- ポルトガル共和国
- República Portuguesa
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- 国の標語:なし
- 国歌:A Portuguesa(ポルトガル語)
ポルトガルの歌
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- ^ a b “UNdata”. 国連. 2021年10月11日閲覧。
- ^ a b c d e IMF Data and Statistics 2021年10月15日閲覧([1])
ポルトガル共和国︵ポルトガルきょうわこく、ポルトガル語: República Portuguesa︶、通称ポルトガルは、南ヨーロッパのイベリア半島に位置する共和制国家。首都はリスボン。ユーラシア大陸最西端の国である。北と東にスペインと国境を接し、国境線の総延長は1,214kmに及ぶ。西と南は大西洋に面している。ヨーロッパ大陸部以外にも、大西洋上にアゾレス諸島とマデイラ諸島を領有している。
正式名称はポルトガル語で、República Portuguesa︵[ʁɛˈpuβlikɐ puɾtuˈɣezɐ] レプーブリカ・プルトゥゲザ︶。通称、Portugal ︵[puɾtuˈɣaɫ] プルトゥガル︶。
日本語の表記は、ポルトガル共和国。通称 ポルトガル 。
漢字表記は葡萄牙で、 葡と略される。これは広東語の発音︵Pou4tou4nga4≒ポウトウガー︶による漢字表記に由来し、19世紀の中国南部で生まれ、日本を含む周辺国に伝わった表記である。それまでは﹁波爾杜瓦爾﹂﹁保留止賀留﹂﹁蒲麗都家﹂などの多くの表記もあったが、幕末期より日本でも葡萄牙の漢字表記が優勢となっている。
英語表記はPortugal、国民・形容詞はPortuguese。
国名の由来は、ポルトのラテン語名である﹁Portus Cale︵ポルトゥス・カレ、﹁カレの港﹂の意︶が転訛したものとされている。
先史時代とローマ化[編集]
大統領を元首とする立憲共和制国家であり、20世紀においては第二次世界大戦前からの独裁制が長く続いたが、1974年4月25日のカーネーション革命︵無血革命︶により、48年間の独裁体制が崩壊した。
一時は主要産業の国有化など左傾化したものの、1976年4月2日に新憲法が発布された。同年4月25日に自由な選挙が行われた。社会党、人民民主党︵10月、社会民主党に改称︶、民主社会中央党が躍進した。1976年のマリオ・ソアレス政権成立から1986年のEC加盟までの10年間は、急進路線による経済のひずみを是正するための期間であった。
憲法の制定により民主主義が定着し、さらに1979年の保守中道政権樹立以降、行き過ぎた社会主義を修正している。さらに、1983年に社会党・社会民主党の連立政権樹立以降、両党を中心とする二大政党制となっている。社会党のソアレスは、1986年2月の大統領選挙でからくも勝利し、1991年1月に大差で再選された。他方、1987年と1991年10月の総選挙ではアニーバル・カヴァコ・シルヴァ率いる社会民主党が過半数を制して圧勝し、ともに中道ながら左派の大統領と右派の首相が並び立つことになった。1989年6月には憲法が全面的に改正され、社会主義の理念の条項の多くが削除された。1995年10月、10年ぶりに社会党が第1党に返り咲き、翌1996年1月、社会党のジョルジェ・サンパイオが大統領に選出された。
統治機構[編集]
半大統領制を採用している。政府は直接普通選挙で選出される任期5年の大統領︵1回に限り再選が認められている︶、議会の勢力状況を考慮して大統領が任命する首相が率いる行政府、任期4年の230人の議員で構成された一院制の共和国議会からなる立法府、および国家最高裁判所を頂点とする司法府により構成されている。
大統領は首相の任命・解任、法律・条約への署名・拒否、議会の解散・総選挙の決定、軍最高司令官、非常事態宣言の発出などの権限を有する。行政権限の一部は、議会で多数の議席を持つ政党から選ばれる首相が掌握している。
国際関係[編集]
NATO、OECD、EFTAの原加盟国であり、独裁政権崩壊後の1986年にはECに加盟した。現在はEU加盟国であり、EUは現在のポルトガルにとってもっとも重要な政治的交渉主体である。ヨーロッパとの関係では伝統的にイギリスとの関係が深く、現在も1373年に締結された英葡永久同盟条約が効力を保っている。
旧植民地のブラジルとは特に関係が深く、ブラジルとは文化的、経済的、政治的な関係を強く保っている。
EUとブラジル以外ではアンゴラやモザンビークなどの旧植民地諸国と関係が深く、1996年にはポルトガル語諸国共同体︵CPLP︶を加盟国と共同で設立した。ポルトガルは1990年代からCPLP加盟国のアンゴラやモザンビークなどのルゾフォニア諸国にポルトガル語教師の派遣を行っており、東ティモールの独立後にも同国にさまざまな援助︵特にポルトガル語教師の派遣︶を行っている。
2004年時点でポルトガルは国内外で国際武力紛争を抱えていないが、1801年以来隣国であるスペインが実効支配しているオリベンサの領有権を主張しているため、同国と対立している。しかし、一般的にはEU加盟後の国境開放もあって、隣国であり文化、価値観、言語の類似性を共有するスペインとの関係はおおむね良好である。同時にスペインとの間には両国を統一すべきであるとのイベリズモ思想も存在する。
日本との関係[編集]
