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「フレッド・アーチャー」の版間の差分

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'''""'''''Frederick James Archer'', [[1857]][[111]] - [[1886]][[118]]19[[]][[]]<ref name="history_Longrigg">{{Cite book||author=|title=|publisher=||year=1976|pages=147-150|chapter=19 }}</ref>

[[ファイル:Fredarcher3.gif|thumb|19世紀最高の騎手、フレッド・アーチャー]]


<ref name="history_Longrigg"/>80842748<ref name="HR_Craig">{{Cite book||author=|title= |publisher=||year=1986|pages=82-83,262-263}}</ref>[[ ()|]]21187413[[]]188629[[]][[]]


== 生涯 ==

フレッド・アーチャーは[[イングランド]]領[[チェルトナム]]のセントジョージ病院で生まれた。父ウィリアム・アーチャーもまた、ジョッキーであり、1858年の[[グランドナショナル]]でリトルチャーリーに騎乗して勝利している。フレッドは幼少期をチェルトナムから南に3マイル離れたホースマンの街、プレストバリーで過ごし、そこで騎乗の訓練を受けた。

1857年1月11日 [[イングランド]]領[[チェルトナム]]のセントジョージ病院で生まれる。父ウィリアムは騎手兼調教師を務め、翌1858年の[[グランドナショナル]]でリトルチャーリーに騎乗して勝利している。1860年頃 父が[[兵役]]に就いている間、チェルトナムから南に3[[マイル]]離れたプレストバリーに居住し騎乗の訓練を受ける。初めて騎乗した馬はチョーという[[ギャロウェイ]]種の馬だったと伝えられる。



[[1867年]]、11歳の時に[[ニューマーケット (サフォーク州)|ニューマーケット]]に出て[[マシュー・ドーソン]]に弟子入りし、以降ドーソンの元で技術を磨いた。この時点でアーチャーの体重は60ポンド後半(約30kg)程度であったといわれる。翌年10月には非公式の競走ながら12歳で騎手としてデビューを迎え、公式競走に初出走した1870年秋に[[障害競走]]で初勝利を挙げた。その後すぐに頭角を現すことはなかったが、最初に大レースを勝ったのは、15歳の時、1872年の[[ロシア皇太子ハンデキャップ]]である。翌1873年は騎乗数を前年の倍以上に伸ばし、勝利数も前年の27から一挙に107まで伸ばした。翌1874年にはアトランティック(Atlantic)に騎乗して[[2000ギニー]]に優勝し、17歳にしてクラシック競走を初制覇すると、この年147勝を挙げて初のリーディングジョッキーも獲得した。この頃のアーチャーの体重は6[[ストーン (単位)|ストーン]](約38キロ)だった<ref name="derby_Alastair">{{Cite book|和書|author=アラステア・バーネット|coauthors=ティム・ネリガン|title=ダービーの歴史|publisher=[[競馬国際交流協会]]||year=1998|pages=62-66|chapter=フレッド・アーチャーの死}}</ref>。翌年には172勝を挙げてイギリスの年間最多勝記録を更新。スピナウェイ(Spinaway)に騎乗して[[1000ギニー]]連覇、さらに[[オークス|エプソムオークス]]にも優勝した。1876年には年間勝利数を史上初となる200に乗せ、1877年にはドーソンが管理するシルヴィオ([[:en:Silvio (horse)|Silvio]])に騎乗し[[ダービーステークス|エプソムダービー]]と[[セントレジャーステークス]]に優勝。弱冠20歳にしてクラシック競走完全制覇を果たした。以降もクラシック競走に次々と優勝、「アーチャーが乗れば[[カタツムリ]]でも勝てる」と言われるほどの活躍を見せた。

