フランス革命
フランス革命 | |
---|---|
『サン・キュロットに扮した歌手シュナール』 (1792年、ボワイユ画) | |
種類 | 市民革命 |
目的 | 自由・平等・友愛(初期は「自由・平等・財産」だった[1]) |
対象 | 旧体制(アンシャン・レジーム) |
結果 |
王政と旧体制が崩壊 封建的諸特権は撤廃され、近代的所有権が確立 革命の結果による国有財産の所有者の移動が追認された ナポレオン・ボナパルトの台頭 フランス革命戦争の発生 |
発生現場 | フランス王国 |
期間 | 1789年7月14日 – 1795年8月22日 |
指導者 | フランス革命関連人物一覧 |
関連事象 |
ハイチ革命 フランス7月革命 フランス2月革命 奴隷制廃止運動 |
フランスの歴史 | |||||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
この記事はシリーズの一部です。 | |||||||||
先史時代 | |||||||||
近世
| |||||||||
現代
| |||||||||
年表 | |||||||||
フランス ポータル |
フランス革命︵フランスかくめい、仏: Révolution française, 英: French Revolution ︶とは、フランス王国で1789年7月14日から1795年8月22日にかけて起きた市民革命[2]。フランス革命記念日︵パリ祭︶はフランス共和国の建国記念日でもあり、毎年7月14日に祝われている[3]。
フランス革命を代表とするブルジョア革命は、封建制的な残留物︵身分制度や領主︶を一掃し、
●資本主義の発展︵法の下の平等・経済的自由権・自由な私的所有権など︶
●ブルジョア憲法の確立︵国民主権・権力分立・自由権(経済的自由権)等の人権保障を中心とする原理、典型例としてフランス憲法︶
を成し遂げた[2][4]。
フランス革命はアメリカ独立革命とともに、ブルジョア革命の典型的事例である[2]。フランスでは旧支配者︵宗教・君主・貴族︶の抵抗がきわめて激しかったため、諸々の階級の対立・闘争がもっとも表面化した[2]。
概要[編集]
この節のほとんどまたは全てが唯一の出典にのみ基づいています。(2020年12月) |
フランス革命とは、フランスにおいて領地所有の上に立つ貴族と高級聖職者が権力を独占していた状況が破壊され、ブルジョワジーと呼ばれる商工業、金融業の上に立つ者が権力を握った変化をいう[要出典]。ブルジョワジーは権力を握ったが、貴族を排除することなく一部の貴族とは連立を続けた[要出典]。フランス革命は貴族と上層市民を対等の地位にした[5]。
フランス革命以前は国王がフランスの5分の1の領土を持つ最大領主だった。その国王のまわりで権力を組織していた宮廷貴族は国王に次ぐ大領主であり、減免税特権の最大の受益者であった。財政支出の中から宮廷貴族の有力者は、巨額の国家資金を様々な名目で手に入れた[6]。しかし、ある段階で国家財政が破綻し、もはや支払うべき財政資金がなくなった。権力を握っていた宮廷貴族は自分の減免税特権を温存し、ブルジョワジー以下の国民各層に対して負担をかぶせようとした。そこで﹁権力を取らないことには自分たちの破滅につながる﹂と感じた商工業者や金融業者が、国民の様々な階層を反乱に駆り立てて、領主の組織する権力を打ち破った。1789年7月14日のバスチーユ占領がその始まりとなった[6]。この時点では上層銀行家と株式仲買人を中核とする金融業者の一団が、雑多な群衆を反乱に向けて組織した[7]。さらにパリ駐屯のフランス衛兵が反乱を起こし、国王軍と群衆の衝突の中で、国王軍を敗北させた。この軍の反乱には下士官を構成する下級貴族の役割が大きかった[8]。この革命によって宮廷貴族の減免税特権は廃止され家柄万能の時代は終わり、フランスの近代化が始まった[9]。
アンシャンレジームを風刺した画︵第三身分者が聖職者と貴族を背負う ︶
フランス革命で倒された旧体制はアンシャン・レジームと呼ばれ、日本では絶対王政と呼ばれている。この言葉は中世の封建制[注 1]に比べると国王の権力が強まり、国王の絶対的権威は王権神授説によって理論化されていた。﹁朕は国家なり﹂という言葉がその本質を表している[10]。フランス絶対主義はルイ13世の時代にリシュリュー宰相︵枢機卿、公爵︶によって確立され、ルイ16世の時代に終わった。しかし、絶対主義という言葉で呼ばれているにもかかわらず、必ずしも国王個人が絶対的な権力を持っていたわけではなかった[10]。国王はフランスの領土の5分の1を持ち、最大の領主であったが、あくまで領主の一人にとどまり、最大の領主であったというだけであった[11]。絶対王政の期間では国王が権力を行使できない場合も多く、国王を立てて絶対的な権力を行使したのは、リシュリューやジュール・マザランなどの一群の大領主であった[12]。この時代に王権を動かしていた大領主の一団は宮廷貴族と呼ばれ、約4000家あった[11]。宮廷貴族の地位は家柄で決まっていて[注 2]、宮廷貴族の上層は家柄の力で高級官僚に若いころから任命された[13][注 3]。
これらの西洋の領主・騎士階級を日本語では通常﹁貴族﹂と呼んでいるが、実態は平安時代の﹁貴族︵公家・公卿︶﹂よりも江戸時代の﹁武士︵大名・旗本等︶﹂に近いものであり[14]、﹁貴族﹂というよりは﹁西洋の武士階級﹂とすべきものである[15]。当時の宮廷貴族に要求される能力は、宮廷の作法、剣の操法、宮廷ダンスの技術、貴婦人の扱い方であり、学問とか、経済運営の能力は次元の低いものとみられていた[13]。宮廷貴族の大多数は大蔵大臣の仕事に向かない者が多かったため、有力宮廷貴族がパトロンとなって能力のある者を大蔵大臣として送り込み、その代わりに自分の要望通りの政治を行わせた[13]。これらの宮廷貴族がベルサイユに集まって、王の宮殿に出入りしていた[16]。
宮廷貴族は収入を得るために高級官職を独占していた[17]。当時の官職収入は桁違いに大きく、正規の俸給よりも役得や職権乱用からあがる収入の方が多かった。これらの役得は当然の権利とされていた[18][注 4]。このため4000家の宮廷貴族はその大小の官職によって国家財政の大半を懐に入れていた[20]。これらの官職の中には無用な官職も多く、たとえば、王の部屋に仕える小姓の官職[注 5]だけに8万リーブル︵約8億円︶[注 6]が支払われていた。その高い俸給と副収入が貴族の収入となっていた[22]。
また、国家予算の十分の一を占める年金支払いは、退職した兵士や将校にも支払われていたが、その年金額には大きな格差があり、退職した大臣や元帥といった宮廷貴族には巨額の年金が支払われた[23]。さらに王が個人的に使用できる秘密の予算もあり﹁赤帳簿﹂と呼ばれた。宮廷貴族は夫人を使って大臣、王妃、国王のところにいろいろな理由を付けて金を取りに行かせた[注 7]。これらは宮廷貴族による国庫略奪であった[24]。
フランス革命は国庫の破綻を引き金にして引き起こされた。国庫の赤字を作り出したものはこのような宮廷貴族の国庫略奪であった。ところが、このような不合理な支出が当時の宮廷貴族にとっては正当な権利と思われていた[24]。その権力を守るために宮廷貴族たちは行政、軍事を含めた国家権力の上層部分を残らず押さえていた。宮廷貴族から見ると国家財政を健全化するために無駄な出費を削ろうとする行為は、宮廷貴族の誰かの収入を削ることになり、その権利を取り上げることは悪政と見えた[25][注 8]。この場合国王個人や少数の改革派の意志は問題にならず、宮廷貴族の集団的な利益が問題となった[25]。このように宮廷貴族は当時のフランス最強の集団であり、革命無しにはこれらの宮廷貴族の特権を奪うことはできなかった[27]。
革命以前の絶対主義[編集]
宮廷貴族の特権[編集]
法服貴族[編集]
詳細は「法服貴族 (フランス)」を参照
宮廷貴族は行政と軍事の実権を握っていたが、司法権は法服貴族に明け渡していた。法服貴族の中心は各地の高等法院︵パルルマン︶であり、パリ高等法院が最も強力であった[28]。法律に相当するものは王の勅令として出され、これをパリ高等法院が登録することで効力が発生した[28]。しかし国王の命令はほとんどの場合絶対であり、ときどき高等法院が抵抗運動を起こして王の命令を拒否したり、修正したりすることに成功しただけであった[注 9]。そのため立法権は宮廷貴族を含めた王権に属していた[28]。
法服貴族の官職は官職売買の制度によって買い取らなければならず、売買代金を王が手に入れた[28][注 10]。彼らのほとんどはブルジョアジーの上層から来た。司法官の職を買い入れると同時に領地も買い入れ、貴族の資格を買った[29]。法服貴族は宮廷貴族に比べると特権階級ではなく、領地の経営と官職収入で財産を作った。彼らは支配者の中の野党的存在であった[29]。
ルイ16世
1787年4月に財政はブリエンヌ伯爵[注 16]に任された。彼は終身年金の創設による借款を行い、続いて土地税の代わりに印紙税を提案した。印紙税は貴族よりブルジョワジーに対して負担が重い税だった[注 17]。高等法院は印紙税の導入に反対した。ブリエンヌは国家破産に直面して4億2000万リーブルの公債増発を発表した。このときオルレアン公が、公債発行を不法だとして抗議し、国王と対立し、オルレアン公はパリから追放された。高等法院はこれに対して国王に抗議行動を起こした[49]。王権の側は高等法院を抑圧し、法服貴族から司法権を取り上げ、全権裁判所を新設した[49]。この措置は全国的な動揺をひきおこし、オルレアン公に代表される自由主義貴族の反対運動はブルジョアジーや下層市民も引き入れていった[49]。全国的な反対運動のために増税は成功せず、公債を買い入れる者もいなくなった。1788年8月の初めにブリエンヌは﹁国庫は空になるだろう﹂という報告を受けた[50]。8月16日にブリエンヌは、現金支払いは一部だけとして、その他を国庫証券で支払うと命令した[50]。この命令はブルジョアジーに恐慌状態を引き起こした[50]。ブリエンヌはさらにケース・デスコント (fr:Caisse d'escompte) [注 18]紙幣の強制流通を命じた。この結果パリでは紙幣と現金[注 19]の交換を求めて取り付け騒ぎが起こった。国庫には50万リーブルしか残らず、ブリエンヌは辞任させられた[51]。国王は平民の銀行家ネッケルを呼び戻して財務総督にするしかなかった。高等法院[52]は、三部会[注 20]のみが課税の賛否を決める権利があると主張して、第三身分の広い範囲から支持を受けた[53]。ネッケルは三部会招集を条件として出し、国王は1789年5月1日に招集すると約束した[51]。
これらの運動は宮廷内で冷遇されていた野党的貴族[注 21]とブルジョワジー以下が合流して宮廷貴族の本流に対して反抗したものだった[54]。
ジャック・ネッケル