16世紀のポルトガルにおいて中国人奴隷︵人種的な区別の文脈であるため日本人奴隷も含む︶の数は﹁わずかなもの﹂であり、東インド人、改宗イスラム教徒、アフリカ人奴隷の方が圧倒的に多かった[10]。ポルトガルの奴隷貿易については、歴史家の岡本良知は1555年をポルトガル商人が日本から奴隷を売買したことを直接示す最初の記述とし、これがイエズス会による抗議へと繋がり1571年のセバスティアン1世 (ポルトガル王) による日本人奴隷貿易禁止の勅許につながったとした。岡本はイエズス会はそれまで奴隷貿易を廃止するために成功しなかったが、あらゆる努力をしたためその責めを免れるとしている[11]。
ポルトガル人が日本に来て以降、16〜17世紀にかけて日本人を奴隷として買い付け、ポルトガル本国を含む海外の様々な場所で売りつけ、大規模な奴隷交易へと発展した[12]。龍谷大学の教授であった池本幸三によると、天正10年︵1582年︶、ローマに派遣された天正遣欧少年使節団は、アフリカのモザンビークや欧州など世界各地で多数の日本人が奴隷の境遇に置かれている事実を目撃し、衝撃を受け、豊臣秀吉の言を伝える﹃九州御動座記﹄には、﹁伴天連︵キリシタン︶どもは、諸宗を自分達のキリスト教に引き入れ、それのみならず男女数百の日本人を黒舟へ買い取り、手足に鉄の鎖を付けて舟底へ追い入れ、地獄の苦しみ以上に、生きながらに皮をはぎ、あたかも畜生道の有様である﹂との記述があるとした[13]。同座記には、当時の日本人奴隷の境遇が記録されているが、黒人奴隷と同等の過酷なものであった[13]。21世紀に入っても、ポルトガル人の約31%が子供がアジア人︵日本人を含む︶を愛するようになると不快に感じると報告している[14]。[信頼性要検証]
龍谷大学の池本幸三が引用した﹃デ・サンデ天正遣欧使節記﹄や﹃九州御動座記﹄は歴史学の資料としては問題が指摘されている。﹃デ・サンデ天正遣欧使節記﹄は日本に帰国前の少年使節と日本にいた従兄弟の対話録として著述されており、両者の対話が不可能なことから、フィクションとされている[15]。﹃デ・サンデ天正遣欧使節記﹄は宣教師の視点から日本人の同国人を売るなどの道徳の退廃、それを買うポルトガル商人を批判するための対話で構成されている。デ・サンデ天正遣欧使節記では、同国民を売ろうとする日本の文化・宗教の道徳的退廃に対して批判が行われている[16]。またポルトガル国王による奴隷売買禁止の勅令後も、人目を忍んで奴隷の強引な売り込みが日本人の奴隷商人から行われたとしている[16]。デ・サンデ天正遣欧使節記は、日本に帰国前の千々石ミゲルと日本にいた従兄弟の対話録として著述されており[16]、物理的に接触が不可能な両者の対話を歴史的な史実と見ることはできず、フィクションとして捉えられてきた[15]。
豊臣秀吉の功績を喧伝する御伽衆に所属した大村由己の執筆した﹃九州御動座記﹄は追放令発令︵天正15年6月︶後の天正15年7月に書かれており、キリスト教と激しく対立した仏教の元僧侶の観点からバテレン追放令を正当化するために著述されており以下のような記述がある。
牛馬をかい取、生なから皮をはぎ坊主も弟子も手つから食し親子・兄弟も無礼儀上䣍今世より畜生道有様目前の二相聞候。
ポルトガル人が牛や馬を買い、生きたまま皮を剥いで素手で食べるとの記述については、ヨーロッパ人が化物だと決め付けることは東アジアでは一般的であり[17]、実際に目撃したものを著述したとは考えられない。宣教師に対する罵詈雑言や噂、作り話をもとにした虚構であるとの指摘がなされている[18]。宣教師に対する誹謗中傷の中でも顕著なものに、人肉を食すというものがある[19]。フェルナン・ゲレイロの書いた﹁イエズス会年報集﹂には宣教師に対する執拗な嫌がらせが記録されている。
司祭たちの門口に、夜間、死体を投げこみ、彼らは人肉を食うのだと無知な人たちに思いこませ、彼らを憎悪し嫌悪させようとした[20]
さらに子どもを食べるために宣教師が来航し、妖術を使うために目玉を抜き取っているとの噂が立てられていた[21]。仏教説話集﹃沙石集﹄には生き肝を薬とする説話があり仏教徒には馴染みのある説といえ、ルイス・デ・アルメイダなどによる西洋医療に対する悪口雑言ともとれるが、仏僧である大村由己が執筆した﹃九州御動座記﹄にある宣教師が牛馬を生きたまま皮を剥いで素手で食べるとの噂とも共通するものがある。
日本におけるポルトガルの奴隷貿易を問題視していた宣教師はポルトガル商人による奴隷の購入を妨げるための必要な権限を持たなかったため、永代人身売買をやめさせて年季奉公人とするように人道的な働きかけが行われた[23]。一部の宣教師は人道的観点から隷属年数を定めた許可証に署名をして、より大きな悪である期間の定めのない奴隷の購入を阻止して日本人の待遇が永代人身売買から年季奉公に改善するよう介入したとされている。マテウス・デ・クウロスなどの宣教師らによって、こうした人道的介入が誤りであったとの批判が行われ、1598年以降、ポルトガル商人の奴隷︵または年季奉公人︶購入への宣教師の人道的介入は禁じられた[24]。
中世日本では人身永代売買が広く行われており、年季奉公が一般的になったのは江戸幕府以降だが、ポルトガル人が日本で購入した奴隷の中には、数年で契約期間が終了する年季奉公人が記録されている[26]。日本人の年季奉公制度︵期限奴隷制度︶では、マカオへの渡航のみを希望したり、ポルトガル人に雇われることができず、自らを売った者などがいたという[27]。マカオに上陸するなり、明の管轄する領土に移動して労働契約を一方的に破棄する日本人の年季奉公人が続出した[28]。この結果、多くのポルトガル人は以前と同じ量の日本人奴隷を買わなくなったという[27]。自らの意志で奴隷になろうとした者の背景としては、軍資金を求めて領主が要求した増税は、領民の貧困化を招き、多くの日本人が奴隷制を生き残るための代替戦略として捉えていたことがある[29]。中世の日本社会では、百姓は納税が間に合わない場合に備えて、自分や他人を保証人として差し出すことができたという。税金を払わない場合、これらの保証は売却される可能性があり、農民と奴隷の区別をいっそう困難にしていた[30]。
