「ジェイムズ・ダグラス (第2代クイーンズベリー公爵)」の版間の差分
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'''第2代[[クイーンズベリー公爵]]ジェイムズ・ダグラス'''({{lang-en-short|James Douglas, 2nd Duke of Queensberry}}、[[1662年]][[12月18日]] - [[1711年]][[7月6日]])は、[[スコットランド王国|スコットランド]]・[[グレートブリテン王国|イギリス]]の政治家、貴族。 |
'''第2代[[クイーンズベリー公爵]]ジェイムズ・ダグラス'''({{lang-en-short|James Douglas, 2nd Duke of Queensberry}}、[[1662年]][[12月18日]] - [[1711年]][[7月6日]])は、[[スコットランド王国|スコットランド]]・[[グレートブリテン王国|イギリス]]の政治家、貴族。 |
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[[名誉革命]]後のスコットランド政界で活躍し、スコットランドとイングランドの連合を定めた[[1707年]][[連合法 (1707年)|連合法]]の[[スコットランド議会]]における可決に尽力した。 |
[[名誉革命]]後のスコットランド政界で活躍し、スコットランドとイングランドの連合を定めた[[1707年]][[連合法 (1707年)|連合法]]の[[スコットランド議会 (スコットランド王国)|スコットランド議会]]における可決に尽力した。 |
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[[1695年]]に父からスコットランド貴族爵位[[クイーンズベリー公爵]]位を継承し、[[1708年]]に[[グレートブリテン貴族]][[ドーヴァー公爵]]に叙せられた。 |
[[1695年]]に父からスコットランド貴族爵位[[クイーンズベリー公爵]]位を継承し、[[1708年]]に[[グレートブリテン貴族]][[ドーヴァー公爵]]に叙せられた。 |
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== 経歴 == |
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[[1662年]][[12月18日]]、後に初代[[クイーンズベリー公爵]]に叙される[[ウィリアム・ダグラス (初代クイーンズベリー公爵)|ウィリアム・ダグラス]]とその妻イザベル(初代{{仮リンク|ダグラス侯爵|en|Marquess of Douglas}}{{仮リンク|ウィリアム・ダグラス (初代ダグラス侯爵)|label=ウィリアム・ダグラス|en|William Douglas, 1st Marquess of Douglas}}の娘)の間の長男として{{仮リンク|サンクアー城|en|Sanquhar Castle}}に生まれる<ref name=dnb>{{cite DNB|wstitle=Douglas, James (1662-1711)|volume=15}}</ref><ref name="CP DQ">{{Cite web |url=http://www.cracroftspeerage.co.uk |
[[1662年]][[12月18日]]、後に初代[[クイーンズベリー公爵]]に叙される[[ウィリアム・ダグラス (初代クイーンズベリー公爵)|ウィリアム・ダグラス]]とその妻イザベル(初代{{仮リンク|ダグラス侯爵|en|Marquess of Douglas}}{{仮リンク|ウィリアム・ダグラス (初代ダグラス侯爵)|label=ウィリアム・ダグラス|en|William Douglas, 1st Marquess of Douglas}}の娘)の間の長男として{{仮リンク|サンクアー城|en|Sanquhar Castle}}に生まれる<ref name=dnb>{{cite DNB|wstitle=Douglas, James (1662-1711)|volume=15}}</ref><ref name="CP DQ">{{Cite web |url=http://www.cracroftspeerage.co.uk/queensberry1683.htm|title=Queensberry, Duke of (S, 1683/4)|accessdate= 2016-01-14 |last= Heraldic Media Limited |work= [http://www.cracroftspeerage.co.uk/introduction.htm Cracroft's Peerage The Complete Guide to the British Peerage & Baronetage] |language= 英語 }}</ref><ref name="thepeerage.com">{{Cite web |url= http://thepeerage.com/p10969.htm#i109683 |title=William Douglas, 1st Marquess of Queensberry|accessdate= 2016-01-14 |last= Lundy |first= Darryl |work= [http://thepeerage.com/ thepeerage.com] |language= 英語 }}</ref>。 |