[[1867年]]、ニューマーケットに出て[[マシュー・ドーソン]][[調教師]]に弟子入りし、[[1870年]][[9月28日]]に初めて公式レースに出場した。[[1870年]]は15戦2勝、[[1871年]]は40戦3勝、[[1872年]]は180戦27勝と振るわなかったが、[[1873年]]に422戦107勝の成績を挙げると、翌年[[1874年]]から死亡する1886年を含めて13年間連続でリーディング騎手になった。英国では通算8084戦2748勝を挙げ、[[ダービー (競馬)|エプソムダービー]]を5勝した。又、国外では[[アイルランド]]と[[フランス]]で騎乗し、[[ジョッケクルブ賞|仏ダービー]]を2勝している。[[1885年]]に彼が達成した年間246勝は[[1932年]]に[[ゴードン・リチャーズ]]に破られるまでイギリスの年間勝利数の記録であった。



=== ベンドアでのダービーの逸話 ===

代表的な騎乗馬には種牡馬として[[サラブレッド]]の血統に大きな影響を与えた[[セントサイモン]]と[[ベンドア]]がいる。特にベンドアでのエプソムダービー制覇は伝説的で、ダービーの25日前に暴れ馬ミュリーエドリスに噛みつかれ右腕を負傷すると、鉄板で右腕を固定しながら左腕一本で優勝してしまったという。さらにベンドアの子、[[オーモンド]]でエプソムダービーと[[セントレジャーステークス]]を勝ち、[[イギリスクラシック三冠]]を達成させた(ただし[[2000ギニー]]は別の騎手による)。


18801調<ref name="derby_Alastair"/><ref name="HR_Craig"/>


アーチャーは怪我した腕を鉄板と包帯で固定し、痛み止めを服用して大本命の[[ベンドア]]に乗った。ベンドアはダービーがこの年最初の出走で、勝負どころで[[ロバートザデヴィル]]([[:en:Robert the Devil (horse)|Robert the Devil]])に離された上、最終コーナーで内側の柵に衝突しそうになり、アーチャーは片脚をベンドアの頸に持ち上げて避けなければならなかった。アーチャーはなんとかベンドアを走らせようとしたが、怪我をして固定した方の腕で持っていた鞭を落としてしまった。最後の直線の勝負で、アーチャーは片腕だけでベンドアを御した。ベンドアは一気に伸びて先頭のロバートザデヴィルに迫った。勝利を確信して油断したロバートザデヴィルの騎手は、ベンドアの猛追に気づいて鞭を入れたが、手遅れになった。ベンドアは頭ひとつだけロバートザデヴィルを捉えて優勝した。このダービーは、クラシック史上最も激しいレースの一つに挙げられている<ref name="derby_Alastair"/><ref name="HR_Craig"/><ref name="TH_BendOr">[http://www.tbheritage.com/Portraits/BendOr.html サラブレッド・ヘリテイジ ベンドア]-2013年5月21日閲覧。</ref><ref name="#1">『競馬の世界史』p132</ref>。ベンドアの馬主であった[[ヒュー・グローヴナー (初代ウェストミンスター公爵)|ウェストミンスター公爵]]は、初めてのダービー制覇に歓喜し、アーチャーに500ポンドを贈呈した<ref name="HR_Craig"/>。


[[1883]]1312[[1884]]23178cm50kg



調<ref name="derby_Alastair"/><ref>Tadcaster[[ ()|]][http://www.ownerbreeder.co.uk/2011/05/tony-morris-may-2011/ Thoroughbred Owner & Breeder]-2013521</ref>2

[[1886年]]、病に冒されたフレッドは拳銃で脇腹を打ち抜いて自殺する。その直前に「Are they coming ?」(やつらは来たか?)と叫んだと姉であるコールマン夫人は証言している。この日11月8日は、最愛の妻ネリーの命日の翌日だった。



=== ファルマス子爵の専属騎手 ===

== エピソード ==


6 ([[:en:Viscount_Falmouth|en]]) 5<ref name="derby_Alastair"/><ref>調66p132</ref>

* フレッドが初めて乗った馬はチョーと言い、ギャロウェイ種だった。この馬は後にフレッドが弟子入りするマシュー・ドーソン氏の厩舎にいた、ジャック・マスト騎手が騎乗して南ウェールズの幾つかのステークスレースに勝利した。南ウェールズでは当時、[[ポニー]]やギャロウェイ種による[[競馬]]は人気があったという。