龍谷大学の教授であった池本幸三の主張によると日本人の奴隷は黒人奴隷との境遇と同じであったしているが、黒人奴隷の生活は、多くの点で白人の下層階級の生活と似ていた。白人と同じ服装、食事、仕事をし、同じ言葉を話し始め、ファーストネームで呼び合うなど、ほとんどの奴隷は自分たちの状況に納得していたようである。しかし彼らは同じ法律、宗教、道徳の規範に従うことを期待されていた[31]。奴隷の所有者は取得から6ヶ月後に洗礼を受けさせる義務があったが、10歳以上の奴隷︵年季奉公人を含む︶は洗礼を拒否することができた。洗礼は社会的包摂の一形態であり、洗礼をうけることでポルトガル王室と教会法の管轄に服し保護をうけることができた[32][33]。
ポルトガルでは残酷な行為は非常にまれであり、全体として公平に扱われていた。そのため、黒人奴隷が主人のもとから逃げ出すことはほとんどなかったと考えられている。ポルトガルにおける奴隷制度は、同化のしやすさや衣食住を含めた公平な待遇をうけ、また多くの黒人奴隷は、長年の忠実な奉仕と引き換えに自由を手に入れることができたが、外部からの雇用で得た賃金の一部で自由を購入する法的権利を行使することが一般的であった[34]。
ポルトガルの奴隷制度では、奴隷は時には粗末に扱われることもあったが、ほとんどの場合、奴隷は公平に扱われ、多くの場合、自由民よりも良い扱いを受けていた。奴隷はカトリックに改宗し、言葉を覚え、クリスチャン・ネームを名乗ることによって、すぐにポルトガル社会の一員となった[35]。ポルトガルには多くの黒人奴隷がいたが、彼らの経済的役割は非常に小さく、反社会的団体に組織されてプランテーションで働くということはほとんどなかった[35]。最新の研究ではアジア人の奴隷は南米のプランテーションで働く黒人奴隷に比べて、より穏やかな家事奴隷として見直す動きがある[36][37]。
マカオではほとんどの奴隷はアフリカ出身であり、アジア出身の奴隷も少数いたとされる[38][39]。
国家安全保障[編集]
ポルトガルの軍隊は、正式にはポルトガル国軍︵Forças Armadas Portuguesas、FAP︶と呼ばれる。2005年時点で、陸軍2万2,400人、海軍1万4,104人、空軍8,900人。ほかに国家憲兵としてポルトガル共和国国家警備隊︵Guarda Nacional Republicana、GNR︶6個旅団︵儀仗任務、地方警察、交通警察、税関を担当︶を擁している。
2004年11月に徴兵制が廃止され、志願兵制度が導入された。
アイスランドに次いで、ヨーロッパ諸国の中でもっとも西に位置する。イベリア半島西端に位置し、国土は南北に長い長方形をしている。本土以外に、大西洋上のアソーレス諸島、マデイラ諸島も領土に含まれる。いずれも火山島である。アソーレス諸島は7つの主要な島からなり、首都リスボンからほぼ真西に1,500キロ離れている。マデイラ諸島は4つの主要な島からなり、南西に900キロ離れている。
ポルトガルの最高峰は、アソーレス諸島のピコ島にそびえるピコ山 ︵Montanha do Pico︶ 。標高は2,351メートル。富士山などと同じ成層火山である。本土の最高地点は北部に位置するエストレーラ山脈中のトーレの標高1,991メートル。エストレーラとは星を意味する。
東部は山岳であり、西部に海岸平野が広がっている。ほとんどの山脈が北東から南西に向かって走っており、北部ほど海岸平野が少なく、ポルトガル唯一の国立公園であるペネダ・ジェレス国立公園︵英語版︶[40]も北部山地にある。主要河川であるテージョ川が国のほぼ中央部を東西に流れており、テージョ川を境として南北に山脈の景観が変わる。首都リスボンはテージョ川に河口部分で面し、最大の海岸平野の端に位置している。南部に向かうにつれて山脈はなだらかになり、丘陵と見分けがつかなくなっていく。北部のポルトには同国第2の河川であるドウロ川が流れている。このような地形であるため、規模の大きな湖沼は存在しない。全水面積を合計しても440km2にとどまる。また、沿岸部にはポルトガル海流が南西に流れている。
本土は北大西洋に面しているものの、ケッペンの気候区分では、地中海性気候︵Cs︶に属する。地域差は大きく、季節の変化も著しい。大西洋岸には寒流のカナリア海流が北から南に流れており、緯度のわりに気温は低く寒暖の差が小さい。夏は涼しく、冬は降雪を含み、雨が多い。年間降水量は1,200 - 1,500ミリである。中部の冬期は北部と似ているが、夏期の気温が上がる。年間降水量は500 - 700ミリである。南部は典型的な地中海性気候で、夏季の雨量が少なく年間降水量は500ミリを下回る。ほとんどの地域で、夏季の気温は20度を超え、冬季は10度まで下がる。
首都リスボン︵北緯38度46分︶の気候は、年平均気温が21℃、1月の平均気温が11.2℃、7月は22.8℃。年降水量は706ミリである。冬季の雨量は100ミリ程度だが、夏季は数ミリにとどまる。
地方行政区分[編集]
ポルトガルには、現在308都市4,261地区が存在する。その地域区分は、共和国憲法で定められているものと、欧州連合によるものが採用されている。
主要都市[編集]