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[[グラスゴー大学]]で学び、その後[[グランドツアー]]に出た<ref name=dnb/>。[[1684年]]に帰国すると{{仮リンク|スコットランド枢密顧問官|en|Privy Council of Scotland}}に任じられるとともに騎兵連隊に中佐として入隊した<ref name=dnb/>。 |
[[グラスゴー大学]]で学び、その後[[グランドツアー]]に出た<ref name=dnb/>。[[1684年]]に帰国すると{{仮リンク|スコットランド枢密顧問官|en|Privy Council of Scotland}}に任じられるとともに騎兵連隊に中佐として入隊した<ref name=dnb/>。 |
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早期から[[オラニエ公]]ウィレム |
早期から[[オラニエ公]]ウィレム([[ウィリアム3世 (イングランド王)|ウィリアム3世]])を支持していたため、[[名誉革命]]後に栄進した{{sfn|松村赳|富田虎男|2000| p=614}}。彼は当時スコットランドで大きな勢力を持っていた四大貴族の一人であり(他に[[ハミルトン公爵]]ハミルトン家、[[アソル公爵]]マレー家、[[アーガイル公爵]]キャンベル家)、ウィリアム3世としては彼の勢力を利用してスコットランドを統治しようとしていた{{sfn|浜林正夫|1983|p=371}}。 |
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[[1692年]]から{{仮リンク|スコットランド大蔵卿委員会|label=|en|Treasurer of Scotland}}の委員の一人となり、[[1693年]]には[[スコットランド議会]]に大蔵卿(Lord High Treasurer)として出席した<ref name=dnb/>。[[1695年]]3月には父の死によりスコットランド貴族爵位の第2代[[クイーンズベリー公爵]]位を継承<ref name=dnb/>。同年{{仮リンク|スコットランド王璽尚書|en|Keeper of the Privy Seal of Scotland}}に就任した<ref name=dnb/>。[[1700年]]にはスコットランド議会における{{仮リンク|スコットランド議会国王代理|label=国王代理|en|Lord High Commissioner to the Parliament of Scotland}}に就任した<ref name=dnb/>。また彼の派閥に属する[[ジョン・ダルリンプル (初代ステア伯爵)|ジョン・ダルリンプル]]を{{仮リンク|スコットランド国務大臣|label=国務大臣|en|Secretary of State (Kingdom of Scotland)}}に据え、早期からイングランドとの連合を目指した{{sfn|浜林正夫|1983|p=371}}。 |
[[1692年]]から{{仮リンク|スコットランド大蔵卿委員会|label=|en|Treasurer of Scotland}}の委員の一人となり、[[1693年]]には[[スコットランド議会 (スコットランド王国)|スコットランド議会]]に大蔵卿 (Lord High Treasurer) として出席した<ref name=dnb/>。[[1695年]]3月には父の死によりスコットランド貴族爵位の第2代[[クイーンズベリー公爵]]位を継承<ref name=dnb/>。同年{{仮リンク|スコットランド王璽尚書|en|Keeper of the Privy Seal of Scotland}}に就任した<ref name=dnb/>。[[1700年]]にはスコットランド議会における{{仮リンク|スコットランド議会国王代理|label=国王代理|en|Lord High Commissioner to the Parliament of Scotland}}に就任した<ref name=dnb/>。また彼の派閥に属する[[ジョン・ダルリンプル (初代ステア伯爵)|ジョン・ダルリンプル]]を{{仮リンク|スコットランド国務大臣|label=国務大臣|en|Secretary of State (Kingdom of Scotland)}}に据え、早期からイングランドとの連合を目指した{{sfn|浜林正夫|1983|p=371}}。 |
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しかし[[1692年]]にはウィリアム3世が連合に抵抗する[[ハイランド地方|高地地方]]において[[グレンコーの虐殺]]を引き起こしていたため、スコットランド議会は国王やイングランドに対する拒絶感が強かった。そのためクイーンズベリー公やダルリンプルら「宮廷派」はスコットランド議会で安定多数を得ることができなかった。[[1702年]]にクイーンズベリー公爵派がイングランドとの連合交渉に乗り出した際にも激しい反発を受けた{{sfn|浜林正夫|1983|p=371}}。 |