* 兄のウィリアムは優れたホースマンだったという。弟のチャーリーも騎手であった。1878年、ウィリアムはチェルトナムの障害レースで騎乗したサルヴェニーが暴れた際に振り落とされ、数日の内に死んでしまった。

* [[セガ]]のメダルゲーム「[[STARHORSE]]」シリーズにF・アーチという名のキャラクターが登場する。



ファルマス卿は[[ケント (イングランド)|ケント]]に所有する城に牧場を拓き、競走馬の生産を行なった。ファルマス卿は競馬で優れた能力を示した牝馬だけを繁殖に用いることで、特筆すべき優秀な生産者となった。10年ほどの間に自家生産馬で何回か馬主ランキングの首位になった<ref name="#1"/>。1874年にアーチャーが初めてクラシックレースに優勝した後、ファルマス卿はアーチャーを年間100ポンドの契約で専属騎手に迎えた。ファルマス卿の生産馬は名調教師の[[マシュー・ドーソン]]に預けられ、アーチャーが騎乗した。アーチャーのダービー初優勝のシルヴィオもファルマス卿の持ち馬で、このほかアーチャーが勝った大レースの半数以上は、ファルマス卿の所有馬によるものだった<ref name="HR_Craig"/><ref name="derby_Alastair"/>。

{{DEFAULTSORT:あちや ふれつと}}



21881[[:en:Iroquois (horse)|Iroquois]][[:en:Pierre Lorillard IV|]]20002<ref name="derby_Alastair"/><ref name="TH_Iroquois">[http://www.tbheritage.com/Portraits/MaggieBB.html  BB]-2013521</ref>[[]][[|]]<ref>p60</ref>


1883Galliard2000[[7 ()|]][[|]]Highland Chief調<ref name="derby_Alastair"/>

最後の直線で、ガリアード、2番人気のセントブレーズ([[:en:St. Blaise (horse)|St. Blaise]])とハイランドチーフの3頭の叩き合いになり、クビ差(またはアタマ差)でセントブレーズがハイランドチーフを抑え、半馬身遅れてガリアードが3着になった。すぐに、アーチャーが兄のハイランドチーフを勝たせるために八百長をやって、ゴール前でガリアードを故意に抑えたのだという疑惑が巻き起こり、新聞はアーチャーに対する非難で持ちきりになった。実際、兄のチャールズは勝ったセントブレーズとハイランドチーフの馬券を買っていた。ハイランドチーフが実際にわずかにセントブレーズに先着していたが、アーチャー兄弟をよく思っていなかった決勝審判がセントブレーズが勝ったと判定したのだ、と唱える者もいた<ref>[http://paperspast.natlib.govt.nz/cgi-bin/paperspast?a=d&cl=search&d=AS18830818.2.28.18.5&srpos=1&e=11-08-1883-20-08-1883--10--1----1Blaize+Blaise-- セントブレーズはダービーの真の勝者か?と伝える当時の記事(Auckland Star誌1883年8月13日号)]-2013年5月21日閲覧。</ref><ref>[http://paperspast.natlib.govt.nz/cgi-bin/paperspast?a=d&cl=search&d=OW18830707.2.53.3&srpos=6&e=01-07-1883-10-07-1883--10--1----1Blaise+Blaize-- レースの様子を伝える当時の新聞Otago Witness紙 1883年7月7日号]-2013年5月21日閲覧。</ref><ref>[http://paperspast.natlib.govt.nz/cgi-bin/paperspast?a=d&cl=search&d=ST18830904.2.25&srpos=1&e=01-09-1883-10-09-1883--10--1----1Blaize+Blaise-- レースの様子を伝える当時の新聞Southland Times紙 1883年9月4日号]-2013年5月21日閲覧。</ref>。



The Tin Man<ref name="history_Longrigg"/><ref name="derby_Alastair"/><ref name="HR_Craig"/>56<ref name="derby_Alastair"/>