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都市
|
人口
|
|
都市
|
人口
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1
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リスボン
|
564,657
|
11
|
ケルス
|
78,040
|
2
|
ポルト
|
263,131
|
12
|
アヴェイロ
|
55,291
|
3
|
ヴィラ・ノヴァ・デ・ガイア
|
178,255
|
13
|
ギマランイス
|
52,181
|
4
|
アマドーラ
|
175,872
|
14
|
オディヴェラス
|
50,846
|
5
|
ブラガ
|
109,460
|
15
|
リオ・ティント
|
47,695
|
6
|
アルマーダ
|
101,500
|
16
|
ヴィゼウ
|
47,250
|
7
|
コインブラ
|
101,069
|
17
|
ポンタ・デルガダ
|
46,102
|
8
|
フンシャル
|
100,526
|
18
|
マトジーニョス
|
45,703
|
9
|
セトゥーバル
|
89,303
|
19
|
アモーラ
|
44,515
|
10
|
アグアルヴァ=カセーン
|
81,845
|
20
|
レイリア
|
42,745
|
2004年調査
|
2000年時点の都市人口率は53%と、ヨーロッパ諸国としては例外的に低いため、大都市が少ない。多くのヨーロッパ諸国の都市人口率は70% - 90%(たとえば、イギリス89%、スペイン76%)である。ヨーロッパにおいて、ポルトガル以外に都市人口率が低いのは、アルバニアやセルビア、スロベニアなどのバルカン諸国である。
2020年には、購買力平価に基づくポルトガルの1人当たりの実質GNI︵国民総所得︶は33,980ドルになる。 この結果は、ポルトガルの非常に低い物価を考慮しても、ポルトガルの一人当たりの収入は日本よりも低いことを意味する[41]。2013年のポルトガルのGDPは約2,199億ドルであり[42]、日本の埼玉県よりやや大きい経済規模である[43]。同年の1人あたりの名目GDPは2万727ドルで世界平均の約2倍だが、EU加盟国の中では平均を下回る。
1975年に植民地を一度に失ったため、石油を中心とする原料の安価な調達ができなくなり、アンゴラやモザンビークから大量の入植者が本国に引き上げたことも重なって、経済は大混乱に陥った。
1986年のヨーロッパ共同体 ︵EC︶ 加盟以来、ポルトガル政府は金融・情報通信の分野を中心に国営企業の民営化を進め、経済構造はサービス産業型に転換しつつある。1999年1月にユーロ導入。2002年1月1日からEU共通通貨ユーロが流通している。2000年以降、GDP成長率が1%を割り始めた。1人あたり国民所得は加盟国平均の70%程度に止まる。
主要産業は農業、水産業、食品・繊維工業、観光。地中海性気候を生かし、オリーブ、小麦、ワイン、コルクの生産が盛んである。オリーブ油の生産高は世界7位で、ワインの生産は第10位。第一次産業人口比率は12.6%。土地利用率は、農地 ︵31%︶ と牧場 ︵10.8%︶で、森林 ︵36%︶ も多い。また、エネルギー分野では代替エネルギーに力を入れている。電力消費の約40%は代替エネルギーでまかなわれており︵2007年時点︶、政府は2010年までに代替エネルギー比率を45%にする目標を掲げている[44]。また、波力発電のトップランナーを目指し研究を重ねている[44]。
鉱業資源には恵まれていないが、鉄、銅、錫、銀などを産する。特筆すべきは世界第5位のタングステン鉱であり、2002年時点で700トンを産出した。おもな鉱山はパナスケイラ鉱山。食品工業、繊維工業などが盛んである。
2002年時点では輸出255億ドルに対し、輸入は383億ドルと貿易赤字が続いており、出稼ぎによる外貨獲得に頼っている。貿易形態は、自動車、機械などの加工貿易である。おもな輸出品目は、自動車 ︵16%︶、電気機械 ︵12%︶、衣類 ︵11%︶で、おもな相手国は、スペイン︵21%︶、ドイツ︵18%︶、フランス︵13%︶。おもな輸入品目は、自動車 ︵13%︶、機械 ︵10%︶、原油 ︵5%︶で、おもな相手国は、スペイン︵29%︶、ドイツ︵15%︶、フランス︵10%︶。
2002年時点では、日本への輸出が1.7億ドル。おもな品目は衣類︵15%︶、コンピュータ部品︵15%︶、コルク︵11%︶。日本が輸入するコルクの3分の2はポルトガル産である。タングステンの輸入元としてはロシアに次いで2位で、輸入が6.5億ドル。おもな品目は乗用車 ︵20%︶、トラック ︵10%︶、自動車部品 ︵8%︶である。
2012年になっても経済は復興せず、ポルトガル人の中には、母国の経済的苦境から逃れるためにモザンビークなど旧植民地に移民する動きがある[45]。
国内交通の中心は道路であり、リスボンとポルトを中心とした高速道路網が整備されている。原則として有料である︵一部無料︶。
おもな高速道路は以下のとおり。
●A1 リスボン - ポルト
●A2 アルマダ - アルガルヴェ地方 リスボン市へはテージョ川を4月25日橋で渡る。
●A3 ポルト - スペイン・ガリシア地方国境方面
●A4 ポルト - アマランテ
●A5 リスボン - カスカイス
●A6 マラテカ - スペイン・バダホス国境方面 国境にてマドリッド方面のA-5に接続。