1788年7月25日パリ高等法院は採決を身分制で行うべきだと声明を出した。これでは第三身分が少数派になってしまうことになり、第三身分は高等法院を裏切り者として攻撃した[55]。高等法院は譲歩して12月5日に第三身分の代表者数の倍加を認め、第三身分と高等法院の決裂は回避された[56]。ネッケルは第三身分の倍加を主張し、ネッケル派の大臣も賛成した。国王と王妃も承認せざるを得なくなった。1789年1月24日に三部会の招集と選挙規則が公布された[56]。各地で選挙が行われて議員が選出され、1789年5月5日、ヴェルサイユに招集された[57]。第一身分︵僧侶︶が300人、第二身分︵貴族︶が270人、第三身分︵平民︶が600人で半分が法律家で、大部分がブルジョアジーだった[57]。国王は開会式で三部会を独立した権力機関ではなく、国王の命令の下に財政は赤字解消に努力するものとしか言わなかった[57]。三部会が始まると議決方法を身分ごとにするか、人数別採決にするかで紛糾し、1ヶ月の時間が過ぎていった[58]。また議員の俸給一人800リーブルも財政赤字で4ヶ月支払われなかった[58]。
自由主義貴族[編集]
宮廷貴族の中にはルイ・フィリップ2世︵オルレアン公︶、ラファイエット侯爵など反体制派の一派がいた。彼らは宮廷内部の権力争奪戦で敗者になり、日陰の存在であった[30]。そのため進歩的な発言をするようになった。彼らの大多数は官職収入の比重が少なく、自分の領地からの収入の比重が多かった。このため王に頼るところが少なかったため、王に服従せず自由主義派になった[31]。彼らは宮廷貴族の反主流派だった[32]。ブルジョアジー[編集]
フランス絶対主義下では商業貴族と呼ばれた貴族の一団があった[31]。これらは商業や工業を経営して成功し、貴族に列せられた者たちでブルジョア貴族と呼べる者たちであった[31]。この商業貴族にはせいぜい減免税の特権しかなかったが、商人や工業家にとっては社会的な名誉であった。国王は商工業を振興するという建前から、王権の側はこれに対していろいろな政策をとった[31]。商業貴族は﹁貴族に列っせられた者﹂と呼ばれ貴族社会では成り上がり者と見なされた[31]。しかし貧乏な地方貴族よりは、はるかに経済力があった。これらの商業貴族の多くは地方行政の高級官僚となっていた[33]。 ブルジョアジーには徴税人という一団も存在した。フランス王国では間接税の徴収を徴税請負人に任せた[34]。その徴税の仕方は極めて厳しかった[注 11]ので、小市民から大商人に至るまで恨みをかっていた[注 12]。徴税請負人は封建制度への寄生的性格の最も強い存在であった[35]。徴税請負人は工業、商業の経営や技術の進歩に大きな役割を果たしたものが多かったので、本来はブルジョアジーに属する[36]。しかし、王権の手先として商業そのものを抑圧する立場にもあった。そこで商人が徴税請負人を敵と見なすことが多かった[36]。徴税請負人は国家と直接契約することはできず、一人の貴族が代表して政府と契約した。貴族はその報酬として年金を受け取った。すべては貴族の名において行われ、徴税組合には貴族が寄生していた[37]。 銀行家や商人、工業家たちは当時のフランスではブルジョアジーと呼ばれたが、上層ブルジョアジーに属する者には貴族に匹敵する個人財産を持つ者も現れた[37]。しかし彼らはいろいろな方法で宮廷貴族に利益の一部を吸い取られ、国王政府の食い物にされた[38][注 13]。ブルジョアジーは宮廷貴族の被支配者であった[38]。領主の土地支配[編集]
フランス絶対主義の時代には貴族や高級僧侶は領地のほとんどを持ち、経済的に強力な基礎を持っていた[39]。全国の土地が大小様々な領地に分かれていて、領地は直轄地と保有地に分けられ、直轄地は領主の城や館を取り巻いていた[39]。それ以外の土地は保有地として農民や商人、工業家、銀行家などに貸し与えた。それらの土地の保有者は領主に貢租[注 14]を支払った。その土地を売買するときは領主の許可が必要で、許可料を不動産売買税として支払わなければならなかった[41]。ブルジョアジーの中には農村に土地を保有して地主となった者もいたが、この場合も領主権に服し、貢租を領主に支払っていた[42]。農民で領主であった者は一人もいなかった[39]。農民やブルジョア地主は領主に貢租を支払いながら、国王には租税を払うという二重取りにあっていた[43]。身分制度[編集]
絶対主義下では、国民は3つの身分に分けられており、第一身分である聖職者が14万人、第二身分である貴族が40万人、第三身分である平民が2,600万人いた。第一身分と第二身分には年金支給と免税特権が認められていた。フランス革命前夜[編集]
国家財政の悪化[編集]
ルイ14世の晩年以来フランスの国家財政は苦しくなり、立て直しの試みも成功せず、ルイ16世の時代になって財政は完全に行き詰まり[44]、1780年代時点の財政赤字は45億リーブル︵2017年時点の日本円で54兆円相当[45]︶にまで膨張していた。しかしルイ16世が任命した蔵相たちは宮廷貴族に十分な課税をせず、国家の資金を惜しげも無く与えた[46]。財政困難が深刻になり宮廷が万策尽きた結果、国王はテュルゴーやジャック・ネッケル等の改革派を蔵相に任命せざるを得なくなった[注 15]。彼らは宮廷貴族などの特権身分に対して課税などの財政改革を進めようとしたが、宮廷貴族などの特権身分たちはこれに反対して、その改革を失敗させた[46]。宮廷貴族たちは宮廷の官職、軍隊の高級将校、将軍、元帥、行政上の高級官職を握っていた。彼らの圧力を受けて改革派大臣は追放されることが繰り返された[47]。ブリエンヌの弾圧と抵抗運動[編集]
三部会の招集[編集]
革命の開始[編集]
この節のほとんどまたは全てが唯一の出典にのみ基づいています。(2020年12月) |
国民議会の結成[編集]
第三身分は1789年6月18日に自分自身の名を国民議会と呼ぶことに決定した。国民議会の権限について議決を行い、国王には国民議会の決定にいかなる拒否権もないこと、国民議会を否定する行政権力は無いこと、国民議会の承認しない租税徴収は不法であること、いかなる新税も国民議会の承認無しには不法であることを決定した[58]。さらに、ブルジョアジーの破産を救うべく﹁国債の安全﹂の宣言も決議された[59]。絶対主義の王権は破産に直面すると公債を切り捨てて、国庫への債権者を踏みにじって危機を乗り越えてきた。これに歯止めをかける決議は、王権にとって致命的だった[59]。
このような第三身分の動きに僧侶部会が影響を受け、多くの司祭と少数の司教が第三身分へ合流した[59]。貴族部会の大多数は第三身分の行動に反対した[59]。1789年6月20日に国王は国民議会の会場を兵士によって閉鎖するよう命令し、国民議会の集会を禁止し、国王が改めて三部会を招集するという命令を伝えた[60]。
ダヴィッドによる﹃球戯場の誓い﹄
国民議会の議長ジャン=シルヴァン・バイイはこれに抗議して隣接する球技場になだれこみ、国王の命令に反して決議を行った。﹁国民議会は憲法が制定され、それが堅固な土台の上に確立するまで決して解散しないことを誓う﹂ことが決められた。これがのちに﹁球戯場の誓い﹂と呼ばれるようになった[60]。6月23日に三部会が招集されたが、4000人の軍隊が出撃の準備を整えていた。国王ルイ16世は高級貴族と近衛兵に囲まれて議場に入場すると﹁国王の承認しない議案は一切無効である﹂と宣言した。そして身分別に議決を行うことを命令し、貴族の政治的特権と減免税特権は尊重し、維持すること、封建的特権は財産として尊重することなどを宣言した[60]。これによって国王と国民会議は全面的対決となった[60]。国王が退出すると三部会は解散の命令を受けた[61]。
球戯場の誓い[編集]
国民議会との対立[編集]
宮廷貴族は御前会議で三部会の解散、10億リーブルの強制借款とロレーヌをオーストリアに600万リーブルで売却することなどを決めた[62]。強制借款は特権身分に課税する代わりに、強制的に国民から金を借り上げようとする政策だった[63]。この場合、強制的に大金を政府に貸すことを強要されるのは、大商人、銀行家、金融業者、大工業家であった。このような借り上げでは返還の当てもなく、事実上の没収になってしまう[63]。ブルジョアジーを破産させる政策であり、三部会解散は国民議会の権力を否定し国王と貴族の絶対主義的権力を再確認する政策だった[62]。こうしたうわさがパリに流れると、ますます反抗的な気運が高まった[62]。 7月11日に国王と宮廷貴族はネッケルとネッケル派の大臣を罷免した。代わって宮廷貴族の強硬派が大臣を固めた。ブローイ公爵︵元帥︶が総司令官兼陸軍大臣となり、ベルサイユ宮殿を野営地に変えて、パリで暴動が起こったときの戦略として、パリ全部を守ることは不可能であるから、株式取引所と国庫とバスチーユ、廃兵院を守るにとどめることが指示された。これはパリ市民との軍事衝突の際に国家財政の実権だけは確保するために必要な戦略であった[64]。バスティーユ監獄の占領[編集]
詳細は「バスティーユ襲撃」を参照
国民議会は軍隊の撤退を要求したが、国王は外出と集会の禁止令を出した。オルレアン公爵の私邸パレ・ロワイヤルには王の布告を無視して大群衆が集まった。7月12日軍隊がパリに向けて出撃を始めた。パレ・ロワイヤルでは﹁武器を取れ、市民よ﹂という演説がされ、6000人の群衆が軍隊と衝突した[65]。
すでに軍隊では給料支払いが遅れていて、近衛兵すら不満を口にし、将校の命令に従わなくなっていた。軍隊の中に王権に抵抗するための秘密クラブも作られた[62]。7月14日に再び軍隊が出動すると群衆がフランス衛兵と共に廃兵院に押しかけ、3万丁の小銃を奪ってバスティーユ要塞監獄に向かった[66]。群衆が占領したバスティーユに政治犯はいなかったが、要塞は大砲をのぞかせて周囲の脅威となっていたことと、武器弾薬庫を抱えていたので重要な戦略目標だった。国王の軍隊はパリ全体で敗北し、地方都市でも国王の軍隊は敗北し、各地方で軍隊の反乱が起こった。国王の側はこれ以上の軍事行動ができなくなった[66]。
ブローイ元帥は反撃の機会をうかがうべきであると説いたが、すでに軍隊と共に移動する資金も食料もなかった。そこで国王は泣いて屈服した[67]。国王ルイ16世は譲歩することを決心し軍隊を引いて国民会議に出席し﹁朕は国民と共にある﹂と言い和解を宣言した[67]。軍事行動を指揮した宮廷貴族たちは群衆に処刑された。有力な宮廷貴族たちは逃亡し、国王だけが第三身分の捕虜同然の身としてフランスにとどまった[68]。
この勝利で権力を握ったのは最上層のブルジョアで、経済活動で最強の力を持つ者だった。その中には貴族の資格や領地を持つ者も多かった。これらの上層ブルジョアジーたちは士気が乱れていた兵士たちに積極的に働きかけて買収して、ブルジョアジーの軍隊に仕立て上げていた。兵士の反乱は自然発生的に起こったのではなかった[69]。
この時生まれた革命のスローガンは﹁自由・平等・財産﹂だった[70]。
革命による財政改革[編集]
国王軍に勝利した商工業者︵ブルジョアジー︶の上層は、自由主義貴族と連携しながら権力の指導権を握った[71]。これ以降の政権はブルジョアジーの上層が租税徴収権を握り、財政改革を行った[72]。宮廷貴族に負担をかぶせ、徴税を実行し、宮廷貴族に対してなされていた財政資金を削減か打ち切り、それによって浮いた財源で商工業、金融業の救済・発展のために支出した[72]。初期の国民議会の改革[編集]
