「グランド・オペラ」の版間の差分
→音楽: 『預言者』『アフリカの女』追加、LINK修正 |
改名にともなうリンク修正 |
||
(他の1人の利用者による、間の1版が非表示) | |||
19行目: | 19行目: | ||
こうして、[[18世紀]]末から[[19世紀]]前半にかけてのパリ・オペラ座は[[フランス]]人、外国人を問わず多くの[[オペラ]]作曲家を惹きつけた。 |
こうして、[[18世紀]]末から[[19世紀]]前半にかけてのパリ・オペラ座は[[フランス]]人、外国人を問わず多くの[[オペラ]]作曲家を惹きつけた。 |
||
イタリアでは以前より、ドラマ展開には台詞でなく[[レチタティーヴォ]]を用いることが常識化していたが、パリにやってきた多くのイタリア人作曲家、特に[[ルイジ・ケルビーニ|ケルビーニ]]は、力強いドラマ展開におけるその効用をフランス人の観客にも実証して見せた。また、[[ナポレオン・ボナパルト|ナポレオン]]お気に入りの作曲家[[ガスパーレ・スポンティーニ|スポンティーニ]]は、[[エルナン・コルテス|コルテス]]の[[アステカ]]征服史に題材をとった︵ナポレオン自身が題材を選択したともいう︶雄大な﹃{{仮リンク|フェルナンド・コルテス︵オペラ︶|label=フェルナンド・コルテス|en|Fernand Cortez}}﹄︵[[1809年]]︶を作曲し、そこでは史実通りに16頭の馬を舞台に登場させるなど、オペラの舞台構成は次第に大規模化していった。初期グランド・オペラの主要作品としては、[[フランソワ・オ |
イタリアでは以前より、ドラマ展開には台詞でなく[[レチタティーヴォ]]を用いることが常識化していたが、パリにやってきた多くのイタリア人作曲家、特に[[ルイジ・ケルビーニ|ケルビーニ]]は、力強いドラマ展開におけるその効用をフランス人の観客にも実証して見せた。また、[[ナポレオン・ボナパルト|ナポレオン]]お気に入りの作曲家[[ガスパーレ・スポンティーニ|スポンティーニ]]は、[[エルナン・コルテス|コルテス]]の[[アステカ]]征服史に題材をとった︵ナポレオン自身が題材を選択したともいう︶雄大な﹃{{仮リンク|フェルナンド・コルテス︵オペラ︶|label=フェルナンド・コルテス|en|Fernand Cortez}}﹄︵[[1809年]]︶を作曲し、そこでは史実通りに16頭の馬を舞台に登場させるなど、オペラの舞台構成は次第に大規模化していった。初期グランド・オペラの主要作品としては、[[ダニエル=フランソワ=エスプリ・オベール|オベール]]の﹃[[ポルティチの唖娘]]﹄︵''La Muette de Portici'', [[1828年]]︶、[[ジョアキーノ・ロッシーニ|ロッシーニ]]の最後のオペラ﹃[[ウィリアム・テル (オペラ)|ギヨーム・テル]]﹄︵''Guillaume Tell'', [[1829年]]︶などもある。
|
||
そして、このグランド・オペラ様式の第一人者となったのが︵ドイツ人だがイタリアで最初の成功をおさめた︶[[ジャコモ・マイアベーア]]であった。[[1831年]]の﹃[[悪魔のロベール]]﹄︵''Robert le Diable'' ︶によってパリのオペラ界に進出した彼は、傑作﹃[[ユグノー教徒 (オペラ)|ユグノー教徒]]﹄︵''Les Huguenots'', [[1836年]]︶によりグランド・オペラの代表的作曲家としての地位を確立し、﹃[[預言者 (オペラ)|預言者]]﹄︵''Le Prophète''、1849年︶で、キャリアの頂点に到達した。彼のオペラは興行的にも大成功であり、当時パリ在住の若き[[リヒャルト・ワーグナー|ワーグナー]]までもが、その手法を模倣したと考えられる﹃[[リエンツィ]]﹄︵''Rienzi'', 1842年︶を書いている。
|
そして、このグランド・オペラ様式の第一人者となったのが︵ドイツ人だがイタリアで最初の成功をおさめた︶[[ジャコモ・マイアベーア]]であった。[[1831年]]の﹃[[悪魔のロベール]]﹄︵''Robert le Diable'' ︶によってパリのオペラ界に進出した彼は、傑作﹃[[ユグノー教徒 (オペラ)|ユグノー教徒]]﹄︵''Les Huguenots'', [[1836年]]︶によりグランド・オペラの代表的作曲家としての地位を確立し、﹃[[預言者 (オペラ)|預言者]]﹄︵''Le Prophète''、1849年︶で、キャリアの頂点に到達した。彼のオペラは興行的にも大成功であり、当時パリ在住の若き[[リヒャルト・ワーグナー|ワーグナー]]までもが、その手法を模倣したと考えられる﹃[[リエンツィ]]﹄︵''Rienzi'', 1842年︶を書いている。
|
||
その他、[[ジャック・アレヴィ|アレヴィ]]の『[[ユダヤの女]]』(''La Juive'', [[1835年]])、今日でもレパートリー作品である[[シャルル・グノー|グノー]]の『[[ファウスト ( |