リスボン、ポルト、ファロがおもな国際空港。またこれらの空港から、マデイラ諸島やアソーレス諸島などの離島への路線も出ている。
言語はインド・ヨーロッパ語族ロマンス語系のポルトガル語(イベリアポルトガル語)[注釈 8]が公用語である。
1999年ブラガンサ県のミランダ・ド・ドウロで話されているミランダ語が同地域の公用語として認められた。
また、ポルトガルの北に位置するスペインのガリシア地方の言語ガリシア語はポルトガル語とは非常に近く、特にドウロ川以北のポルトガル語とは音韻的にも共通点が多い。
宗教はローマ・カトリックが国民の97%を占める。ファティマはマリア出現の地として世界的に有名な巡礼地となった。
婚姻の際には、自己の姓を用い続ける︵夫婦別姓︶、あるいは、相手の姓を自己の姓に前置もしくは後置することを選択することが可能である。1977年の法改正で別姓を選択できるようになった[46]。2011年の時点では、既婚女性の60%が婚前の姓をそのまま用いている[47][48]。また、2010年からは、同性同士の婚姻︵同性婚︶が認められるようになった[49][50]。
6歳から15歳までが基礎教育︵義務教育︶期間であり、6歳から10歳までが初等学校︵初等教育。基礎教育第一期︶、10歳から11歳まで︵基礎教育第二期︶、12歳から15歳︵基礎教育第三期︶までが二期に分けられる準備学校︵前期中等教育︶となっている。前期中等教育を終えると15歳から18歳までが中等学校︵後期中等教育。日本における高等学校に相当︶であり、後期中等教育は普通コース、技術・職業教育コース、職業教育コース、芸術教育専門コースなどにコースが分かれ、中等学校を終えると高等教育への道が開ける。ポルトガルの初等教育から中等教育にかけての問題としては、留年率の高さなどが挙げられる。
おもな高等教育機関としてはコインブラ大学︵1290年︶、リスボン大学︵1911年︶、ポルト大学︵1911年︶、リスボン工科大学︵1930年︶、ポルトガル・カトリカ大学︵1966年︶などが挙げられる。大学は1974年のカーネーション革命以降急速に新設が進み、それに伴い学生数も増加した。
2003年の推計によれば、15歳以上の国民の識字率は93.3%︵男性95.5%、女性91.3%︶であり[51]、ヨーロッパ諸国の中ではマルタに次いでセルビア・モンテネグロと並ぶ低さだった。なお、第一次世界大戦直前の識字率は約25%だった。
ポルトガルの治安は欧州諸国の中では比較的良い方だが、2022年世界平和度指数の﹁安全・セキュリティ﹂部門そのものは韓国より下位に位置している[52]。最近はリスボンやポルトなどの大都市を中心にスリ、置き引き、ひったくりといった一般犯罪が増加傾向にある。
同国政府が発表した2018年の犯罪認知件数は333,223件で、前年より2.6%減少しているが、この内 殺人や強盗ならび放火などの凶悪犯罪認知件数は13,981件で前年より8.6%減少しており、2008年以降最も低い水準となっている。
認知件数の多い犯罪は、車上狙い︵平均65/日︶、暴行︵平均63件/日︶、飲酒運転︵平均50件/日︶、置き引き︵平均34件/日︶、スリ︵平均34件/日︶の順となっている。車上狙いは前年より5.1%増加しており、スリや置き引きなど観光客を狙った犯罪も後を絶たない[53]。
人権・差別[編集]
欧州委員会の2019年5月の調査によると、ポルトガルは日本人を含むアジア人に対する差別が欧州連合平均より高いことが判明した[54]。
マスコミ[編集]
食文化[編集]
ポルトガルの音楽は、宮廷吟遊詩人や、カトリック教会の音楽の影響を受けて育まれてきた。クラシック音楽においては、19世紀末から20世紀初頭にかけての文化ナショナリズムの高揚からポルトガル的な作品の創作が進められ、ポルトガルの民衆音楽を題材にした交響曲『祖国』を残したジョゼ・ヴィアナ・ダ・モッタや、交響曲『カモンイス』のルイ・コエーリョ、古代ルシタニ族の英雄ヴィリアトゥスを題材にしたオラトリオ『葬送』のルイス・デ・フレイタス・ブランコなどの名が特筆される。
ポルトガル発のポピュラー音楽(いわゆる民族音楽、ワールドミュージック)としては、特にファド(Fado)が挙げられ、このファドを世界中で有名にしたアマリア・ロドリゲス(1920 - 1999)は今でも国内外で広く愛されているが、近年ではドゥルス・ポンテスやマリーザなど、若手の台頭も著しい。ファドにはリスボン・ファドとコインブラ・ファドがある。そのほかにも現代の有名なミュージシャンには、1960年代に活躍し、カーネーション革命の際に反戦歌『グランドラ、ビラ・モレーナ』が用いられたポルトガル・フォーク歌手ジョゼ・アフォンソの名が挙げられる。なお、日本でもCM曲として使われたことで有名になったマドレデウスの音楽はファドとは呼びがたいが(アコーディオンは通常ファドでは使われない)、彼らの音楽も非常にポルトガル的であることは間違いない。
近年は、アンゴラからもたらされたキゾンバやクドゥーロのような音楽も人気を博し、ポルトガルからもブラカ・ソン・システマのようなクドゥーロを演奏するバンドが生まれている。
また、ポルトガルは近来、デス、ブラック、シンフォニックメタルなどのゴシック要素の強いダーク系ヘヴィメタルの良質なバンドを輩出している。ゴシックメタルバンド、MOONSPELLはポルトガルのメタルシーンを世界に知らしめた。今や世界のメタルシーンのトップバンドとなったMOONSPELLは、ヘヴィメタルとゴシック系の両方のシーンから絶大な支持を得ている。