この節のほとんどまたは全てが唯一の出典にのみ基づいています。(2020年12月) |
特権身分への課税[編集]
勝利の後、自由主義貴族と上層ブルジョアジーの最上層の政権、旧体制の特権や領主権に深い関わり合いを持った者達の政権ができた。彼らは金の力で領地を買い、貴族の力を手に入れ、裁判権や地方都市の財政長官や徴税請負人の地位を持っていた[73]。ネッケルが呼び戻されて蔵相に再任され、ネッケル派の大臣も返り咲いた[74]。ネッケルは強制借款を取りやめた。国民会議では財政委員会を選出して財政の立て直しを図ったが、その基本方針は特権身分への課税、特権身分への支出の削減、停止であった[74]。バスティーユ敗北直後から一部の宮廷貴族は復讐を恐れて亡命した[注 22]。
領主権の部分廃止[編集]
革命直後から﹁大恐怖﹂と呼ばれる農民の暴動が各地で起こった。農民は領主の城や館を襲撃した[76]。農民に襲撃された領主の中には革命派の貴族も含まれていた。中には武器を持って農民に立ち向かった自由主義貴族もいた[77]。国民議会では農民暴動を武力弾圧せよという強硬派と、暴動に正面から立ち向かうことは不利であると考える勢力が激しい討論を繰り広げた[78]。国民議会はまだヴェルサイユに駐屯する国王軍の脅威を受けていた。国王軍は撤退しただけでいつでも反撃できる体制にあった[78]。国民議会が農民の反感を買うと農村の支持者を失って、国王軍の反撃に敗北するかもしれなかった[78]。 そこで妥協案として封建権利を二つに分けて﹁人にまつわるもの﹂︵十分の一税と領主裁判権、死亡税、狩猟権、鳩小屋の権利など︶と﹁土地にまつわるもの﹂︵封建貢租と不動産売買税︶に区別し、前者は無償で廃止するが、後者は有償で廃止する提案が1789年8月4日に出され、自由主義貴族の多くが賛成して可決された。こうして領主権は単純な地代に転換された。この結果農民暴動は収まった[79]。8月4日の宣言[編集]
8月4日の宣言には﹁租税の平等﹂﹁文武の官職に全ての市民を登用する﹂﹁金銭的特権を廃止する﹂﹁貴族の官職独占の否定﹂﹁官職売買の禁止﹂[注 23]も含まれていた[80]。これらの宣言にネッケル派とムーニエ派が反対したが多数派に敗北した。ネッケル、ムーニエ派は国民議会のこれ以上の改革を阻止しようとした。国王はこれを見て9月18日に親書を送り、8月4日の宣言を認めないことを通告した[81]。人権宣言[編集]
8月26日、国民政府は﹁人間と市民の権利の宣言﹂を制定した。これは一般にフランス人権宣言などと呼称される。ラファイエットらが起草しており、 アメリカ独立宣言、ルソーの啓蒙思想などの影響が認められる。国民の自由と平等、圧制への抵抗権、国民主権、法の支配、権力分立、私有財産の不可侵などを規定している。国王と議会のパリ移動[編集]
7月14日前後からパンの値段が異常に値上がりした。これは商人の買い占めによるものだった[82]。10月5日にパリの婦人の一団がパンを要求しにベルサイユへ行き国民議会に押し入り、国民衛兵と武装した男性たちもベルサイユに集まった︵ヴェルサイユ行進︶。10月6日の朝、近衛兵が発砲し一人が死ぬと、群衆は怒って王妃の部屋に乱入した。群衆は国王が出てくることを望み、国王一家と国民議会はパリに移転することに決まった。国王は宮廷貴族から切り離されて軟禁状態に置かれた[83]。国王が連れ去られると、まだ残っていた宮廷貴族が亡命を始めた。ムーニエを初めとして貴族議員の200人や貴族将校も亡命した[84]。 しかし食料不足は解決せず、小規模な暴動がたびたび起こったが、国民議会と国民衛兵によって鎮圧された。首謀者は処罰・処刑され秩序が回復された[85]。 ベルサイユ行進は宮廷貴族の残存勢力に決定的な打撃を与え、国王を人質に取った国民議会の権力を全国に及ぼすこととなった[86]。アッシニアの発行[編集]
12月2日に教会財産の国有化が可決され、そのあと国民議会の財務委員会がネッケルの反対を押し切って、国有化された教会財産を担保に紙幣を発行することにし、これをアッシニアと呼んだ。アッシニアを受け取った者は教会財産を買い入れることができた。国家がケース・デスコントから借り入れていた1億7000万リーブルはアッシニアで返済された[87]。国内改革と身分制の廃止[編集]
1790年1月に地方自治体の選挙が行われ83県に分割され、県の下に群が置かれた[88]。1790年3月に国民議会の中に度量衡委員会が作られ、ラボアジェ等の活躍で1793年8月のメートル法公布となった[89]。1790年6月に第一身分と第二身分が廃止され貴族の称号の使用が禁止された。以後全ての人は﹁市民﹂︵シトワイヤン︶とよばれることになり、男性はシトワイヤン、女性はシトワイヤンヌと呼ぶことになった。しかしこの呼称は定着せず、それまで貴族に使われていた﹁ムッシュ﹂﹁マダム﹂が普通の人に対しても使われるようになった[88]。1791年3月20日に総徴税局が廃止され徴税請負人が廃止された[90]。1791年6月14日にル・シャプリエ法︵Le Chapelier Law 1791︶が公布され、経済的自由主義のもとに労働者の組合結成と争議の禁止、同業組合再建が禁止された[91]。革命政権の変遷[編集]
この節のほとんどまたは全てが唯一の出典にのみ基づいています。(2020年12月) |
党派の形成[編集]
ベルサイユ行進の後革命運動を指導、組織するいくつかの党派が形成された。財政危機の中で様々な動きがある中でそれぞれの階級の人物が動き、次第にいくつかの党派へのまとまりが作られていった[92]。ラファイエット派は1790年5月に設立され入会金は100リーブルで、かなり高い収入がないと入会できなかった。ここには最上層部に属する自由主義貴族と最上層のブルジョアが参加した[93]。パリのジャコバン修道院を会場に設立されたジャコバンクラブは国民議会の左派が集まった。会費は年間24リーブル、入会金は12リーブルで、職人や労働者では参加できなかった。ジャコバンクラブには議員以外にも職人の親方層から貴族まで広く参加した[94]。コルドリエ・クラブは大衆を組織してその意見を政府と議会に押しつけることを目的に設立された。1790年4月頃には存在していた。会費は月2スーと極めて安かった。小商人から職人、労働者まで参加した。このクラブの指導者の中に後に恐怖政治の推進者の姿がかなり見られた[95]。コルドリエクラブの実権を握っていたものも裕福なブルジョアであった[95]。
ブルジョワに扮したルイ16世とその家族が逮捕される場面
1790年10月に国民議会の改革に歯止めをかけようとして国民議会の多数派と対立していたネッケル派の大臣が辞職に追い込まれた。国王はこれを受けてパリにとどまって国民議会と妥協を重ねることの無意味さを認めて、逃亡計画を密かに立てた[96]。1791年6月20日に脱出計画が実行されたが、国境近くのヴァレンヌで捕まり、パリに連れ戻された[97]︵ヴァレンヌ事件︶。
この事件の結果、もっとも右翼的、保守的な貴族議員が相次いで亡命した。軍隊の貴族将校からも大量の亡命者を出した。高級僧侶や高級貴族のうち王党派とみられた者は監視されたり監禁されたりした[98]。国民議会の左翼は王権を廃止して共和制を宣言する請願書を出し、貴族政治家はほぼ一致して国王を守ろうとした[98]。ジャコバンクラブの多数はルイ16世の廃位を決議したが、議会の多数が賛成して王位は守られた[99]。
8月10日事件︵1793年画︶
フランスの危機にこたえて義勇兵がパリに到着し、彼らは﹁連盟兵﹂と呼ばれた[116]。武装蜂起を計画していたパリの諸区は王権の停止を議会に請願していたが、議会主義の枠内ではどうにもならないと判断して8月9日の夜にルイ16世のいるテュイルリー宮殿を包囲した[117]。これに対して領主権の無償廃止に反対する貴族階級が、党派を超えて王制を守る決意を持って宮殿に集合した[118]。8月10日は貴族階級の命運を分けた死闘になった︵8月10日事件︶。武装蜂起の側は貴族軍人を虐殺しながら宮殿を占領していった[119]。戦闘が終わると群衆が議会を囲み、王権の停止と普通選挙による国民公会の招集が要求され、立法議会はその圧力に屈した。8月10日で敗北したものは、フイヤン派のブルジョアジーと自由主義貴族、合流した地方貴族だった。彼らは旧体制に対する寄生性が強く特権的な立場にあり、領主でもあった[120]。
﹃ヴァルミーの戦い﹄︵1835年画︶
義勇兵は前線に向けて出発した。義勇兵は連盟兵と呼ばれフランス各地から集まってきた者で、自費か誰かの費用で武装していたブルジョアの子弟だった。貧しい階層はブルジョアの費用で武装した﹁ブルジョアの傭兵﹂だった。特にマルセイユ連盟兵[注 28]は裕福な家庭の子弟だった[126]。義勇兵の出撃と並行して軍需物資と食料の強制徴発が立法議会によって行われ、義勇兵の装備が強化された[126]。
9月20日義勇兵とプロシア軍はヴァルミーの丘で出会った︵ヴァルミーの戦い︶。当時、軍隊は貴族のもとで整然と組織されなければものの役に立たないと思われていた。しかし、戦闘が始まると義勇兵の士気の高さと覚悟の強さに、プロシア軍は突撃命令を出すことができなかった[127]。プロシア軍は砲撃戦だけで終わり、わずかの死者を双方に出しただけで後退した[127]。プロシア軍は傷ついていなかったので征服地を押さえるつもりで駐屯したが、赤痢の発生と、農民部隊による輸送部隊の襲撃で、危険を感じて撤退した。義勇軍は重大な戦闘なしにプロシア軍を国境から追い出すことができた[128]。9月から10月にかけて義勇軍はドイツ領深く侵入して重要都市を破竹の勢いで占領した[128]。10月の末にオーストリア軍とフランス革命軍の激戦が行われオーストリア軍に大打撃を与えた[128]︵ジェマップの戦い︶。
国王の逃亡[編集]
フイヤン派の政権[編集]
ジャコバンクラブから分離した勢力が1791年7月16日にフイヤン修道院でフイヤンクラブを結成した。フイヤンクラブの議員が議会の多数になった[99]。7月17日に議会は共和派の集会を弾圧し、国民衛兵を派遣し、発砲によって数百名の死者を出した︵シャン・ド・マルスの虐殺︶。フイヤン派の権力は軍事力と警察力を背景に安定した。共和派の革命派は潜伏した[100]。 フイヤン派には自由主義貴族︵領主︶とブルジョアジーの最上層が結集していた。領主権の維持と確保のため8月27日に貢租の増加が決定された[100]。9月3日に憲法が成立し、立憲君主制を採用して行政権は国王に属し、立法権は議会に属するが国王に拒否権を認めた︵1791年憲法︶。議会は一院制で選挙権も被選挙権も一定の租税を納める者[注 24]に限定した[101]。﹁フランス王国は唯一にして不可分﹂と宣言された[注 25]。こうして革命の第一段階は終わった[101]。 1791年9月30日に国民議会は解散し、新憲法の下で10月1日に立法議会が招集された。国民議会の議員は立法議会の議員になれないという規定が設けられたので、議員は全員入れ替わったが、議会の党派は変わらなかった[102]。権力の主導権を握るフイヤン派が264人、野党的左派が136人、無所属の中央派が345人いた。フイヤン派は絶対多数を取ったわけではなかったが、政治は安定し輸出と商品は増加し経済は安定した[102]。革命直前に比べて1791年のパンの値段は43パーセント下がり、肉の値段も41~30パーセント下がった。下層階級の生活は安定し、騒乱状態は遠ざかった[103]。憲法の成立を祝って大赦令が出され、共和派、貴族の反革命派も釈放された[104]。 1792年1月に物価高騰が始まった。買い占め人とみられた商人の何人かが群衆に襲撃され破壊や放火の対象になった[105]。アシニアの価値は下落をはじめた。1791年度の国家財政は1億6200リーブルの赤字となった。赤字の原因は新しい租税の基本となった地租が土地所有者の抵抗によって進まなかったためだった。赤字を補充するためにアシニアの増発が行われた[106]。アシニアの信用をめぐってフイヤン派のブルジョアジーと他のブルジョアジー勢力との対立が起こった[107]。外国の革命干渉と議会内の対立[編集]