しかし[[1692年]]にはウィリアム3世が連合に抵抗する[[ハイランド地方|高地地方]]において[[グレンコーの虐殺]]を引き起こしていたため、スコットランド議会は国王やイングランドに対する拒絶感が強かった。そのためクイーンズベリー公やダルリンプルら「宮廷派」はスコットランド議会で安定多数を得ることができなかった。[[1702年]]にクイーンズベリー公爵派がイングランドとの連合交渉に乗り出した際にも激しい反発を受けた{{sfn|浜林正夫|1983|p=371}}。 |
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[[アン (イギリス女王)|アン女王]]時代にも官職にとどまったが、スコットランド政界での孤立が深まり、[[1704年]]には前年に第11代 |
[[アン (イギリス女王)|アン女王]]時代にも官職にとどまったが、スコットランド政界での孤立が深まり、[[1704年]]には前年に第11代[[ロバト卿]][[サイモン・フレーザー (第11代ロバト卿)|サイモン・フレーザー]]ら[[ジャコバイト]]が企てた陰謀に加担したとされて免職された{{sfn|松村赳|富田虎男|2000| p=267/614}}{{sfn|浜林正夫|1983|p=371}}。 |
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しかし[[1705年]]に疑惑は晴れ、再びスコットランド王璽尚書に就任した{{sfn|松村赳|富田虎男|2000| p=614}}。[[1706年]]にはイングランドとスコットランドの連合推進委員に任命される{{sfn|松村赳|富田虎男|2000| p=614}}。[[連合法 (1707年)|連合法]]はスコットランド議会内において賛否が拮抗していたが、彼が議員の買収に励んで賛成派を増やしたことで[[1707年]]に成立にこぎつけた{{sfn|浜林正夫|1983|p=379}}。そのため「連合公爵(Union Duke)」とあだ名されるようになった{{sfn|松村赳|富田虎男|2000| p=614}}。 |
しかし[[1705年]]に疑惑は晴れ、再びスコットランド王璽尚書に就任した{{sfn|松村赳|富田虎男|2000| p=614}}。[[1706年]]にはイングランドとスコットランドの連合推進委員に任命される{{sfn|松村赳|富田虎男|2000| p=614}}。[[連合法 (1707年)|連合法]]はスコットランド議会内において賛否が拮抗していたが、彼が議員の買収に励んで賛成派を増やしたことで[[1707年]]に成立にこぎつけた{{sfn|浜林正夫|1983|p=379}}。そのため「連合公爵(Union Duke)」とあだ名されるようになった{{sfn|松村赳|富田虎男|2000| p=614}}。 |
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次男{{仮リンク|ジェイムズ・ダグラス (第3代クイーンズベリー侯爵)|label=ジェイムズ・ダグラス|en|James Douglas, 3rd Marquess of Queensberry}}が生存している男子の最年長者だったが、この次男は精神障害者で人肉を食らう殺人者だった<ref>[https://archive.org/stream/ahistoryhousedo00lindgoog#page/n356/mode/2up Maxwell vol ii, p284]</ref><ref>{{cite web | url=http://www.scottish-places.info/people/famousfirst651.html | title=James Douglas (Earl of Drumlanrig) | accessdate=2006-09-13 | publisher=The Gazetteer for Scotland}}</ref><ref>{{cite news|author= |url=http://www.scotsman.com/news/why-you-ve-more-than-a-ghost-of-a-chance-of-seeing-a-spook-1-1045900 |title=Why you've more than a ghost of a chance of seeing a spook |work=[[The Scotsman]]|date=2004-11-08 |accessdate=2015-03-05}}</ref>。そのため爵位に特別継承権の規定が付け加えられており(後述)、クイーンズベリー侯爵位を除く彼と彼の父の代に叙された爵位(クイーンズベリー公爵位やドーヴァー公爵位など)は、三男 |