ポルトガルに映画が伝えられたのは1896年6月で、リスボンでヨーロッパから持ち込まれた映写機の実演にはじまる。その5か月後にはポルトでアウレリオ・ダ・バス・ドス・レイスが自作映画を上映した。ポルトはポルトガル映画の中心地となり、1931年にはマノエル・デ・オリヴェイラによって『ドウロ川』が制作された。オリヴェイラはネオレアリズモの先駆的作品となった『アニキ・ボボ』(1942)などを撮影したのち西ドイツに渡り、1950年代にポルトガルに帰ってから『画家と町』(1956)などを撮影した。1960年代に入ると、フランスのヌーヴェルヴァーグとイタリアのネオレアリズモに影響を受けてノヴォ・シネマ運動がはじまり、『青い年』のパウロ・ローシャや、ジョアン・セーザル・モンテイロらが活躍した。
現代の映像作家としては『ヴァンダの部屋』(2000)のペドロ・コスタの名が挙げられる。
ポルトガルは建築の歴史が長い国の一つに数えられている。その起源は新石器時代に遡ることができ、巨石文化に関連するものが遺されている。
紀元前2世紀にはイベリア半島のヒスパニアでローマ帝国の襲来による古代ローマ人の到来と共に古代ローマ文化が齎され、文明が著しく発展して行った。これにより征服された同国地域の集落や村は、ローマ形式に従って近代化されることが多く、広場や道路をはじめ劇場や寺院、大浴場、水道橋、その他の公共の施設がローマ建築の影響を受けた形で建築されていた。やがて5世紀に始まったゲルマン人(特にスエビ族と西ゴート族)による侵略により、ローマ文化からロマネスクへの転換が図られていった。その後、711年にマグレブからのムーア人によるイベリア半島の侵略で西ゴート族のポルトガル地域支配に終止符が打たれ、ムーア人の文化はポルトガル地域南部の芸術と建築に強い影響を与えることとなった。
以降もイスラム系の文化とキリスト教系の宗教文化が交わりつつも入れ替わる時代が続いたためにポルトガルの建築における文化は独自性を窮めて行くこととなった。近代建築においてはエスティロ・プルトゥゲザ・スァーブ(Estilo Português Suave,Soft Portuguese style)と呼ばれる建築様式が1930年代から1960年代にかけて同国の公共および民間の建物で使用されている。
一方で、ポルトガルの建築技法は近隣諸国をはじめ、同国植民地の歴史を持つアフリカや中南米の国々ならびアジアの地域に強い影響を与えている。
世界遺産[編集]
ポルトガル国内には、ユネスコの世界遺産リストに登録された文化遺産が12件、自然遺産が1件存在する。
祝祭日[編集]
スポーツ[編集]
サッカー[編集]
陸上競技[編集]
その他の競技[編集]
卓球ではマルコス・フレイタスがITTF世界ランキングで最高7位、ITTFワールドツアーグランドファイナルのシングルスで銅メダルを獲得しており、ティアゴ・アポローニャやジョアン・モンテイロも国際大会でメダルを獲得した。ポルトガルの闘牛はスペインとは異なり基本的には牛を殺さないが、スペイン国境地帯のバランコス(英語版)では国内で唯一牛を殺す闘牛が行われている[59]。
著名な出身者[編集]
(一)^ 1999年以前の通貨はエスクード。
(二)^ ポルトガルのユーロ硬貨も参照。
(三)^ アソーレス諸島はUTC-1︵DST: ±0︶。
(四)^ 但し、統一年についてはスパニア属州に関する史料の少なさにより、確定できていない。624年説の他にも、625年説、628年説、629年説、634年以降の説が乱立しているのが現状である。
(五)^ 日本では、明の寧波を目指し遭難した船が1543年︵天文12年︶8月25日に種子島の門倉岬に漂着した出来事を初のポルトガル人の来日であるとしているが、ポルトガル史料では1542年説が有力であるとしている。またポルトガル共和国リスボン県リスボン市ベレン地区の発見のモニュメントでは1541年に豊後国に漂流したことを日本の発見と位置付けている。
(六)^ サラザール政権は枢軸国にタングステンを売り、その取引に純金を利用していた。純金の出所はユダヤ人からの没収資産ということを知りつつ取引をおこなった。このときに保持した純金が戦後も独裁体制を維持する財政基盤となった[4]。
(七)^ 意識不明の状態のまま辞任の手続きが取られ、2ヶ月後に覚醒したが本人には事故後の政局は全く伝えられることなく、事実上の軟禁状態のままサラザールは死去した。詳しくは1968年の事故についてを参照のこと
(八)^ ポルトガル語はアラビア語につぎ、世界第7位の話者人口を擁する。これはブラジルの存在による。同じポルトガル語でもブラジルポルトガル語とイベリアポルトガル語では発音や語彙にかなりの差がある。
(一)^ エドゥアルド・ガレアーノ﹃収奪された大地 ラテンアメリカ五百年﹄大久保光夫訳 新評論 1986
(二)^ 金七紀男﹃ポルトガル史︵増補版︶﹄彩流社、2003年4月増補版。p.128
(三)^ A.H.デ・オリヴェイラ・マルケス/金七紀男訳3﹃ポルトガル3──世界の教科書=歴史﹄ ほるぷ出版、1981年。pp.36-40。
(四)^ ﹃朝日新聞GLOBE﹄2012年5月18日
(五)^ ab﹁ポルトガル共和国﹂﹃世界年鑑2016﹄︵共同通信社、2016年︶429頁。
(六)^ ﹃近代世界と奴隷制﹄︵1995年,人文書院︶
(七)^ 土井忠生; 森田武, 長南実︵編訳︶ (1980年). “邦訳日葡辞書”. 岩波書店. 2016年8月17日閲覧。
(八)^ ロドリゲス﹃日本語小文典︵上︶︵下︶﹄池上岑夫 訳、岩波書店︵岩波文庫︶1993年
(九)^ 久米邦武 編﹃米欧回覧実記・5﹄田中 彰 校注、岩波書店︵岩波文庫︶1996年、140~145頁