そのころ亡命貴族と王弟はドイツに集まっていた。1791年8月25日に南ドイツのピルニッツでオーストリア皇帝とプロシア王の共同宣言によって、フランス国王の権利を回復するために、両国が武力行使をする決意が述べられた︵ピルニッツ宣言︶。対抗策として立法議会のジャコバン系は王弟と王族財産の没収を要求し、11月9日に可決された。11月8日に亡命貴族の財産没収と死刑の適用を含む法律がフイヤン派の反対を押し切って可決された[108]。ルイ16世は亡命貴族についての法令は承認しないと通告した[108]。議会の中では戦争に賛成する者と反対する者の対立が起こった[109]。1792年3月10日にフイヤン派の内閣は崩壊した[110]。第一次ジロンド派政権[編集]
フイヤン派の後に成立した内閣はジャコバンクラブの中心メンバーのジャック・ピエール・ブリッソーを中心にしていたのでブリッソー派と呼ばれた[110]。新閣僚の名前は国王の任命よりも数時間早く議会に通告され、王の権力はほとんど失われていた[110]。この政権は後にジロンド派とよばれるようになった。1791年12月13日に議会は亡命貴族の年金や国債の支払いなど、国家からの支払いを打ち切る決定をおこなった[111]。1792年の春、各地で領主に対する暴動が起き、領主の城が焼かれ略奪された。3月30日にジロンド派の提案で亡命貴族財産を差し押さえ、これを国民に対する賠償に用いることが決定された[111]。 この時期に領主権の無償廃止が政争の焦点となった。領主権の無償廃止をジロンド派も含めたジャコバン派議員が提案し、フイヤン派が抵抗した[112]。敗戦とジロンド派内閣の失脚[編集]
ジロンド派内閣はオーストリアとの戦争の議会の賛成を取り付け、オーストリアとプロイセンに宣戦布告した︵フランス革命戦争︶。しかし、国境に展開したフランス軍は依然として将校は貴族で、革命前の階級制度が維持されていた。貴族将校や貴族の将軍は革命政府を嫌悪して戦争をやる気が無かった。国王と王妃も敗戦を望み、フランスの作戦計画は国王と王妃を通してオーストリアに内通されていた。フランス軍は各地で敗走し、敵国軍はあまり困難なくフランスに侵入した[113]。こうした事態から、戦争に勝つためには新しい愛国心を持ったフランス人による軍隊を組織しなければならないことが痛感された[114]。議会では領主権の無償廃止を阻止したいフイヤン派が復権し、国王はジロンド内閣を6月13日に罷免した。ラファイエットは軍をひきいてパリへ進撃し、フイヤン派の独裁政権を作る計画を立てていたので,積極的に敵国軍と戦闘をしなかった[115]。7月6日にルイ16世は、国境にプロシア軍が迫っていることを議会に報告した。無所属の中央派議員[注 26]は革命フランスを敵国から守る意思を持っている者が多かったので、7月10日フイヤン派の大臣は辞職に追い込まれ、議会は﹁祖国は危機にあり!﹂という宣言を出した[116]。8月10日の武装蜂起[編集]
第二次ジロンド派政権[編集]
1792年8月10日の事件で国民公会が招集されジロンド派政権が再び成立した。この政権は上層ブルジョアジーの党派だが、旧体制の特権に関わり合いを持つことが少なかった者達の政権だった。彼らは領主権の無償廃止に積極的だった[73]。ジロンド派はジロンド派の2倍の勢力があった平原派と呼ばれる国民公会の上層ブルジョアジーの中間層と連合して政権運営をした[73]。フイヤン派の打倒によりこの政権が封建領主権の無償廃止を実現した[121]。この結果、領主の直轄地はそのまま旧領主の所有地として残り、新時代の貴族の大土地所有地として残り、大・中・小の保有地は領主権から解放されて近代的所有地となり、それぞれ大・中・小の土地所有者となった。もともと土地を保有していなかった農民には土地は与えられなかった[121]。パリ・コミューンの登場[編集]
立法議会は8月10日の事件で群衆の圧力に屈したので信用と権力を弱めた。そのすきまを縫って議会と対立しつつ、パリ・コミューン[注 27]がパリ市を治める権力機関になった[120]。プロシア軍がパリに迫ると、義勇兵の募集、戦略物資の調達、反革命容疑者の捜査と逮捕、前線への派遣委員の任命などを行った。こうして3000人の容疑者が投獄された[123]。パリ・コミューンは出撃する前に逮捕されている反革命容疑者を処刑するべきであるという意見が優勢になり、9月2日に扇動された義勇兵とパリ市民は牢獄に押しかけて即席裁判で容疑者を殺害して回った[124](九月虐殺) 。ヴァルミーの会戦[編集]
「フランス革命戦争」も参照
国民公会の招集[編集]
ヴァルミーの会戦と同じ日にパリでは国民公会が招集された。議員は700人を超え、ジロンド派[注 29]約165人と平原派[注 30]約400人とモンタニヤール派︵山岳派︶[注 31]約150人の三大勢力に分かれた。ジャコバンクラブは議会外団体としてジロンド派と山岳派の両議員が含まれていたが、内紛によって山岳派だけの支持団体になった[130]。9月21日に王政の廃止と共和制の樹立を宣言した[131]。︵フランス第一共和政︶
国民公会では国王の裁判が進み長い討論と一人一人の議員の指名点呼による評決を行い小差[注 32]でルイ16世の無条件死刑が決定された[133]。ルイ16世は1793年1月21日にギロチンにかけられた。
「ルイ16世 (フランス王)#国王裁判」および「ルイ16世 (フランス王)#刑死と最後の言葉」も参照
敗戦とジロンド派の失脚[編集]
1793年3月になるとフランスは敗戦に転じ、ヨーロッパの強国から侵略された[134]。原因は御用商人の悪徳行為で軍隊の食糧事情と待遇が悪くなり、士気が低下し、義勇兵が減少したことと、初期の戦勝に気を良くしたフランス革命政府が次第に征服と膨張政策に傾き、一種の世界革命的なイデオロギーで正当化してフランスの敵が増えたことにあった[133]。
アシニアの価値が下落し、物価高騰が起こり、貧民の暴動を誘発した。しかしこれを力で弾圧するとヨーロッパ列強との戦争に、献身的な民衆を動員することができない。物価高騰を止めるためにはアシニアの価値を維持し、増発されたアシニアを流通から引き上げねばならない。このための政策として貴金属売買の禁止、アシニアの強制流通、アシニアと競合する手形・株などの証券の取引禁止、累進強制公債︵革命税︶[注 33]などの政策が議論された[136]。累進強制公債には金持ちが反対し、ジロンド派はこれらの政策に抵抗したが、平原派はだいたい賛成した[137]。ジロンド派は食料品・嗜好品を中心とした貿易商人や問屋商人が多く、国家との取引でもうけるすべがないまま、巨額の革命税を取り立てられたため反乱を起こした[138]。平原派は工業家や軍需物資を扱う商人が多く、外国との戦争で国家の軍事注文を受けて莫大な儲けを得た資本家が背後にいた。彼らは一時的な犠牲[注 34]を払っても戦争に勝ってほしいと考えた[140]。
ジロンド派は平原派の支持を失って、次第に山岳派に押されていき権力の座から後退していった[141]。ジロンド派は累進強制公債の採決に敗れると、徹底的な反抗を組織した。それに対して山岳派とジャコバンクラブが過激派と手を組み、5月31日と6月2日に武装したパリ市民が国民公会を包囲し、ジロンド派議員は逮捕された。1793年10月3日に21人のジロンド派議員が処刑され、10月16日には王妃マリー・アントワネットも処刑された[142]。
マクシミリアン・ロベスピエール
1793年6月2日の事件で山岳派の政権が成立した。当時のフランスは大混乱にあり、政府の権力が及ばない地域もあれば、欧米列強の占領地もあれば、昔の領主がまだ政府以上の権勢を維持して違法な封建貢租の取り立てもあった[143]。このため政府は改めて﹁封建貢租徴収の禁止﹂の法令を出した[144]。
7月28日のロベスピエール死刑執行をもって恐怖政治は終了した
ロベスピエール派の山岳派議員はわずか10人ほどで、他の山岳派議員はロベスピエール打倒に回った。ロベスピエールはジャコバンクラブから反対派を排除し、組織固めをした[163]。ロベスピエールの去った公安委員会は反革命容疑者の選別の厳格化をさせたり財産差し押さえを延期させた[163]。ロベスピエールは議会で演説したが、大多数の議員に支持されなかった[164]。
ロベスピエールは7月27日︵テルミドール9日のクーデター︶にパリ・コミューンと同盟を結んだが、軍隊が集まらず、国民公会の軍隊に急襲されて逮捕された。7月28日、ロベスピエールら約100人が処刑された。1794年7月28日に国民公会の諸委員会の改選が行われ、8月25日に12の行政委員会に権力を分散した。この結果、平原派が力を持つようになりジロンド派の生き残りを復帰させた[165]。ロベスピエール死後も恐怖政治の継続を主張した山岳派は排除され、恐怖政治は全廃された。株式市場と商業取引所の再開、処刑された者の財産も返還された[注 42]。国債利子の支払い停止も撤回された。こうした政策によりブルジョアジーの財産は回復され、元通りの活動が再開された[166]。11月12日、国民公会はジャコバンクラブの閉鎖を決議した[167]。ちょうど﹁8月10日事件﹂以後の状態に戻り、ここでフランス革命は終わった[168]。
山岳派政権[編集]
三委員会の設置[編集]
国内の混乱に対処するため、政府は臨時行政会議と呼ばれる内閣を組織し、公安委員会がその内閣を監視指導した。保安委員会は公安委員会から独立した警察権力を発動した。公安委員会と保安委員会はジャコバンクラブを背景に持つ国民公会の山岳派議員が大多数を出した[145]。また平原派は財政委員会を担当し、個人や企業の契約に対して、国家の資金を支払うかどうかの決定権を持った[145]。こうして公安、保安、財政の三委員会の権力ができた[146][注 35]。過激派の台頭[編集]
このころフランス軍は敗北を重ね[注 36]、食料品の高騰や買い占めが激しくなり、貧民の暴動が起こった[注 37]。これに乗じて過激派の各党派が最高価格制による物価の抑制、買い占め禁止法、買占め人の処刑などの非常手段を要求して、国民公会に圧力をかけた[148]。1793年7月10日に公安委員会が改選され、平原派が後退した。7月27日にマクシミリアン・ロベスピエールが公安委員会に迎えられた[149]。内外の情勢はさらに絶望的になり、9月5日に過激派の中の最大勢力のエベール派が群衆を動員して国民公会を包囲した︵9月5日の行進︶。過激派は﹁反革命容疑者の逮捕﹂﹁食料調達のための革命軍の編成﹂を要求した[149]。このときは平原派は発言せず山岳派が議論を闘わせたが、ロベスピエールを初めとして山岳派は群衆に屈して国民公会と公安委員会がその政策を実施させられた[150]。恐怖政治の実施[編集]