=== 結婚と不幸 ===

[[ファイル:Melton vs Paradox.jpg|thumb|1885年ダービー、メルトンとパラドックスの接戦]]

これより前、1883年1月31日にアーチャーはドーソン調教師の姪にあたるヘレン・ローズ・ドーソンと結婚した。新婚旅行で訪れた[[トーキー (デヴォン州)|トーキー]]にはアーチャーの姿を一目見ようとする人々が押しかけ、さながらロイヤルウェディングのようであったという。この年は勝利数を232とし、自己新記録を更新した。しかし、翌年1月に誕生した長男が出産直後に死亡するという不幸に見舞われる。競馬においては史上最速のペースで勝利数を伸ばし、577戦で241勝という驚異的な数字を挙げる。だが241勝目を挙げた当日、妻ヘレンが長女の出産の際に23歳で死去した<ref name="derby_Alastair"/>。このシーズン、アーチャーはこの日を限りに一切の騎乗を取り止め、3ヶ月以上の間アメリカへ旅行に赴いた。以降のアーチャーは雰囲気が一変し、周囲に明るい表情を見せることはなくなったといわれる。


1885年、アーチャーはアメリカから帰国すると、メルトン([[:en:Melton (horse)|Melton]])でダービーに出た。メルトンは脚に不安を抱えており、ドーソン調教師が手がけたなかでも最も難しい馬の1頭だった。この年最高の有力馬はパラドックス([[:en:Paradox (horse)|Paradox]])で、既に2歳チャンピオン戦の[[デューハーストステークス|デューハーストプレート]]と2000ギニーに勝っていた<ref name="derby_Alastair"/><ref name="TH_Melton">[http://www.tbheritage.com/Portraits/Melton.html サラブレッド・ヘリテイジ メルトン]-2013年5月21日閲覧。</ref><ref name="TH_Paradox">[http://www.tbheritage.com/Portraits/Sterling.html#Paradox サラブレッド・ヘリテイジ パラドックス]-2013年5月21日閲覧。</ref>。


メルトンは既に何度かパラドックスに敗れており、誰が見てもパラドックスの方が強いと思われたが、パラドックスにも騎乗経験があったアーチャーは、パラドックスは先頭に立つとたじろぐ癖があることに気づいていた。アーチャーはスタートで意図的にメルトンを出遅れさせ、パラドックスを先行させた。アーチャーの読み通り、最後の直線でパラドックスは先頭に立った後、不安そうに怯んだ。残り50ヤード(約46メートル)からアーチャーはメルトンを一気に追い出し、パラドックスに並ぶと、最後の1完歩、残り1フィート(約30センチ)というところでメルトンの頭を前に押し出した。メルトンはちょうどアタマ1つ分の差でダービー優勝馬となった。この勝利は、アーチャーの最高の騎乗の一つと言われている。このレースを観戦していた詩人[[オスカー・ワイルド]]はこのダービーを、“[[ジョン・ミルトン|ミルトン]]による『[[失楽園]]』”(英語で“Paradaise Lost by Milton”)をもじって、“ミルトンによるパラドックスの敗北(Pradox Lost by Milton)”と伝えた。2着に惜敗したパラドックスはその後フランスでパリ大賞典に勝った。メルトンの方は秋のセントレジャーまで休養を余儀なくされたが、セントレジャーに勝って二冠馬となった<ref name="derby_Alastair"/><ref name="TH_Melton"/><ref name="TH_Paradox"/><ref>[http://www.artfact.com/auction-lot/lowes-cato-dickinson-1819-1908-the-birdcage-at-1-c-obeceu3cra オスカー・ワイルドがパラドックスの馬主に宛てた書簡の内容]-2013年5月21日閲覧。</ref>。



188542461932[[]]48

=== 三冠馬オーモンドと最後のシーズン ===

[[ファイル:1886-derby.JPG|thumb|1886年のダービーを勝つオーモンドとアーチャー]]