次男{{仮リンク|ジェイムズ・ダグラス (第3代クイーンズベリー侯爵)|label=ジェイムズ・ダグラス|en|James Douglas, 3rd Marquess of Queensberry}}が生存している男子の最年長者だったが、この次男は精神障害者で人肉を食らう殺人者だった<ref>[https://archive.org/stream/ahistoryhousedo00lindgoog#page/n356/mode/2up Maxwell vol ii, p284]</ref><ref>{{cite web | url=http://www.scottish-places.info/people/famousfirst651.html | title=James Douglas (Earl of Drumlanrig) | accessdate=2006-09-13 | publisher=The Gazetteer for Scotland}}</ref><ref>{{cite news|author= |url=http://www.scotsman.com/news/why-you-ve-more-than-a-ghost-of-a-chance-of-seeing-a-spook-1-1045900 |title=Why you've more than a ghost of a chance of seeing a spook |work=[[The Scotsman]]|date=2004-11-08 |accessdate=2015-03-05}}</ref>。そのため爵位に特別継承権の規定が付け加えられており(後述)、クイーンズベリー侯爵位を除く彼と彼の父の代に叙された爵位(クイーンズベリー公爵位やドーヴァー公爵位など)は、三男[[チャールズ・ダグラス (第3代クイーンズベリー公爵)|チャールズ・ダグラス]]に継承された。一方クイーンズベリー侯爵位と曽祖父の代に叙された爵位(クイーンズベリー伯爵位など)は、通常通り次男ジェイムズが継承している。しかし次男ジェイムズは子供を残さずに死去したので結局これらの爵位も三男チャールズが継承している<ref name="CP DQ" />。
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== 栄典 == |
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:(1682年2月11日の勅許状によるスコットランド貴族爵位) |
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[[1706年]][[6月17日]]に上記の継承爵位のうちクイーンズベリー侯爵位を除く父の代に叙された爵位(第2代の爵位)について次の特別継承権の規定が付け加えられた。まず殺人狂の次男{{仮リンク|ジェイムズ・ダグラス (第3代クイーンズベリー侯爵)|label=ジェイムズ・ダグラス|en|James Douglas, 3rd Marquess of Queensberry}}の継承権を否認し、三男 |
[[1706年]][[6月17日]]に上記の継承爵位のうちクイーンズベリー侯爵位を除く父の代に叙された爵位(第2代の爵位)について[[ノヴォダマス]]を行使し、次の特別継承権の規定が付け加えられた。まず殺人狂の次男{{仮リンク|ジェイムズ・ダグラス (第3代クイーンズベリー侯爵)|label=ジェイムズ・ダグラス|en|James Douglas, 3rd Marquess of Queensberry}}の継承権を否認し、三男[[チャールズ・ダグラス (第3代クイーンズベリー公爵)|チャールズ・ダグラス]]に継承させる旨の規定である。もう一つは爵位継承範囲を初代クイーンズベリー伯爵[[ウィリアム・ダグラス (初代クイーンズベリー伯爵)|ウィリアム・ダグラス]]に遡った男子もしくは女子の子孫に拡張させる規定である<ref name="CP DQ" />。
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[[1708年]][[5月26日]]に以下の爵位を新規に与えられる。いずれも三男チャールズに継承させる特別継承権が付けられている<ref name="CP DQ" /><ref name=dnb/>。 |
[[1708年]][[5月26日]]に以下の爵位を新規に与えられる。いずれも三男チャールズに継承させる特別継承権が付けられている<ref name="CP DQ" /><ref name=dnb/>。 |
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*長男'''ウィリアム・ダグラス''' (1696)、儀礼称号でドラムランリグ伯爵。夭折 |
*長男'''ウィリアム・ダグラス''' (1696)、儀礼称号でドラムランリグ伯爵。夭折 |
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*次男'''{{仮リンク|ジェイムズ・ダグラス (第3代クイーンズベリー侯爵)|label=ジェイムズ・ダグラス|en|James Douglas, 3rd Marquess of Queensberry}}''' (1697-1715)、第3代クイーンズベリー侯爵位を継承。人肉食の殺人者だったため、特別継承権で多くの爵位の継承権を除かれた