9月5日以降、貧民の圧力を背景にしたエベール派の圧力で、後に恐怖政治と呼ばれる政策が実行された。それまで大した仕事してこなかった革命裁判所[注 38]の人員が増強され、次々と反革命容疑者に死刑を宣告していった[152]。9月29日に最高価格制が布告された。生活必需品の品目を定め最高価格を決定した。この布告で群衆が商店に押しかけ商店は空になった。10月の末になるとパンがなくなり、パリ・コミューンはパンの配給切符を実施し、他の都市も真似をした。品不足と食糧不足が起こった[151][注 39]。10月4日に買い占め人を摘発するための法令が国民公会に提案され、買い占め人の家宅捜索と強制徴発を行い、即席裁判でギロチンにかけることが決まった。10月半ばにはさらに食糧不足が深刻になり﹁革命軍﹂を新しく編成し[注 40]、農村を回って食料を徴発し、家宅捜索を行い、違反者を処刑して回った。これによって一時的には都市の食糧不足を和らげた[154]。 国民公会と公安委員会は群衆の圧力に応じて恐怖政治を進めたが、同時に群衆を扇動した過激派の弾圧も続けた。食糧危機が一段落し人心が収まったのと、戦争が勝利に転じたことを背景に、過激派指導者たちは消えていった[155]。恐怖政治の効果[編集]
パリには多くの外国人銀行家が集まっていたが、これらが排除された結果、無制限な投機行為が抑えられ、アシニアの買いたたきや食糧調達が改善され、経済危機の緩和に役立った[156]。革命政府の取った非常手段は、累進強制公債、金属貨幣の流通停止、アシニアの強制流通、証券取引の停止などだったが、これによって唯一の紙幣となったアシニアの価格が上昇に転じた。最高価格制と強制徴発、買い占め禁止、違反者の厳罰も効果があった。物価はこれを反映して安定し、下層民の生活は安定した[157]。足下を安定させた国民公会と公安委員会は全力挙げて反革命軍と外敵との戦闘に向かった[158]。またこの政策の結果、フランス軍では正規軍と義勇兵の区別がなくなり、貴族将校の後を平民将校が埋めた。彼らは能力もあり勇敢だったので兵士の信頼を集めた。暴利をむさぼった御用商人も粛正され軍隊の装備も良くなった。重工業がフル回転を始め武器弾薬が豊富に供給された[159]。この結果列強を敗走させ、1793年の末までに革命政府は内外の危機から解放された。これらの政策で打撃を受けた者は外国の貿易会社、貿易商人、これと結びついていたフランス商人だった。一方利益を受けた者はフランスの工業家だった。革命政府は工業の振興に努力をし、軍需工業とその関連部門に資金を投入した。これは商業を犠牲にした工業の育成となった[158]。また、このとき革命のスローガンが﹁自由・平等・友愛﹂に変わった[160]。ロベスピエールの孤立[編集]
1794年になるとフランスは危機を脱し、安心感が出てきた。こうした中でロベスピエールは、反革命容疑者の財産を没収して土地のない貧民に与えるための﹁ヴァントーズ法﹂を提案した[注 41]。ロベスピエールは反革命容疑者を裁くための人民委員会の設立を提案し、可決させ、反革命容疑者の逮捕に乗り出した[162]。最後に汚職議員、腐敗議員の逮捕・裁判の権限を行使することを認めよと国民公会に提案したが、国民公会の平原派議員と山岳派議員の大多数から反対された。当時の議員の大多数は何らかのやましいところがあったからであった[162]。また、ロベスピエールは独裁者であるという批判が、国民公会や保安委員会の多数派から投げつけられ、ロベスピエールは最後の1ヶ月は公安委員会に出席しなくなった[162]。ジャコバンクラブでロベスピエールは無力になったと打ち明けた[159]。テルミドールのクーデター[編集]
総裁政府の成立[編集]
この節のほとんどまたは全てが唯一の出典にのみ基づいています。(2020年12月) |
平原派とジロンド派の生き残りの国民公会は1795年8月22日に﹁共和暦3年憲法﹂を制定し、普通選挙から制限選挙に逆戻りした。議会は上院の元老院と下院の五百人会に分かれ、議会から5人の総裁が選出され、総裁が行政権を握った[168]。議院内閣制であったが、この制度ではブルジョアジーと大土地所有者の代表者が絶対的に有利であった[168]。1795年10月に総裁政府が成立した。
その後はナポレオンの第一帝政︵1804年︶、ナポレオン失脚後の復古王政、7月革命︵1830年︶と続き、宮廷貴族の勢力は最終的に排除された[169]。
近代化・科学化との関連[編集]
この節の加筆が望まれています。 |
精神医学・臨床心理学の発展[編集]
臨床心理士、人間科学修士である高橋豊はフランス革命について
﹁精神病者の解放﹂は、過激な理想主義に基づく﹁恐怖政治﹂の産物とも言えるのではなかろうか。
と述べている[170]。高橋が言うには、それまで﹁悪魔憑き﹂・﹁狂人﹂・﹁社会的廃人﹂・﹁廃疾者﹂などとして宗教的・社会的差別を受けてきた人々は、近代化と共に、自由と人権を持つ精神病者として﹁法制化﹂されていった[171]。この動きは、フランス革命という﹁歴史的大激動﹂と繋がっている[171]。
高橋の自著における﹁フランス革命と精神医療制度﹂の章によれば、学界は﹁近代精神医学の創始者﹂をフィリップ・ピネルだと考えている[172]。ピネルは若い頃に勉学を続ける中でルソーやヴォルテールの啓蒙思想に触れ、1767年22歳の時に大学入学し医学・数学・神学を修め、1773年に医師資格を取って卒業した[172]。フランス革命中の1793年8月、ピネルはパリの市民病院行政局によってビセートル病院の院長に任命され、ピネルは公人としての活動を始めた[173]。救済院には精神病者を隔離する﹁病監﹂があり、ピネルはそこの医長として2年間在任した[173]。赴任直後のビセートルは、ピネルによれば以下の惨状だった[174]。
一方では、極めて狭く、冬の極寒や夏の灼熱の暑さを体験するにはうってつけの院内、動物小屋にも似た病室、著者の再三の要求にもかかわらず、入浴は全くなされないままであった。精神病者を教養的活動や種々の運動に参加させるための特別な場所や木陰の場所もなく、マニー︹躁病︺の亜型や程度に応じて患者を隔離し、種々に分離することが不可能であったことなどである。
ビセートルで医長を務める間にピネルは﹁精神病者の鎖からの解放﹂を行ったとされており、これがピネル神話を生んだと言われる[173][注 43]。
ピネルは以前から革命的勢力︵﹁ジロンド派憲法﹂の起草者だった二コラ・ド・コンドルセなど︶と親交があり、彼は病院行政局と共に革命政府に接触し、﹁精神医療改革﹂の許可を得ている[175]。当時の責任者ジョルジュ・クートンを中心とする革命政府はピネルの主張を認め、精神病者の解放を自由に行わせた[175]。
この頃は既に恐怖政治の真っ最中であり、革命政府は多くの密告者と監視網を使っていた[175]。反政府的な者が暴き出され、粛清されることは日常化していた[175]。言い換えれば、ピネルの﹁精神病者の解放﹂が達成された理由は、それが革命政府の方針と一致していたためだった[177]。高橋はこう述べている[170]。
﹁ジャコバン派﹂の政策の目標は、﹁基本的人権﹂と﹁社会的平等﹂の実現であり、特に﹁抑圧された人々﹂の﹁基本的人権﹂を保障するための﹁解放闘争﹂の意味合いを強く持っていた。そして、すべての人民に﹁基本的人権﹂を平等に与えるためには手段を選ばないという﹁急進的平等主義﹂が政治信条となっていた。こうした﹁急進的平等主義﹂がそのまま﹁精神病者﹂にも適用され、﹁精神病者﹂の﹁基本的人権﹂の保障という形で、﹁鎖からの解放﹂が実現したものと考えられる。
逆に言えば、﹁ジャコバン派﹂の﹁過激な平等主義﹂がなければ、果たして精神病者の﹁鎖からの解放﹂が実現したであろうか、その点はかなり疑問である。社会の底辺にいる人々にも平等の﹁権利﹂を与える﹁解放闘争﹂の理念が、社会的に抑圧されていた﹁精神病者﹂の解放を目指すピネルの主張と合致したために、﹁革命政府﹂はピネルの﹁改革﹂を公認したものと思われる。
革命の﹁理性の祭典﹂と関連して、1795年にビセートル病院のピュサンと事務官たちは、宗教的支配を除去するため精神病患者たちへ命じて、宗教関連の彫像・絵画を中庭に放り出させた[178]。しかし信心深い患者たちは恐怖や怒りで混乱し、神罰が下ると信じた[178]。そこでピュサンは﹁迷信を打破する﹂ために患者たちへ呼びかけて、宗教的な品々を粉砕させた[178]。患者たちの中でも一部のカトリック系キリスト教徒たちは怒って病室に引きこもったが、大部分の患者たちはそのような脱宗教化・世俗化を支持するようになった[178]。このような彼らの﹁改革﹂はさらにピネルの弟子エスキロール、その他G・フェリュスやG・P・ファルレなどによって継承され、1838年6月30日の﹁共和国法﹂に至った[171]。
共和国法は、当時としては画期的な福祉法だった[171]。同法は精神病者に対し
●公的介護の義務
●入院制度
●精神病による不利益から患者自身の人権を保護すること
等をも規定していた[179]。後に共和国法は他の国々から模範とされ、現代日本の﹁精神保健福祉法﹂にも大きく影響している[179][注 44]。
明治維新との共通点[編集]
この節のほとんどまたは全てが唯一の出典にのみ基づいています。(2020年12月) |
歴史学者の小林良彰は明治維新とフランス革命の構造が同じであると主張した。
(一)フランス革命では領主の組織した権力は破壊され、商工業、金融業の上に立つ者が権力の指導権を握った。江戸時代は領主が権力を組織していたこと、明治維新以後、商工業、金融業の上に立つ者が権力を握ったということが確認される。この点でフランス革命と明治維新は基本的に同一の変化を引き起こした[182]。
(二)フランス革命も明治維新も市民革命である。﹁領主の権力からブルジョアジーの権力へ﹂これが市民革命の定理である[182]。
(三)どちらも財政問題が基本的原因になった。フランスの宮廷貴族は巨額の国家資金を様々な名目で手に入れ、財政破綻を引き起こした。江戸幕府財政は大名をはじめとする領主が租税を負担せず、幕府財政資金から老中以下の幕府官僚が様々な名目で国家資金を引き出していた。これが幕府の金庫を空にした[183]。
(四)国庫が空になると大名や宮廷貴族などの特権階級に負担させるのではなく、商人に対する幕府御用金の増加やブルジョアジーからの強制借り入れで負担をかぶせた。その時江戸時代末期において、関ヶ原の戦い以来冷遇されていた薩長両藩と商人層の主流が結びつき、討幕派を援助しながら主導権を握っていった。フランスでも自由主義貴族とブルジョアジーが反乱を組織した[183]。権力の変化と財政問題の絡み合いが日仏両国で、明治維新とフランス革命が同じ変化を持つ変革であると規定できる[184]。
誤訳のもたらした理論的混乱[編集]