その他、[[ジャック・アレヴィ|アレヴィ]]の『[[ユダヤの女]]』(''La Juive'', [[1835年]])、今日でもレパートリー作品である[[シャルル・グノー|グノー]]の『[[ファウスト (グノー)|ファウスト]]』(''Faust'' <ref>[[1859年]]リリック座(Théâtre-Lyrique)にて初演、ただし初演時は台詞付。1869年になってオペラ座でのグランド・オペラ形式上演</ref>)、そして[[エクトル・ベルリオーズ|ベルリオーズ]]の『[[トロイアの人々]]』(''Les Troyens'' <ref>作曲年代[[1858年]] - [[1859年]]、完全版上演は20世紀になる</ref>)、マイアベーアの没後に初演された『[[アフリカの女]]』(''L’Africaine''、1865年)、また19世紀末の作品としては[[ジュール・マスネ|マスネ]]の『[[エロディアード]]』(''Hérodiade'', [[1881年]])や『[[ル・シッド (マスネ)|ル・シッド]]』(''Le Cid'', [[1885年]])なども、グランド・オペラ様式の代表作と考えられる。 |
||
== 台本 == |
== 台本 == |
||
34行目: | 34行目: | ||
[[1832年]]からは、舞台照明としてそれまでの灯油ランプではなく、[[ガス灯]]を全面的に用いている。ガス灯は単に無煙で明るいというばかりでなく、ガス流量を手元制御することで機動的な明暗付けが可能であり、舞台効果の発達につながった。またガス灯によって明るくなった舞台がもたらした変化として、歌手や合唱団員の大袈裟なジェスチャー、表情付けが歓迎されなくなり、より微妙な演技が歓迎されるようになったとの説もある︵もっとも、当時の舞台所作を正確に伝える資料は存在しない︶。
|
[[1832年]]からは、舞台照明としてそれまでの灯油ランプではなく、[[ガス灯]]を全面的に用いている。ガス灯は単に無煙で明るいというばかりでなく、ガス流量を手元制御することで機動的な明暗付けが可能であり、舞台効果の発達につながった。またガス灯によって明るくなった舞台がもたらした変化として、歌手や合唱団員の大袈裟なジェスチャー、表情付けが歓迎されなくなり、より微妙な演技が歓迎されるようになったとの説もある︵もっとも、当時の舞台所作を正確に伝える資料は存在しない︶。
|
||
そして舞台装置の点でグランド・オペラを支えたのが、[[ピエール・シセリ]]と[[ルイ・ジャック・マンデ・ダゲール|ルイ・ダゲール]]の2人だった。1816年から1848年までの長きにわたりオペラ座の絵画主任︵peintre en chef︶に任ぜられたシセリは歴史的感覚に秀で、壮大な、しかし詳細な歴史的考証に基づいた舞台装置を作成した。﹃ウィリアム・テル﹄公演の考証のために、彼はわざわざ[[スイス]]と[[イタリア]]への旅行も行うほどであった。[[ダゲレオタイプ]]︵実用写真術の原型︶の創始者としてより有名なダゲールは、彼の﹁パノラマ﹂あるいは﹁ジオラマ﹂と称する技術で、それら装置に立体感を与えた。2人の共同になる典型例は、上記オ |
そして舞台装置の点でグランド・オペラを支えたのが、[[ピエール・シセリ]]と[[ルイ・ジャック・マンデ・ダゲール|ルイ・ダゲール]]の2人だった。1816年から1848年までの長きにわたりオペラ座の絵画主任︵peintre en chef︶に任ぜられたシセリは歴史的感覚に秀で、壮大な、しかし詳細な歴史的考証に基づいた舞台装置を作成した。﹃ウィリアム・テル﹄公演の考証のために、彼はわざわざ[[スイス]]と[[イタリア]]への旅行も行うほどであった。[[ダゲレオタイプ]]︵実用写真術の原型︶の創始者としてより有名なダゲールは、彼の﹁パノラマ﹂あるいは﹁ジオラマ﹂と称する技術で、それら装置に立体感を与えた。2人の共同になる典型例は、上記オベールの﹃ポルティチの唖娘﹄の第5幕の装置であり、そこでは舞台手前には壮麗な宮殿、中景には森林と街並み、そして最後景には[[ヴェスヴィオ]][[火山]]を配し、しかもクライマックスでその火山は[[花火]]仕掛けで大噴火し、そこから流れ出た溶岩が舞台全面を覆うのだった。
|
||
当初オペラ座公演では、既存他演目の装置の流用がコスト的観点から奨励されないまでも黙認され、シセリはこの「リサイクル」の点でも天才的な手腕を発揮したという。しかし[[1831年]]には「新演目は新たな装置と衣装で上演されなければならない」とする規則が加わり、舞台装置に新奇性を求める風潮に一段と拍車がかかった。その場合、時代考証に始まり、装置・衣装製作、譜面完成後の長期にわたるリハーサル等、新作公演には最低18か月の準備期間を要した。 |
当初オペラ座公演では、既存他演目の装置の流用がコスト的観点から奨励されないまでも黙認され、シセリはこの「リサイクル」の点でも天才的な手腕を発揮したという。しかし[[1831年]]には「新演目は新たな装置と衣装で上演されなければならない」とする規則が加わり、舞台装置に新奇性を求める風潮に一段と拍車がかかった。その場合、時代考証に始まり、装置・衣装製作、譜面完成後の長期にわたるリハーサル等、新作公演には最低18か月の準備期間を要した。 |