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*次男'''{{仮リンク|ジェイムズ・ダグラス (第3代クイーンズベリー侯爵)|label=ジェイムズ・ダグラス|en|James Douglas, 3rd Marquess of Queensberry}}''' (1697-1715)、第3代クイーンズベリー侯爵位を継承。人肉食の殺人者だったため、特別継承権で多くの爵位の継承権を除かれた
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*三男''' |
*三男'''[[チャールズ・ダグラス (第3代クイーンズベリー公爵)|チャールズ・ダグラス]]''' (1698-1778)、特別継承権により第3代クイーンズベリー公爵位を継承 |
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*四男'''ジョージ・ダグラス''' (1701-1725) |
*四男'''ジョージ・ダグラス''' (1701-1725) |
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*長女'''イザベラ・ダグラス''' (1688-1694) |
*長女'''イザベラ・ダグラス''' (1688-1694) |
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*{{Cite book|和書|author=浜林正夫|authorlink=浜林正夫|year=1983|title=イギリス名誉革命史 下巻|publisher=[[未来社]]|asin=B000J7GX1Y|ref=harv}} |
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*{{Cite book|和書|year=1987|title=英国の貴族 遅れてきた公爵||author=森護|authorlink=森護|publisher=[[大修館書店]]|isbn=978-4469240979|ref=harv}} |
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2023年5月18日 (木) 23:59時点における最新版
経歴[編集]
1662年12月18日、後に初代クイーンズベリー公爵に叙されるウィリアム・ダグラスとその妻イザベル(初代ダグラス侯爵ウィリアム・ダグラスの娘)の間の長男としてサンクアー城に生まれる[1][2][3]。 グラスゴー大学で学び、その後グランドツアーに出た[1]。1684年に帰国するとスコットランド枢密顧問官に任じられるとともに騎兵連隊に中佐として入隊した[1]。 早期からオラニエ公ウィレム︵ウィリアム3世︶を支持していたため、名誉革命後に栄進した[4]。彼は当時スコットランドで大きな勢力を持っていた四大貴族の一人であり︵他にハミルトン公爵ハミルトン家、アソル公爵マレー家、アーガイル公爵キャンベル家︶、ウィリアム3世としては彼の勢力を利用してスコットランドを統治しようとしていた[5]。 1692年からスコットランド大蔵卿委員会の委員の一人となり、1693年にはスコットランド議会に大蔵卿 (Lord High Treasurer) として出席した[1]。1695年3月には父の死によりスコットランド貴族爵位の第2代クイーンズベリー公爵位を継承[1]。同年スコットランド王璽尚書に就任した[1]。1700年にはスコットランド議会における国王代理に就任した[1]。また彼の派閥に属するジョン・ダルリンプルを国務大臣に据え、早期からイングランドとの連合を目指した[5]。 しかし1692年にはウィリアム3世が連合に抵抗する高地地方においてグレンコーの虐殺を引き起こしていたため、スコットランド議会は国王やイングランドに対する拒絶感が強かった。そのためクイーンズベリー公やダルリンプルら﹁宮廷派﹂はスコットランド議会で安定多数を得ることができなかった。1702年にクイーンズベリー公爵派がイングランドとの連合交渉に乗り出した際にも激しい反発を受けた[5]。 アン女王時代にも官職にとどまったが、スコットランド政界での孤立が深まり、1704年には前年に第11代ロバト卿サイモン・フレーザーらジャコバイトが企てた陰謀に加担したとされて免職された[6][5]。 しかし1705年に疑惑は晴れ、再びスコットランド王璽尚書に就任した[4]。1706年にはイングランドとスコットランドの連合推進委員に任命される[4]。連合法はスコットランド議会内において賛否が拮抗していたが、彼が議員の買収に励んで賛成派を増やしたことで1707年に成立にこぎつけた[7]。そのため﹁連合公爵(Union Duke)﹂とあだ名されるようになった[4]。 1708年5月にグレートブリテン貴族爵位のドーヴァー公爵に叙せられた[2][1]。1709年にはスコットランド担当大臣に就任する[4]。 1711年7月6日に死去した[1]。 次男ジェイムズ・ダグラスが生存している男子の最年長者だったが、この次男は精神障害者で人肉を食らう殺人者だった[8][9][10]。そのため爵位に特別継承権の規定が付け加えられており(後述)、クイーンズベリー侯爵位を除く彼と彼の父の代に叙された爵位(クイーンズベリー公爵位やドーヴァー公爵位など)は、三男チャールズ・ダグラスに継承された。一方クイーンズベリー侯爵位と曽祖父の代に叙された爵位(クイーンズベリー伯爵位など)は、通常通り次男ジェイムズが継承している。しかし次男ジェイムズは子供を残さずに死去したので結局これらの爵位も三男チャールズが継承している[2]。栄典[編集]