この節のほとんどまたは全てが唯一の出典にのみ基づいています。(2020年12月) |
革命による民衆の変化[編集]
この節のほとんどまたは全てが唯一の出典にのみ基づいています。(2020年12月) |
日本では服装を見れば江戸時代か明治時代以後かすぐ分かる。ちょんまげなら江戸時代、洋服なら明治以後と分かる。板倉聖宣は﹁明治維新を市民革命とみない人々でも、明治維新の前と後では見違えるような大きな変化があったということは認める﹂と述べている[190]。板倉は﹁フランス革命の前後でも大きな変化があったなら、それは一枚の絵を見たり、ドラマを見たりして判断することはできないのだろうか﹂﹁それを教えることも歴史教育の仕事と言える﹂という問題意識を持った[191]。革命政府が初めに行ったことの一つは﹁服装から身分差を無くすこと﹂だった[192]。
板倉は、ヨーロッパの歴史でも、キュロット︵フランス革命以前に貴族が着用していた膝丈の半ズボンのこと︶を着ていたり、﹁豪華な刺繍の付いたチョッキ類を身につけた人﹂は、フランス革命以前の貴族とみて良い[193]。そういう人物が出て来ないならフランス革命以後とみて良いと言える、としている[194]。
革命思想・制度[編集]
キリスト教との関係[編集]
1790年8月3日、政府はユダヤ人の権利を全面的に認めた。1792年5月から1794年10月まで、キリスト教は徹底的に弾圧された。当時カトリック教会の聖職者は特権階級に属していた。革命勃発以来、聖職者追放と教会への略奪・破壊がなされ、1793年11月には全国レベルでミサの禁止と教会の閉鎖が実施され、祭具類がことごとく没収されて造幣局に集められ、溶かされた。こうして、クリュニー修道院やサント=ジュヌヴィエーヴ修道院などの由緒ある教会・修道院が破壊されるとともに、蔵書などの貴重な文化遺産が失われた。破壊を免れた教会や修道院も、モン・サン=ミシェル修道院のように、牢獄や倉庫、工場などに転用された。
エベールらは﹁理性﹂を神聖視し、これを神として﹁理性の祭典﹂を挙行した。ロベスピエールは、キリスト教に代わる崇拝の対象が必要と考え、﹁最高存在の祭典﹂を開催した。しかし、ロベスピエールが処刑され、一度きりに終わり定着しなかった。
その後もカトリック教会への迫害はしばらく続いたものの、1801年にナポレオンが教皇とコンコルダートを結んで和解した。
なお、このような経緯を経たが、﹁革命は宗教を否定するものではない﹂とする主張もある。
ルーヴェルチュール
人権宣言が発せられた際に、すべての人間にとって普遍的で権利であるはずの人権は、啓蒙思想などによって﹁理性を持たない半人間﹂とされたフランスの植民地に住むムラート︵白人と黒人の混血︶や黒人︵そしてインディアン、インディオ︶には認められず、1791年にブークマンに率いられた黒人奴隷が大反乱を起こすまで奴隷制についての真剣な努力はなされなかった。1793年のレジェ=フェリシテ・ソントナによる奴隷制廃止宣言や、1794年のジャコバン派による正式な奴隷制廃止決議は、1791年に始まったサン=ドマングの黒人大反乱による植民地喪失の危機から植民地を防衛するためになされたものであり、決して人権宣言の理念に直接基づいてなされたものではなかったが[195]、それでもジャコバン派による植民地をも包括した全面的な奴隷制廃止は近代西欧世界史上初となる画期的なものであった。この後、ナポレオン・ボナパルトはトゥーサン・ルーヴェルチュールが実権を掌握していたサン=ドマングの再征服を計画し、奴隷制の復活を画策したが、解放された黒人の支持を得られなかったため、サン=ドマングは1804年1月1日に世界初の黒人共和国ハイチとして独立を達成した︵ハイチ革命︶。
この結果として、ハイチ革命後のフランス人の頭の中では、奴隷制の廃止が植民地の喪失とイコールで結ばれることになり[196]、のちのフランスにおける奴隷制は1848年に第二共和政下でヴィクトル・シュルシェールが廃止を実現するまで続くことになった。
メートル法[編集]
当時のフランスでは度量衡が統一されていなかったが、単位制度として1791年にメートル法が定められた。メートル法は定着までには時間を要したが、今日では国際単位系として世界における標準的な単位系となっている。貴族制について[編集]
革命によって貴族が一掃されたわけではなく、貴族たちの中にも革命側に加わった者や、一旦は亡命したもののナポレオン時代以後にフランスに復帰した貴族も多い。奴隷制について[編集]
フランス革命を扱った作品[編集]
音楽[編集]
●﹃サ・イラ﹄ - ﹁ラ・マルセイエーズ﹂、﹁ラ・カルマニョール﹂ (La Carmagnole) と並ぶ、当時流行した代表的な革命歌のひとつ。1790年5月に歌われたのを最初の記録とする。
小説[編集]
●﹃二都物語﹄︵チャールズ・ディケンズ、1859年︶ ●﹃九十三年﹄︵ヴィクトル・ユーゴー、1874年︶ ●﹃紅はこべ﹄︵バロネス・オルツィ、1905年︶ ●﹃神々は渇く﹄︵アナトール・フランス、1912年︶ ●﹃王妃マリー・アントワネット﹄︵遠藤周作、1979年 - 1980年︶ ●﹃フーシェ革命暦﹄︵辻邦生、1989年︶ ●﹃黒い悪魔﹄︵佐藤賢一、2003年︶ - 軍人として革命に加わったムラート、大デュマの父トマ=アレクサンドル・デュマの生涯を描く。 ●﹃小説フランス革命﹄︵佐藤賢一、2008年 - 2013年︶ ●﹃クロコダイル路地﹄︵皆川博子、2016年︶ミュージカル[編集]
●﹃酔いどれ公爵﹄︵演出・主演‥千葉真一、1985年︶ ●﹃マリー・アントワネット (ミュージカル)﹄︵日本初演2006年︶ ●﹃スカーレット・ピンパーネル﹄ ●﹃愛と革命の詩 -アンドレア・シェニエ-﹄ ●﹃1789 -バスティーユの恋人たち-﹄︵日本初演2015年︶ ●﹃眠らない男・ナポレオン -愛と栄光の涯に-﹄ ●﹃ひかりふる路 ~革命家、マクシミリアン・ロベスピエール~﹄バレエ[編集]
●﹃パリの炎﹄︵1932年初演︶オペラ[編集]
●﹃アンドレア・シェニエ﹄︵ウンベルト・ジョルダーノ作曲、1896年初演︶ ●﹃カルメル派修道女の対話﹄︵フランシス・プーランク作曲、1957年初演︶映画[編集]
●﹃ラ・マルセイエーズ﹄︵監督ジャン・ルノワール、1938年︶ ●﹃秘密指令﹄︵監督アンソニー・マン、1949年︶ ●﹃マルキ・ド・サドの演出のもとにシャラントン精神病院患者たちによって演じられたジャン=ポール・マラーの迫害と暗殺﹄︵監督ピーター・ブルック、1967年︶ ●﹃ベルサイユのばら﹄︵監督ジャック・ドゥミ、1979年︶ ●﹃ダントン﹄︵監督アンジェイ・ワイダ、1983年︶ ●﹃ソフィー・マルソーの愛、革命に生きて﹄︵監督フィリップ・ド・ブロカ、1988年︶ ●﹃La Révolution française﹄︵監督ロベール・アンリコ他、主演ジェーン・シーモア他、1989年、日本未公開︶ ●﹃愛と欲望の果てに/ドレスの下のフランス革命﹄︵監督マローン・バクティ、1989年、全6回のTVムービー︶漫画[編集]
●﹃ベルサイユのばら﹄︵池田理代子︶ マリー・アントワネットの生涯を描くが、その背景としてのフランス革命を描いている。 ●﹃ナポレオン -獅子の時代-﹄︵長谷川哲也︶ ●﹃杖と翼﹄︵木原敏江︶ ●﹃静粛に、天才只今勉強中!﹄︵倉多江美︶ - フーシェをモデルにした男が革命からナポレオン時代までを生き抜く話。 ●﹃マリー・アントワネット﹄︵惣領冬実︶ - ﹁週刊モーニング﹂︵講談社︶で連載が開始された全4話の構成の漫画。史上初のヴェルサイユ宮殿による監修。当時の中傷ビラと新聞で捏造された、愚鈍で気弱な夫と浪費家の悪妻という汚名を着せられたルイ16世とマリー・アントワネットの事実を描く漫画。 ●﹃第3のギデオン﹄︵乃木坂太郎︶ - ﹁ビッグコミックスペリオール﹂︵小学館︶で連載されていた漫画。アニメ[編集]
●﹃ラ・セーヌの星﹄︵フジテレビ、1975年︶ - フランス革命を背景に主人公シモーヌ・ロランが虐げられる民衆を救うべく仮面の剣士﹁ラ・セーヌの星﹂と名乗り、義賊﹁黒いチューリップ﹂ロベール・ド・フォルジュとともに戦うアニメーション作品。 ●﹃ベルサイユのばら﹄︵日本テレビ、1979年︶ - 上記同名漫画のアニメ化作品。コンピュータゲーム[編集]
●﹃アサシン クリード ユニティ﹄︵ユービーアイソフト、2014年︶脚注[編集]
注釈[編集]
(一)^ 中世のフランスは日本の戦国時代に近い状態で、王権とは名のみの存在であり、各地に私兵を抱えた大貴族が群雄割拠していた。これらの大貴族の中には外国の君主に服属する者が多数いた[8]。
(二)^ 宮廷貴族になるには少なくとも1400年代にまで遡って、貴族の家系であることが証明されなければならなかった[11]
(三)^ たとえば11歳や12歳の宮廷貴族が総督に任命されることが珍しくなかった[13]。
(四)^ たとえばコンデ太公の総督職は合計51万2000リーブルの年収になった。これは現在の換算で51億円以上となる。また大臣になると就任費を受け取る権利があり、高級官僚の収入は数億円から数十億円に相当するものになった[19]。
(五)^ これらの小姓は家柄の低い宮廷貴族や、高級貴族の年少の子弟がなった。その官職には、王の髪をとくだけの係、マントを持つ係、ステッキを持つ係、便器を運ぶ係、ネクタイを結ぶ係、風呂場でふく係など多くの係を作って、それぞれに俸給を与えていた[21]。
(六)^ 当時、標準的な職人、労働者の日給が1リーブル前後であった。年収では360リーブル前後となる。正確な比較はできないが、1リーブルは1万円前後となる。1万リーブルは1億円程度と考えると理解しやすい[19]。
(七)^ たとえばポリニャック公爵夫人は娘の持参金に80万ルーブルを国王からもらい、ランバル公爵夫人は王妃付き女官長となり、彼女の父は王から3万リーブルの年金と1個連隊を与えられた[24]。
(八)^ ルイ15世は﹁朕の宮殿での盗みは莫大なものだ。多くの高官が盗みに没頭し、全てを使い果たしている。朕の大臣のすべてがそれをただそうと努めた。しかし、実施の段階で尻込みして計画を放棄した﹂と述べている。国王が臣下の宮廷貴族たちを泥棒よばわりしている。これを打ち切ろうとすると宮廷貴族の反撃に遭うのである[26]。
(九)^ ﹁朕は国家なり﹂という解釈は高等法院と王がいざこざを起こしたときに、王の側から打ち出された原則であった[28]。
(十)^ 高等法院議長の職が11万リーブル、検事次長の職が4万リーブルという数字が残っている[29]。
(11)^ 租税の滞納者は簡単に逮捕され、脱税のための密売の嫌疑がかけられるだけで有罪とされ、無罪が証明されなければ釈放されなかった。そのため、多くの商工業者やその妻子が厳しい刑罰を受け、背中をむち打たれることは珍しくなかった[35]。
(12)^ 恐怖政治の時代に28人の徴税請負人がギロチンにかけられた。その中には科学者として高名だったラボアジェもいた。ラボアジェは総徴税請負人の利益が年間4万から5万リーブル︵約4~5億円︶になったと記録している[35]
(13)^ ケース・デンスコントはブルジョアジーの中央銀行であったが、ブルジョアジーが出資した資本金を国王政府が財政赤字を理由に強制的に借り入れた。そこで準備金は減少し、ケース・デンスコントの信用は落ち、銀行の発行する紙幣の流通が困難になった。これも革命を引き起こした原因となった[38]。
