出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
トマス・ロバート・マルサス︵Thomas Robert Malthus、1766年2月14日[1] - 1834年12月23日︶は、イギリスサリー州ウットン出身の経済学者。古典派経済学を代表する経済学者で、過少消費説、有効需要説を唱えた人物として知られる。
人物・来歴
父は弁護士で植物学者のダニエル・マルサスで、啓蒙主義者である。彼はジャン=ジャック・ルソーと親交があり、マルサスの生年1766年に自宅にルソーを招待している。その第2子として生まれ、家庭教師から指導を受け、また父からもきめ細かな教育を受けた。18歳でケンブリッジ大学ジーザス・カレッジに入学し、数学と文学を学び、1788年に卒業した後、キリスト教執事を目指して勉学に励んだ。その間の1796年に﹃危機﹄を著した。出版はしなかったが、これが最初の著書となった[2]。
1793年特別研究員[どこ?]となり、1805年にはヘイリベリー=カレッジの教授となった。
1798年に主著﹃人口論﹄を著し、この中で﹁幾何級数的に増加する人口と算術級数的に増加する食糧の差により人口過剰、すなわち貧困が発生する。これは必然であり、社会制度の改良では回避され得ない﹂とする見方(﹁マルサスの罠﹂)を提唱した。つまり、人類の幸福を追求する方法を提案した[どうやって?]のである。
マルサスはドイツ、スウェーデン、フィンランド、ロシアに滞在し、その国の人口を観測し、自説の補強に力を注いだ。そして、より科学的な﹃人口論﹄第2版を1803年に出した。この版には政治経済に関する重要論文が追加されている。このようなマルサスの考え方を誹謗するものも多数いたが、一方名声も大きなものになり、産児制限で最貧困層を救おうとする考えを﹁マルサス主義﹂ともいわれるようになった。経済学者として認知されるようになり、1803年には新しく設立された東インド会社付属学校の政治経済学教授の職に付き、官僚の育成に当たっている[3]。
マルサスは、この付属学校の教授として終生務め、没したのは1834年12月29日である。その間、﹃人口論﹄を改定するなど執筆活動を旺盛に行った。人口を統計学的に考察した結果、﹁予防的抑制﹂と﹁抑圧的抑制﹂の二つの制御装置の考え方に到ったが、この思想は後のチャールズ・ダーウィンの進化論を強力に支える思想となった。特に自然淘汰に関する考察に少なからず影響を与えている[3]。すなわち、人類は叡智があり、血みどろの生存競争を回避しようとするが、動植物の世界にはこれがない。よってマルサスの人口論のとおりの自然淘汰が動植物の世界には起きる。そのため、生存競争において有利な個体差をもったものが生き残り、子孫は有利な変異を受け継いだとダーウィンは結論したのである。
マルサスの思想は、経済学のうえでは、人間理性の啓蒙による理想社会の実現を主張するウィリアム・ゴドウィンやコンドルセへの批判とも位置づけられる。1820年にはデヴィッド・リカードの経済説に反論した﹃経済学原理﹄︵小林時三郎訳注、岩波文庫上下︶を著した。
他には1810年に﹃不換紙幣に関する論考﹄を、1814年には﹃小麦法の効果についての考察﹄、1815年に﹃地代の性質と増加についての調査﹄などを著している。日本語訳書では﹃マルサス北欧旅行日記﹄︵小林時三郎、西沢保訳、未來社、2002年︶および﹃マルサス学会年報﹄<マルサス学会編、1991年~2006年度版、2008年10月刊行、雄松堂出版>15冊がある。
脚注
- ^ 2月13日・17日説もあり
- ^ フランソワ・トレモリエール、カトリーヌ・リシ編著、樺山紘一日本語版監修『ラルース 図説 世界史人物百科』Ⅲ フランス革命ー世界大戦前夜 原書房 2005年 27ページ
- ^ a b フランソワ・トレモリエール、カトリーヌ・リシ編著、樺山紘一日本語版監修『ラルース 図説 世界史人物百科』Ⅲ フランス革命ー世界大戦前夜 原書房 2005年 28ページ
関連項目