローマ留学生に対して厳しい制約を課していて、実測はローマ建築に限らせていた。しかし若手の建築家はより深遠なる古代の歴史を求めて様々の試みを行っている。後のポザール建築史教授ユイヨーは1817年からギリシアやアジアにまで足を運び、数々の実測図をき 持ち返り、その後の講義に用いている。この頃は[[ギリシア建築]]に対する認識は一段と高まっていたが、そこに新たな論争の種が加わることになる。古代ギリシア建築が多彩色を用いて派手やかに彩られていたかいなかったかという問題で、[[ジャック・イニャス・イトルフ]]のローマから送りつけた実測図はその問題を最初に投げかけ、古代建築彩色論を登場させた。



フランス[[建築家]]にとって[[イタリア]]に赴くということは[[古典古代]]の建築をじかに観察し直接肌で感じることができるということにほかならなく、以前からローマ留学生達は古代の建築を丹念に実測し克明に素描していた。しかしパエストゥムの発見以降、[[ギリシア]]建築が現実に建築家達の眼前に晒され、加えて中近東のそれや[[古代エジプト建築]]もその実像が明らかになってきた。[[ナポレオン・ボナパルト|ナポレオン]]の[[エジプト遠征]]軍が多数の考古学者を引き連れていったことからも解るとおり、当時の人々はそうしたローマ以前の古代世界に対して並み外れた関心を抱いていたのである。実際[[ギリシア]]や[[エジプト]]の建築が建築家に知られるようになってきて従来古典と考えられてきた[[ローマ建築]]は古典期の最後に位置するものと認識されるようになったし、古代世界なるものも人々の意識の中ではるかに奥深いものとなり、[[考古学]]的発掘とあいまって、建築家にインスピレーションを汲み取るべき古代建築もそのレパートリーを増やしていた。

フランス[[建築家]]にとって[[イタリア]]に赴くということは[[古典古代]]の建築をじかに観察し直接肌で感じることができるということにほかならなく、以前からローマ留学生達は古代の建築を丹念に実測し克明に素描していた。しかしパエストゥムの発見以降、[[ギリシア]]建築が現実に建築家達の眼前に晒され、加えて中近東のそれや[[古代エジプト建築]]もその実像が明らかになってきた。[[ナポレオン・ボナパルト|ナポレオン]]の[[エジプト遠征]]軍が多数の考古学者を引き連れていったことからも解るとおり、当時の人々はそうしたローマ以前の古代世界に対して並み外れた関心を抱いていたのである。実際[[ギリシア]]や[[エジプト]]の建築が建築家に知られるようになってきて従来古典と考えられてきた[[ローマ建築]]は古典期の最後に位置するものと認識されるようになったし、古代世界なるものも人々の意識の中ではるかに奥深いものとなり、[[考古学]]的発掘とあいまって、建築家にインスピレーションを汲み取るべき古代建築もそのレパートリーを増やしていた。



建築家らが主張したのはむしろ、同時代の作品を生み出していくにあたってその規準原理としての原色効果で、古典主義建築、あるいは世紀末以降の新古典主義の建築家が考えもしなかった様々な色彩に彩られた建築を生み出していくことであり、1830年、[[ジャック・イニャス・イトルフ]]は碑文アカデミーにて「ギリシア人における多彩色建築に関する論考」を発表する。古代ギリシア人がいかに色彩を用いて建築を装飾していたかを改めて世に問うたもので、この論考は1851年になって印刷されるが、彼が単に古代建築の復原のみを考えていたのでなく、その中に新しい建築に用うべき新しい原理をもとめていて、彼はギリシア建築の中に、注目すべき形態、たとえば、ポルティコ、列柱、あるいはその平面形式といったものを求めていたのではなくむしろ、形態・要素は建築家の造形意欲に応じて自在に寄せ集め、様々のモチーフ、色彩で建築を豊潤に装飾していくことが重要であるとした。


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建築アカデミーであれば、当時はA・L・T・ヴォードワイエや[[ナポレオン]]の庇護を得たペルシエ+フォンテーヌなどのアトリエがローマ大賞受賞者を輩出していて人気が高かった。ペルシエ+フォンテーヌのアトリエからは18人のローマ大賞受賞者と17人の次席を出している。いずれも師匠の作風を受け継ぎつつもより折衷的な方向に向っている。彼らの著作はまたカトルメール・ド・カンシーとは別の意味で新古典主義的な建築論を展開しているが古典主義における規定の絶対性を避け、感性にもとづく建築構成を主張するなど、この議論はちょうど17世紀末の建築アカデミー創設の際、フランソワ・ブロンデルとクロード・ペローが繰り拡げた新旧論争にも似て[[建築美]]の基準を何処に求めるかを追求したものであったが、彼らの立場はそれより少し前にヴィジオネールの建築家と呼ばれるブレが感性を重んじ、古い意味での古典派を斥けたような古代の建築を否定するのではなく、古代の建築に顕現する一種の驚きにも似た美的感動を新しい建築に実現しようとする方向性をもっていて、その意味ではきわめてロマン主義的な傾向にも近く、ロマン主義と新古典主義は裏腹の現象であったとみられている。