(14)^ 負担率は地方によって異なり、4分の1から20分の1までの差があった[40]。
(15)^ ネッケルは成功した銀行家で平民だったので、最初は国王に面会もできなかった。テュルゴーは貴族だったが宮廷に出入りできる身分ではなかった。彼らの任命はあくまで非常事態にもとづく、国王のやむを得ない措置だった[46]。
(16)^ 彼は高級僧侶で名門の宮廷貴族だった[48]。
(17)^ 印紙税はアメリカ独立戦争の口火を切らせた悪税だった[48]。
(18)^ フランス王立銀行のこと。日本の定義では金庫に相当する民間が出資する特殊法人。もとはルイ15世時代の財務総監ジョン・ローが開設したジェネラール銀行で、その破産によって王立となった。その後、財務総監テュルゴーに引き継がれる (fr:Caisse d'escompte) 。
(19)^ 当時は金属貨幣の時代なので、紙幣は金属貨幣と交換可能だった。
(20)^ États généraux, 各身分の代表から構成される身分制議会。
(21)^ 自由主義貴族や宮廷にすら入れない法服貴族[54]。
(22)^ このとき亡命したのはブロイ公爵、ブルトゥイユ男爵、ランベスク太公、ポリニャック公爵、コンデ太公などであった[75]。
(23)^ この時のスローガンは、自由・平等・私有財産の不可侵だった。
(24)^ 選挙権を持つ者を﹁能動市民﹂、持たない者を﹁受動市民﹂と呼んだ。政権に参加できる者は少なくとも手工業の親方や小商店主、中農以上の者に限定された[101]。
(25)^ 絶対主義の時代は外国人領主の領地や外国扱いされていた地方があって、かならずしもフランス王国の領土と認められていないものがあった[101]。
(26)^ のちにこの勢力は、議場の中央の低いところに集まっていたので平原派と呼ばれるようになる。
(27)^ 前身はパリ選挙人会議である。もとはフイヤン派で固められていたが、8月10日以後はパリのそれぞれの区の代表と自称する者が議場に侵入し、前議員を追放して﹁革命的コミューン﹂﹁蜂起コミューン﹂と称するようになった[122]。
(28)^ マルセイユ連盟兵は﹁ラ・マルセイエーズ﹂を歌いながら行進し、のちのフランス国歌になった[125]。
(29)^ ジロンド県から来た議員が華々しく活躍したことから付いた名[129]。
(30)^ 中央の低い議席に集まっていたことによる呼び名[130]。
(31)^ 議場の高くなっている席に陣取って、他の議員が彼らを見上げて﹁山にいる﹂という意味であだ名を付けた[129]。
(32)^ 387対334の差だった[132]。
(33)^ 富者の財産を尊重しながら一時的に彼らから金を借り、もし祖国が救われたときは借りたものを返すという精神だった[135]。
(34)^ ジロンド派の心配の通り、このときの累進強制公債は後日切り捨てが行われ、完全に返済されることはなかった[139]。
(35)^ この事実は通俗的に使われている﹁ジャコバン党の独裁﹂は無かったのであり、正確には山岳派と平原派の連合政権とするのが正しい[146]。
(36)^ オーストリア軍の大軍が国境からパリを脅かし、フランス海軍の軍港がイギリスに占領され、スペイン軍が侵入した[147]。
(37)^ 商人や大農民が穀物を買い占めパリに食料が入ってこなくなった[147]。
(38)^ 1793年3月10日、フランス軍が敗走を始めたときに作られたが、活動はゆっくりしていて寛大だった。裁判所の判事と陪審員には職人、労働者はいなかった[151]。
(39)^ このことは議員たちには予想されていたが、群衆の圧力でしかたなく議員は布告に賛成した[152]。
(40)^ その頃の正規軍はすべて国境にいた。革命軍の指揮官の多くはブルジョアや大土地所有者の階層だった[153]。
(41)^ この法令が実施されていれば﹁土地のない農民に土地を与える﹂という土地革命が初めて実現したはずであったが、ロベスピエール排除の結果、フランス革命では最後まで土地革命は実現されなかった[161]。
(42)^ 革命のスローガンは﹁友愛﹂から再び﹁財産を守れ﹂が表に出た[160]。
(43)^ ピネル神話には異論もある[173]。厳密には、一連の精神医療・医学の改革はピネルと監護人ピュサンの﹁合作、共同作業とみなすべきであろう﹂、と精神科医の影山任佐が述べており、高橋もそれに同意している[175]。人道主義的に精神病者へ自由を与えたピネルは感動をもって語り継がれたが、ピネル自身の記録によると1798年5月23日に﹁鎖からの解放﹂を行ったのは、監護人であったピュサンである[176]。ピネル本人が﹁鎖からの解放﹂を行ったのはその3年後、転任先であるサルペトリエール救済院だったと高橋は述べている[175]。
(44)^ 哲学者ミシェル・フーコーは﹁狂気は疾患ではない﹂という狂気観や﹁反精神医学﹂を主張してピネルとフランス革命を批判したが、そこには﹁臨床医学的観点﹂が欠けていると高橋は述べている[180]。確かにフーコーが観察した精神医療の現場は悲惨だったが、それは薬物療法が開始される以前の現場であり、しかもピネル以前へ退行したかのような野蛮な﹁医療﹂が行われていた場所だった[180]。一方、フーコーの師であるジョルジュ・カンギレムは医者でもあり、カンギレムがピネルを﹁独立した学問分野として精神医学を設立した﹂と評価したことは事実に基づいていて、医学的に正確だと考えられている[180]。フーコーに対する医学界からの批判はしばしば、フーコーの﹁治療者としての視点﹂の欠如を挙げている[181]。クルト・シュナイダーが指摘しているように、精神疾患は明らかな﹁脳の病変﹂を伴うことがあり、実生活だけでなく生存さえ危険にすることも少なくない[181]。﹁この点においてフーコーの批判は誤りである﹂と高橋は述べている[181]。高橋が言うにはピネルの精神医学開拓と臨床改革は、サルペトリエール病院やサンタンヌ精神病院へと継承されて、優れた多数の精神医学者たちを輩出し、フランスで精神医学を築いていった[180]。
出典[編集]
(一)^ 小林良彰 1978, p. 141.
(二)^ abcd﹃日本大百科全書(ニッポニカ)﹄﹁ブルジョア革命﹂
(三)^ 犬馬場 2021, p. ﹁パリ祭﹂.
(四)^ ﹃ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典﹄﹁ブルジョア憲法﹂
(五)^ 小林良彰 1989, p. 150.
(六)^ ab小林良彰 1988, p. 16.
(七)^ 小林良彰 1988, p. 18.
(八)^ ab小林良彰 1988, p. 19.
(九)^ 小林良彰 1988, p. 25.
(十)^ ab小林良彰 1978, p. 17.
(11)^ abc小林良彰 1978, p. 19.
(12)^ 小林良彰 1978, pp. 18–19.
(13)^ abcd小林良彰 1978, p. 21.
(14)^ abcd板倉聖宣 1989, p. 62.
(15)^ abc小林良彰 1988, p. 178.
(16)^ 小林良彰 1978, p. 34.
(17)^ 小林良彰 1978, p. 22.
(18)^ 小林良彰 1978, pp. 22–23.
(19)^ ab小林良彰 1978, p. 23.
(20)^ 小林良彰 1978, p. 24.
(21)^ 小林良彰 1978, p. 26.
(22)^ 小林良彰 1978, pp. 26–27.
(23)^ 小林良彰 1978, p. 28.
(24)^ abc小林良彰 1978, p. 29.
(25)^ ab小林良彰 1978, p. 30.
(26)^ 小林良彰 1978, p. 82.
(27)^ 小林良彰 1978, pp. 29–30.
(28)^ abcde小林良彰 1978, p. 42.
(29)^ abc小林良彰 1978, p. 43.
(30)^ 小林良彰 1978, p. 46.
(31)^ abcde小林良彰 1978, p. 49.
(32)^ 小林良彰 1978, p. 47.
(33)^ 小林良彰 1978, pp. 49–50.
(34)^ 小林良彰 1978, p. 50.
(35)^ abc小林良彰 1978, p. 51.
(36)^ ab小林良彰 1978, p. 52.
(37)^ ab小林良彰 1978, p. 62.
(38)^ abc小林良彰 1978, p. 63.
(39)^ abc小林良彰 1978, p. 71.
(40)^ 小林良彰 1988, p. 297.
(41)^ 小林良彰 1978, p. 73.
(42)^ 小林良彰 1978, p. 74.
(43)^ 小林良彰 1978, p. 77.
(44)^ 小林良彰 1989, p. 23.
(45)^ Mayumi (2017年6月26日). “天井知らずの国家の財政赤字がフランス革命を引き起こした ブルボン王朝の借金 総額54兆円”. Mayumiの日々綴る暮らしと歴史の話. 2020年11月14日閲覧。
(46)^ abc小林良彰 1989, p. 24.
(47)^ 小林良彰 1989, p. 25.
(48)^ ab小林良彰 1978, p. 91.
(49)^ abc小林良彰 1978, p. 92.
(50)^ abc小林良彰 1978, p. 93.
(51)^ ab小林良彰 1978, p. 94.
(52)^ Parlement de Paris
(53)^ ルフェーブル (1998)[要ページ番号],﹁全国三部会﹂。
(54)^ ab小林良彰 1978, p. 95.
(55)^ 小林良彰 1978, pp. 95–96.
(56)^ ab小林良彰 1978, p. 96.
(57)^ abc小林良彰 1978, p. 99.
(58)^ abc小林良彰 1978, p. 100.
(59)^ abcd小林良彰 1978, p. 101.
(60)^ abcd小林良彰 1978, p. 102.
(61)^ 小林良彰 1978, p. 103.
(62)^ abcd小林良彰 1978, p. 105.
(63)^ ab小林良彰 1989, p. 28.
(64)^ 小林良彰 1978, p. 106.
(65)^ 小林良彰 1978, p. 107.
(66)^ ab小林良彰 1978, p. 108.
(67)^ ab小林良彰 1978, p. 109.
(68)^ 小林良彰 1978, pp. 109–110.
(69)^ 小林良彰 1978, p. 112.
(70)^ 小林良彰 1988, pp. 78.
(71)^ 小林良彰 1989, p. 228.
(72)^ ab小林良彰 1989, p. 229.
(73)^ abc小林良彰 1989, p. 230.
(74)^ ab小林良彰 1989, p. 30.
(75)^ 小林良彰 1989, p. 32.
(76)^ 小林良彰 1989, p. 34.
(77)^ 小林良彰 1989, p. 35.