(十)^ Peter C. Mancall, ed (2007). The Atlantic World and Virginia, 1550-1624 (illustrated ed.). UNC Press Books. p. 228. ISBN 080783159X. https://books.google.co.jp/books?id=Vrj4gApIJz4C&pg=PA228&redir_esc=y&hl=ja#v=onepage&q&f=false 2014年2月2日閲覧。
(11)^ OKAMOTO Yoshitomo. Jūroku Seiki Nichiō Kōtsūshi no Kenkyū. Tokyo: Kōbunsō, 1936 (revised edition by Rokkō Shobō, 1942 and 1944, and reprint by Hara Shobō, 1969, 1974 and 1980). pp. 728-730
(12)^ HOFFMAN, MICHAEL (2013年5月26日). “The rarely, if ever, told story of Japanese sold as slaves by Portuguese traders”. The Japan Times. http://www.japantimes.co.jp/culture/2013/05/26/books/the-rarely-if-ever-told-story-of-japanese-sold-as-slaves-by-portuguese-traders/ 2020年11月23日閲覧。
(13)^ ab池本幸三/﹇ほか﹈﹃﹃近代世界と奴隷制﹄﹄人文書院、1995年、158-160頁。
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(15)^ abMATSUDA Kiichi. Tenshō Ken’ō Shisetsu. Tokyo: Chōbunsha, 1991, pp. 274-5
(16)^ abcデ ・サンデ 1590 天正遣欧使節記 新異国叢書 5 (泉井久之助他共訳︶雄松堂書店、1969、p233-235
(17)^ CRUZ, Frei Gaspar da (auth.) and LOUREIRO, Rui Manuel (ed.). Tratado das Coisas da China (Évora, 1569-1570). Lisbon: Biblioteca editores Independentes, 2010, p. 177.
(18)^ Jesuits and the Problem of Slavery in Early Modern Japan, Rômulo da Silva Ehalt, 2017. p.346
(19)^ 岡田章雄﹃キリシタン・バテレン﹄至文堂、1955
(20)^ フェルナン・ゲレイロ編﹁イエズス会年報集﹂﹃一六・七世紀イエズス会日本報告集﹄第一冊、同朋舎、1987
(21)^ 松田毅一監訳﹃一六・七世紀イエズス会日本報告集﹄第二冊、同朋舎、1987、217-289頁
(22)^ 小学館 2020a, p. ﹁猿の生肝﹂.
(23)^ BRAH, Cortes 566 (9/2666), maço 21, f. 275. RUIZ DE MEDINA, Juan G. Orígenes de la Iglesia Catolica Coreana desde 1566 hasta 1784 según documentos inéditos de la época. Rome: Institutum Historicum S.I., 1986, p. 114-22.
(24)^ BRAH, Cortes 566 (9/2666), maço 21, f. 273-276v. Pagès in PAGÈS, Léon. Histoire de la religion chrétienne au Japon – Seconde Partie, Annexes. Paris: Charles Douniol, 1870, p. 70-9. SOUSA, Lúcio de. “Dom Luís de Cerqueira e a escravatura no Japão em 1598.” Brotéria, 165. Braga, 2007, pp. 245-61.
(25)^ ブリタニカ・ジャパン 2022a, p. ﹁年季奉公﹂.
(26)^ OKA Mihoko. “Kirishitan to Tōitsu Seiken.” In: ŌTSU Tōru et alii. Iwanami Kōza Nihon Rekishi Dai 10 Kan, Kinsei 1. Tokyo: Iwanami Shoten, 2014, pp. 185-187
(27)^ abJesuits and the Problem of Slavery in Early Modern Japan, Rômulo da Silva Ehalt, 2017. p. 473
(28)^ PÉREZ, Lorenzo. Fr. Jerónimo de Jesús: Restaurador de las Misiones del Japón – sus cartas y relaciones (1595-1604). Florence: Collegii S. Bonaventurae, 1929, p. 47.
