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セントヘレナ(Saint Helena) はアフリカ西岸より2800km洋上に位置する南大西洋の島で、イギリス領に属する。行政区画としてはアスンシオン、トリスタン・ダ・クーニャなど、大西洋上の他の島を含む。首都はジェームズタウン。タイムゾーンは UTC +0 である。
スエズ運河建設まで、インド洋へ通じる戦略的要地として重要であり、主に給水地として使用された。
絶海の孤島であるため流刑地として使用され、ナポレオン1世の流刑地として著名である。このことは現在、島の観光経済に大きく寄与している。またボーア戦争後にもボーア側首脳の流刑地として使用された。
現在の人口は少なく、経済は生産性の低いモノカルチャー︵単一作物生産︶経済であり、主にロンドンからの移入物質によって島民の生活は支えられている。島は小さく、また現代経済における重要性が小さいことから、島民にはイギリス政府が島を軽視しているとの不満が絶えない。
歴史
セントヘレナがヨーロッパ人に知られたのは1502年、ポルトガル人の来航に始まる。島名はコンスタンティヌス1世の母、聖へレナにちなんで名づけられたもの。当時、島に住民はなく、ポルトガル人は生活物資を運び込んで航海のための拠点とした。歴史に残る最初の定住者はポルトガル人フェルナンド・ロペスである。1584年には二人の日本人が島に来航した記録がある。セントヘレナに来航した最初のイングランド人はトーマス・キャベンディッシュである。島は1645年ごろ、オランダ人によって占拠され、ポルトガルは領有権の主張を放棄するに至った。オランダ人による占拠は1951年、オランダがアフリカ南端のケープタウンに入植する前年まで続いた。
イギリス東インド会社は、オランダ人がセントヘレナ島から出た直後から同島を保持、1661年の特許状により島を保有するに至った。東インド会社によって1658年建設された砦が現在の首都ジェームズタウンである。この名は当時の王弟ヨーク公︵のちのジェームズ2世)にちなんで名づけられた。当時の住民のほぼ半分はアフリカからの黒人奴隷であった。1810年以降は、東インド会社による広東貿易の寄港地として使用されるようになる。ナポレオン1世がエルバ島脱出ののちワーテルローで敗れると、ウィーン会議によりその流刑地として選ばれた。ナポレオンは1815年10月にセントヘレナに到着し、1821年5月に死亡するまで島中央のロングウッドに暮らした。のち、1833年に発布された法律により王領直轄地となるまで、1834年4月22日までセントヘレナは東インド会社の所有地であった。
1870年代半ばまで、大西洋とインド洋を結ぶ航海の要地として繁栄したが、スエズ運河開通(1869年)以降は交通量が激減した。しかしなお多くの船がセントヘレナに寄航を余儀なくされた。第2ボーア戦争の間(1899年-1902年)には、数千人のボーア側捕虜の収容所となった。