(78)^ abc小林良彰 1978, p. 118.
(79)^ 小林良彰 1978, pp. 118–119.
(80)^ 小林良彰 1978, pp. 120–121.
(81)^ 小林良彰 1978, pp. 122–123.
(82)^ 小林良彰 1978, p. 124.
(83)^ 小林良彰 1978, pp. 126–127.
(84)^ 小林良彰 1978, p. 127.
(85)^ 小林良彰 1978, pp. 127–128.
(86)^ 小林良彰 1978, p. 128.
(87)^ 小林良彰 1978, pp. 129–130.
(88)^ ab小林良彰 1978, p. 142.
(89)^ 小林良彰 1978, p. 143.
(90)^ 小林良彰 1978, pp. 148–150.
(91)^ 小林良彰 1978, p. 152.
(92)^ 小林良彰 1978, p. 132.
(93)^ 小林良彰 1978, p. 133.
(94)^ 小林良彰 1978, p. 135.
(95)^ ab小林良彰 1978, p. 136.
(96)^ 小林良彰 1978, p. 153.
(97)^ 小林良彰 1978, p. 154.
(98)^ ab小林良彰 1978, p. 155.
(99)^ ab小林良彰 1978, p. 157.
(100)^ ab小林良彰 1978, p. 158.
(101)^ abcd小林良彰 1978, p. 159.
(102)^ ab小林良彰 1978, p. 162.
(103)^ 小林良彰 1978, p. 165.
(104)^ 小林良彰 1978, p. 166.
(105)^ 小林良彰 1978, p. 168.
(106)^ 小林良彰 1978, p. 169.
(107)^ 小林良彰 1978, p. 170.
(108)^ ab小林良彰 1978, p. 171.
(109)^ 小林良彰 1978, p. 173.
(110)^ abc小林良彰 1978, p. 174.
(111)^ ab小林良彰 1978, p. 175.
(112)^ 小林良彰 1978, p. 176.
(113)^ 小林良彰 1978, p. 178.
(114)^ 小林良彰 1978, p. 179.
(115)^ 小林良彰 1978, p. 181.
(116)^ ab小林良彰 1978, p. 182.
(117)^ 小林良彰 1978, p. 184.
(118)^ 小林良彰 1978, p. 185.
(119)^ 小林良彰 1978, p. 186.
(120)^ ab小林良彰 1978, p. 187.
(121)^ ab小林良彰 1989, p. 224.
(122)^ 小林良彰 1978, p. 194.
(123)^ 小林良彰 1978, p. 195.
(124)^ 小林良彰 1978, p. 196.
(125)^ 小林良彰 1978, p. 183.
(126)^ ab小林良彰 1978, p. 199.
(127)^ ab小林良彰 1978, p. 200.
(128)^ abc小林良彰 1978, p. 201.
(129)^ ab小林良彰 1978, p. 202.
(130)^ ab小林良彰 1978, p. 203.
(131)^ 小林良彰 1989, p. 55.
(132)^ 小林良彰 1978, p. 215.
(133)^ ab小林良彰 1978, p. 214.
(134)^ 小林良彰 1978, p. 216.
(135)^ 小林良彰 1978, p. 247.
(136)^ 小林良彰 1978, p. 246.
(137)^ 小林良彰 1978, pp. 246–248.
(138)^ 小林良彰 1978, p. 250.
(139)^ 小林良彰 1989, p. 59.
(140)^ 小林良彰 1978, p. 249.
(141)^ 小林良彰 1978, p. 235.
(142)^ 小林良彰 1978, p. 239.
(143)^ 小林良彰 1989, p. 49.
(144)^ 小林良彰 1989, p. 48.
(145)^ ab小林良彰 1989, p. 60.
(146)^ ab小林良彰 1989, p. 61.
(147)^ ab小林良彰 1978, p. 261.
(148)^ 小林良彰 1989, p. 115.
(149)^ ab小林良彰 1989, p. 116.
(150)^ 小林良彰 1989, p. 117.
(151)^ ab小林良彰 1978, pp. 261–262.
(152)^ ab小林良彰 1978, p. 262.
(153)^ 小林良彰 1978, p. 264.
(154)^ 小林良彰 1978, pp. 263–264.
(155)^ 小林良彰 1978, p. 266.
(156)^ 小林良彰 1978, p. 268.
(157)^ 小林良彰 1978, pp. 268–269.
(158)^ ab小林良彰 1978, p. 269.
(159)^ ab小林良彰 1978, p. 295.
(160)^ ab小林良彰 1988, p. 79.
(161)^ 小林良彰 1988, p. 105.
(162)^ abc小林良彰 1989, p. 125.
(163)^ ab小林良彰 1978, p. 296.
(164)^ 小林良彰 1978, p. 297.
(165)^ 小林良彰 1978, p. 302.
(166)^ 小林良彰 1978, p. 306.
(167)^ 小林良彰 1978, p. 301.
(168)^ abc小林良彰 1978, p. 310.
(169)^ 小林良彰 1978, pp. 312–314.
(170)^ ab高橋 2014, p. 113.
(171)^ abcd高橋 2014, pp. 114–115.
(172)^ ab高橋 2014, p. 97.
(173)^ abcd高橋 2014, p. 98.
(174)^ 高橋 2014, p. 111.
(175)^ abcdef高橋 2014, p. 112.
(176)^ 高橋 2014, pp. 110–111.
(177)^ 高橋 2014, p. 112-113.
(178)^ abcd高橋 2014, p. 114.
(179)^ ab高橋 2014, p. 115.
(180)^ abcd高橋 2014, p. 163.
(181)^ abc高橋 2014, p. 157.
(182)^ ab小林良彰 1988, p. 14.
(183)^ ab小林良彰 1988, pp. 16–17.
(184)^ 小林良彰 1988, p. 17.
(185)^ 小林良彰 1988, p. 174.
(186)^ 小林良彰 1988, p. 177.
(187)^ 小林良彰 1988, pp. 181–182.
(188)^ 小林良彰 1988, p. 176.
(189)^ ab小林良彰 1988, p. 179.
(190)^ 板倉聖宣 1997, p. 24.
(191)^ 板倉聖宣 1997, p. 25.
(192)^ 板倉聖宣 1997, p. 28.
(193)^ 板倉聖宣 1997, p. 33.
(194)^ 板倉聖宣 1997, p. 34.
(195)^ 平野 (2002), pp. 28-32。
(196)^ 平野 (2002), p. 34。
参考文献[編集]
●犬馬場, 紀子﹁パリ祭﹂﹃日本大百科全書(ニッポニカ)﹄Kotobank、2021年。2021年5月7日閲覧。 日本大百科全書﹃パリ祭﹄ - コトバンク ●小林良彰﹃フランス革命史入門﹄三一書房、1978年。全国書誌番号:78010159 ●小林良彰﹃明治維新とフランス革命﹄三一書房、1988年。全国書誌番号:89015150 ●小林良彰﹃高校世界史における フランス革命論批判﹄三一書房、1989年。ISBN 4-380-89238-7。全国書誌番号:89052418 ●板倉聖宣﹁小林良彰著﹃明治維新とフランス革命﹄が出ました﹂﹃たのしい授業 1989年5月号﹄第76巻、仮説社、1989年、62頁。全国書誌番号:00101397 ●板倉聖宣﹁明治維新の前と後 フランス革命の前と後﹂﹃たのしい授業 1997年11月号﹄第189巻、仮説社、1997年、24-40頁。全国書誌番号:00101397 ●石弘之﹃歴史を変えた火山噴火 - 自然災害の環境史﹄刀水書房︿世界史の鏡 環境1﹀、2012年1月。ISBN 978-4-88708-511-4。 ●岡本明﹃ナポレオン体制への道﹄ミネルヴァ書房、1992年7月。ISBN 978-4-623-02150-5。 ●高橋, 豊﹃精神障害と心理療法‥﹁悪魔祓い﹂から﹁精神分析﹂、﹁親─乳幼児心理療法﹂への概念の変遷﹄河出書房新社、2014年。ISBN 978-4309246604。 ●ピーター・マクフィー 著、永見瑞木・安藤裕介 訳﹃フランス革命史――自由か死か﹄白水社、2022年。ISBN 978-4-560-09895-0。 ●平野千果子﹃フランス植民地主義の歴史﹄人文書院、2002年2月。ISBN 4-409-51049-5。 ●ルフェーブル, ジョルジュ﹃1789年 - フランス革命序論﹄高橋幸八郎・柴田三千雄・遅塚忠躬訳、岩波書店︿岩波文庫﹀、1998年5月。 ●﹃フランス革命﹄ポール・ニコル著、金沢誠・山上正太郎共訳、白水社文庫クセジュ ●山﨑耕一﹃フランス革命―﹁共和国の誕生﹂﹄刀水書房、2018年10月。ISBN 978-4-88708-443-8。文献リスト[編集]
さらに理解を深めるための文献を以下に紹介する︵発行年順︶。 ●トーマス・カーライル﹃フランス革命史1〜6﹄柳田泉訳、春秋社、1947年、48年 [原著1837年]。 ●モナ・オズーフ﹃革命祭典﹄立川孝一訳、岩波書店、1988年7月 [原著1984年]、ISBN 978-4000003223。 ●ミシェル・ヴォヴェル﹃フランス革命の心性﹄立川孝一ほか訳、岩波書店、1992年5月 [原著1985年]、ISBN 978-4-00-003622-1。 ●松浦義弘﹁フランス革命期のフランス﹂︵柴田三千雄・樺山紘一・福井憲彦編﹃フランス史 2 16世紀 - 19世紀なかば﹄山川出版社︿世界歴史大系﹀、1996年7月。ISBN 978-4-634-46100-0。︶ ●ハンナ・アーレント﹃革命について﹄筑摩書房︿ちくま学芸文庫﹀、1995年6月 [原著1963年] ISBN 978-4480082145。 ●遅塚忠躬﹃フランス革命 - 歴史における劇薬﹄岩波書店︿岩波ジュニア新書 295﹀、1997年12月。ISBN 978-4-00-500295-5。 ●アレクシス・ド・トクヴィル﹃旧体制と大革命﹄筑摩書房︿ちくま学芸文庫﹀1998年1月[原著1856年]、ISBN 978-4480083968。 ●﹃フランス革命事典2﹄フランソワ・フュレ、モナ・オズーフ編、河野健二ほか監訳、みすず書房︿人物1みすずライブラリー﹀、1998年12月 [原著1988年]。ISBN 978-4-622-05033-9。 ●柴田三千雄﹃フランス革命﹄岩波書店︿岩波現代文庫 学術 189﹀、2007年12月。ISBN 978-4-00-600189-6。 ●カール・マルクス﹃ルイ・ボナパルトのブリュメール18日﹄植村邦彦訳、平凡社︿平凡社ライブラリー 649﹀、2008年9月。ISBN 978-4-582-76649-3。 ●二宮宏之﹁フランス絶対王政の統治構造﹂︵﹃二宮宏之著作集3ソシアビリテと権力の社会史﹄岩波書店、2011年12月、ISBN 978-4-00-028443-1。︶ ●柴田三千雄﹃フランス革命はなぜおこったか 革命史再考﹄福井憲彦・近藤和彦編、山川出版社、2012年4月。ISBN 978-4-634-64055-9。関連項目[編集]
- ハイチ革命
- 奴隷制度廃止運動
- フランス革命の年表
- フランス革命関連人物一覧
- フランス革命戦争
- フランス7月革命
- フランス2月革命
- フランス革命の省察
- ナポレオン・ボナパルト
- アメリカ大陸諸国の独立年表