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{{See also|歴史主義建築}}

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== その他 ==

[[ニューヨーク近代美術館]]で1975年から76年にかけて開催されたエコール・デ・ボザールの建築展は、フランスでもめったに公開されない図面類までも展示され、大変な反響を呼んだ。ボザールで建築史を講じ、のちに美術アカデミーの終身書記の役職に就任したルイ・オートクールはボザールに関する詳しい記録を7巻にもおよぶ大著で残している。

[[ニューヨーク近代美術館]]で1975年から76年にかけて開催されたエコール・デ・ボザールの建築展は、フランスでもめったに公開されない図面類までも展示され、大変な反響を呼んだ。ボザールで建築史を講じ、のちに美術アカデミーの終身書記の役職に就任したルイ・オートクールはボザールに関する詳しい記録を7巻にもおよぶ大著で残している。



入学方法は、所属するアトリエで修行をしながら、志願者は入学試験準備にとりかかり、めでたく入学試験に合格したものが、ボザール下級の学生として登録されることになる。学生の生活基盤は常にアトリエにあって、○○アトリエ所属というかたちで認定を受けた。アトリエは国や学校やアカデミーから費用等が出費されているものではなく、学生たちがみずから組織し、上下関係の序列の中に組みたてられ、その上に先生を招いているという形式で、学生の間で選出された長がそのアトリエの管理運営を行い、建築家に謝礼を支払っていた。アトリエ主宰者の存在は絶対的存在であり、学生修行や教育に対して必要な助言と指導を与え、またボザールで講義を行う教授とは区別され、アトリエのパトロンと呼ばれる。各アトリエはボザール校舎内ではなく町中の適当な場所、大体はボザールの周辺に構えて、学生たちはそこで修行の合間にボザールに通って講義を聴いていたのである。

入学方法は、所属するアトリエで修行をしながら、志願者は入学試験準備にとりかかり、めでたく入学試験に合格したものが、ボザール下級の学生として登録されることになる。学生の生活基盤は常にアトリエにあって、○○アトリエ所属というかたちで認定を受けた。アトリエは国や学校やアカデミーから費用等が出費されているものではなく、学生たちがみずから組織し、上下関係の序列の中に組みたてられ、その上に先生を招いているという形式で、学生の間で選出された長がそのアトリエの管理運営を行い、建築家に謝礼を支払っていた。アトリエ主宰者の存在は絶対的存在であり、学生修行や教育に対して必要な助言と指導を与え、またボザールで講義を行う教授とは区別され、アトリエのパトロンと呼ばれる。各アトリエはボザール校舎内ではなく町中の適当な場所、大体はボザールの周辺に構えて、学生たちはそこで修行の合間にボザールに通って講義を聴いていたのである。



== 参考文献 ==

== 書籍 ==


* [[]]  [[]]1987{{ISBN2|4-7630-8710-X}}ISBN-13: 978-4-7630-8710-2

* [[]]  [[]]1987{{ISBN2|4-7630-8710-X}}ISBN-13: 978-4-7630-8710-2


== 関連項目 ==

== 関連項目 ==

* [[パリ国立高等美術学校]]([[:fr:École nationale supérieure des Beaux-Arts|fr]], [[:en:École nationale supérieure des Beaux-Arts|en]])

* [[パリ国立高等美術学校]] - 上記、フランス国内にあるボザール各校の内、パリ校。

* [[リヨン国立高等美術学校]] - 同、リヨン校。

** 上記、フランス国内にあるボザール各校の内、パリ校についてのフランス語版と英語版の項目。

*[[ナント高等美術学校]]


* [[芸術アカデミー]]

* [[芸術アカデミー]]

* [[アカデミック美術]]

* [[アカデミック美術]]

* [[アカデミー・ジュリアン]]

* [[アカデミー・ジュリアン]] - [[アカデミー・コラロッシ]]



== 出典 ==

== 出典 ==

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* {{Official website|https://www.beauxartsparis.fr/en/}}(フランス語、英語)

* {{Official website|https://www.beauxartsparis.fr/en/}}(フランス語、英語)



{{Normdaten}}

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[[Category:フランスの特別高等教育機関]]

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[[Category:アンシャン・レジームのフランス建築]]

[[Category:西洋美術史]]

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2024年1月6日 (土) 04:49時点における最新版

エコール・デ・ボザール
パリ国立高等美術学校(2010年撮影)
種別 特別高等教育機関Grands établissements
設立年 1682年または1671年[1]
予算 10,6 millions €
校長 Jean de loisy
学生総数 530
所在地 フランス
パリ6区リヨンなどフランス各地
座標: 北緯48度51分24.16秒 東経2度20分0.68秒 / 北緯48.8567111度 東経2.3335222度 / 48.8567111; 2.3335222
キャンパス 都市型
公式サイト Ecole Nationale Supérieure des Beaux-Arts
テンプレートを表示

École des Beaux-Arts, ENSBA17

3506

歴史[編集]

パリ国立高等美術学校の入り口(2012年撮影)

2[2][3]

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  1987ISBN 4-7630-8710-XISBN-13: 978-4-7630-8710-2

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  1. ^ The New Encyclopaedia Britannica - 15th Edition vol.2. p. 25 
  2. ^ Riviere; Schnerb (10 July 2001). Conversations with Cezanne. UC Press. p. 86. ISBN 0-520-22519-8 
  3. ^ Emile Bernard Visual Arts Cork 6 January 2024閲覧
  4. ^ エコール・デ・ボザール beauxartsparis.fr 2023年1月6日閲覧

外部リンク[編集]