爵位[編集]
1695年の父の死により以下の爵位を継承した[1]。 ●第2代クイーンズベリー公爵 (2nd Duke of Queensberry) (1684年2月3日の勅許状によるスコットランド貴族爵位) ●第2代クイーンズベリー侯爵 (2nd Marquess of Queensberry) (1682年2月11日の勅許状によるスコットランド貴族爵位) ●第2代ダンフリーズシャー侯爵 (2nd Marquess of Dumfriesshire) (1684年2月3日の勅許状によるスコットランド貴族爵位) ●第4代クイーンズベリー伯爵 (4th Earl of Queensberry) (1633年6月13日の勅許状によるスコットランド貴族爵位) ●第2代ドラムランリグ=サンクアー伯爵 (2nd Earl of Drumlanrig and Sanquhar) (1682年2月11日の勅許状によるスコットランド貴族爵位) ●第4代ドラムランリグ子爵 (4th Viscount of Drumlanrig) (1628年4月1日の勅許状によるスコットランド貴族爵位) ●第2代ニス=トーソルウォルド=ロス子爵 (2nd Viscount Nith, Torthorwald and Ross) (1682年2月11日の勅許状によるスコットランド貴族爵位) ●ホーイック=ティバーズの第4代ダグラス卿 (4th Lord Douglas of Hawick and Tibbers) (1628年4月1日の勅許状によるスコットランド貴族爵位) ●キルモント=ミドルビー=ドーノックの第2代ダグラス卿 (2nd Lord Douglas of Kilmount, Middlebie and Dornock) (1682年2月11日の勅許状によるスコットランド貴族爵位) 1706年6月17日に上記の継承爵位のうちクイーンズベリー侯爵位を除く父の代に叙された爵位(第2代の爵位)についてノヴォダマスを行使し、次の特別継承権の規定が付け加えられた。まず殺人狂の次男ジェイムズ・ダグラスの継承権を否認し、三男チャールズ・ダグラスに継承させる旨の規定である。もう一つは爵位継承範囲を初代クイーンズベリー伯爵ウィリアム・ダグラスに遡った男子もしくは女子の子孫に拡張させる規定である[2]。 1708年5月26日に以下の爵位を新規に与えられる。いずれも三男チャールズに継承させる特別継承権が付けられている[2][1]。 ●初代ドーヴァー公爵 (1st Duke of Dover) (勅許状によるグレートブリテン貴族爵位) ●初代ビバリー侯爵 (1st Marquess of Beverley) (勅許状によるグレートブリテン貴族爵位) ●初代リポン男爵 (1st Baron Ripon) (勅許状によるグレートブリテン貴族爵位)家族[編集]
1685年に第3代ダンガーヴァン子爵チャールズ・ボイルの娘メアリー・ボイルと結婚。彼女との間に以下の4男5女を儲ける[1][2]。脚注[編集]
注釈[編集]
出典[編集]
参考文献[編集]
●松村赳、富田虎男﹃英米史辞典﹄研究社、2000年。ISBN 978-4767430478。 ●浜林正夫﹃イギリス名誉革命史 下巻﹄未来社、1983年。ASIN B000J7GX1Y。 ●森護﹃英国の貴族 遅れてきた公爵﹄大修館書店、1987年。ISBN 978-4469240979。軍職 | ||
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先代 第4代リンリスゴー伯爵 |
スコットランド第4近衛騎兵中隊 名誉隊長 1688年–1696年 |
次代 初代アーガイル公爵 |
公職 | ||
先代 初代メルヴィル伯爵 |
スコットランド王璽尚書 1695年–1702年 |
次代 初代アソル公爵 |
先代 初代ハインドフォード伯爵 第4代シーフィールド伯爵 |
スコットランド国王秘書長官 1702年–1704年 共同就任者 ジョージ・マッケンジー |
次代 第5代ロックスバラ伯爵 第4代シーフィールド伯爵 |
先代 初代アソル公爵 |
スコットランド王璽尚書 1705年–1709年 |
次代 初代モントローズ公爵 |
先代 第23代マー伯爵 |
スコットランド担当大臣 1709年–1711年 |
次代 第23代マー伯爵 |
スコットランド王国議会 | ||
先代 タリバーディン伯爵 |
スコットランド議会国王代理 1700年–1703年 |
次代 第2代トウィーデール侯爵 |
先代 第2代アーガイル公爵 |
スコットランド議会国王代理 1707年 |
次代 連合法制定で廃止 |
スコットランドの爵位 | ||
先代 ウィリアム・ダグラス |
第2代クイーンズベリー公爵 1695年–1711年 |
次代 チャールズ・ダグラス |
第2代クイーンズベリー侯爵 1695年–1711年 |
次代 ジェイムズ・ダグラス | |
グレートブリテンの爵位 | ||
爵位創設 | 初代ドーヴァー公爵 1708年–1711年 |
次代 チャールズ・ダグラス |