(29)^ OKAMOTO Yoshitomo. Jūroku Seiki Nichiō Kōtsūshi no Kenkyū. Tokyo: Kōbunsō, 1936 (revised edition by Rokkō Shobō, 1942 and 1944, and reprint by Hara Shobō, 1969, 1974 and 1980). pp. 730-2
(30)^ MIZUKAMI Ikkyū. Chūsei no Shōen to Shakai. Tokyo: Yoshikawa Kōbunkan, 1969.
(31)^ Saunders, A.C. De C.M. A social history of black slaves and freedmen in Portugal 1441-1555. New York: University of Cambridge Press, 1982 p.89
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(33)^ Jesuits and the Problem of Slavery in Early Modern Japan, Rômulo da Silva Ehalt, 2017. p. 91
(34)^ Northrup, David. Africa’s Discovery of Europe 1450-1850. New York: Oxford University Press, 2009. Northrup, 2009, p.10
(35)^ abSaunders, A.C. De C.M. A social history of black slaves and freedmen in Portugal 1441-1555. New York: University of Cambridge Press, 1982 p.178
(36)^ SOUSA, Lúcio de, and OKA Mihoko. Daikōkai Jidai no Nihonjin Dorei. Tokyo: Chuokoron-Shinsha, 2017.
(37)^ Jesuits and the Problem of Slavery in Early Modern Japan, Rômulo da Silva Ehalt, 2017. p. 33
(38)^ George Bryan Souza (2004). The Survival of Empire: Portuguese Trade and Society in China and the South China Sea 1630-1754 (reprint ed.). Cambridge University Press. p. 32. ISBN 0-521-53135-7. https://books.google.co.jp/books?id=nPyg0evI8ykC&pg=PA32&dq=and+soldiers+5000+slaves+20000+Chinese+1643+2000+moradores+(Portuguese+inhabitants)+1644+40000+total+inhabitants+1648&hl=en&ei=XfC6TtDND-jo0QGsscDeCQ&sa=X&oi=book_result&ct=result&redir_esc=y#v=onepage&q=and%20soldiers%205000%20slaves%2020000%20Chinese%201643%202000%20moradores%20(Portuguese%20inhabitants)%201644%2040000%20total%20inhabitants%201648&f=false 2011年11月4日閲覧. "5000 slaves 20000 Chinese 1643 2000 moradores (Portuguese civil citizens) 1644"
(39)^ Stephen Adolphe Wurm, Peter Mühlhäusler, Darrell T. Tryon (1996). Atlas of languages of intercultural communication in the Pacific, Asia and the Americas. Walter de Gruyter. p. 323. ISBN 3-11-013417-9. https://books.google.co.jp/books?id=oCx0D0iE2QoC&pg=PA323&dq=typical+cross+section+of+the+population+consisted+of+about+600+casados,+100-200+other+Portuguese,+some+5000+slaves+and+a+growing&hl=en&ei=bPC6TrzhGIrs0gGKoIzfCQ&sa=X&oi=book_result&ct=result&redir_esc=y#v=onepage&q=typical%20cross%20section%20of%20the%20population%20consisted%20of%20about%20600%20casados%2C%20100-200%20other%20Portuguese%2C%20some%205000%20slaves%20and%20a%20growing&f=false 2011年11月4日閲覧. "The Portuguese population of Macao was never very large. Between the period 1601 -1669, a typical cross section of the population consisted of about 600 casados, 100-200 other Portuguese, some 5000 slaves and a growing number of Chinese"
(40)^ ポルトガルで唯一の国立公園︵National Geographic日本語版、2011年︶
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(42)^ IMFによるGDP
(43)^ 内閣府による県民経済計算 (PDF)
(44)^ ab﹁ポルトガル‥﹁共産主義だった遠い国﹂からの脱皮﹂﹃日経ビジネスオンライン﹄日経BP社、2008年4月17日付配信
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(46)^ Majority of married women in Portugal keep maiden name、The Protugal News、 2011年8月20日。
(47)^ "Majority of married women in Portugal keep maiden name", News Online, August 20, 2011.
(48)^ "Does my surname change when I get married in?", ELM Expertise, April 10, 2012
(49)^ Lei n.º 9/2010 de 31 de Maio Permite o casamento civil entre pessoas do mesmo sexo
(50)^ Segunda-feira já vai ser possível celebrar casamentos entre pessoas do mesmo sexo
(51)^ CIA World Factbook2009年3月30日閲覧。
(52)^ “Global Peace Index Map » The Most & Least Peaceful Countries” (英語). Vision of Humanity (2020年7月24日). 2022年10月12日閲覧。
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(55)^ “The Lusiads”. World Digital Library (1800-1882). 2013年9月1日閲覧。
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(57)^ co.,Ltd, FromOne. “ポルトガルが悲願の欧州制覇…C・ロナ負傷交代も延長戦を制して初タイトル”. サッカーキング. 2019年10月22日閲覧。
(58)^ Dakar Rally - ダカール・ラリー 2006三菱自動車工業公式サイト 2021年10月17日閲覧
(59)^ 市之瀬敦﹃ポルトガルの世界──海洋帝国の夢のゆくえ﹄社会評論社、2000年12月。p.139
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