身長178cmと大柄であったアーチャーは、オフシーズンには体重が11ストーン(約69.9kg)前後まで増加するようになり、減量に苦しみ始めた。アーチャーは減量するためにダイナマイトの粉末を服用した<ref name="history_Longrigg"/>。1886年は騎乗数を減らしたが、それでも170勝を挙げてリーディングの首位を占めていた。



[[]]Saraband2000212220004The Bard3St.Mirin<ref name="derby_Alastair"/>

9月に行なわれた三冠目の[[セントレジャーステークス|セントレジャー]]では、アーチャー騎乗のオーモンドが楽勝して[[イギリスクラシック三冠|三冠]]を達成し、2着にセントミリンが入った。セントミリンはこの後、10月の[[ケンブリッジシャーハンデキャップ|ケンブリッジシャーハンデ]]に出ることにした。このハンデ戦はイギリスを代表する大レースの一つで、アーチャーはまだこの大レースにだけは勝ったことがなかった。セントミリンの馬主のモントローズ公爵夫人は、かねてから何度もアーチャーに騎乗を打診していたが、いつもアーチャーはこれを断っていた。しかし、まだ勝っていないケンブリッジシャーハンデに出るために、アーチャーはセントミリンの騎乗依頼を受けることにした<ref name="derby_Alastair"/>。


=== 自殺 ===

セントミリンに示されたハンデキャップは8ストーン6ポンド(約53.6キロ)だった。アーチャーはセントミリンに乗るために無理な減量を行った。3日間絶食して下剤を飲み続け、蒸し風呂に入り続けた。アーチャーは体調を落とし、精神的にも追い詰められていた。結局、体調不良のアーチャーが乗ったセントミリンはアタマ差で2着に敗れた。結果的に、ケンブリッジシャーハンデは、アーチャーが唯一勝てなかった重賞となった<ref name="derby_Alastair"/><ref name="HR_Craig"/>。


11月4日に騎乗したロスチャイルドプレート競走後に、アーチャーは体調不良を訴えた。不調を圧して次に組まれていたキャッスルプレートにも出場したが惨敗を喫し、これが最後の騎乗となった。翌5日にはニューマーケットの自邸に戻ると、[[腸チフス]]と診た医師の命によって療養することになった<ref name="derby_Alastair"/>。病状は更に悪化し、高熱と悪寒に苛まれベッドから起き上がる事もままならない状態となった。



118[[]]Are they coming??<ref name="derby_Alastair"/>29<ref name="history_Longrigg"/><ref name="derby_Alastair"/><ref name="HR_Craig"/>60000<ref name="HR_Craig"/>

== 通算成績 ==

{| class="wikitable"

! 年 !!騎乗数!!勝利数!!勝率!!主な騎乗馬(優勝競走)

|-

|1870年||15||2||.133||

|-

|1871年||40||3||.075||

|-

|1872年||180||27||.150||

|-

|1873年||422||107||.253||

|-

|1874年||530||147||.277||Atlantic([[2000ギニー]])

|-

|1875年||605||172||.284||Spinaway([[1000ギニー]]、[[オークス]])

|-

|1876年 ||662||207||.312||

|-

|1877年||602||218||.362 ||Silvio([[ダービーステークス|ダービー]]、[[セントレジャーステークス]])

|-

|1878年||619||229||.370||Janette(オークス、セントレジャーステークス)

|-

|1879年||568||197||.347||Charibert(2000ギニー)<br />Wheel of Fortune(1000ギニー、オークス)

|-

|1880年||362||120||.331||[[ベンドア|Bend Or]](ダービー)<br />Beau Minet([[ジョッケクルブ賞]])

|-

|1881年||532||220||.413||Iroquois(ダービー、セントレジャーステークス)<br />Bend Or([[チャンピオンステークス]])

|-

|1882年||560||210||.375||Ducth Oven(セントレジャーステークス)<br />Bruce([[パリ大賞]])

|-

|1883年||631||232||.368||Galliard(2000ギニー)<br />Frontin(ジョッケクルブ賞)

|-

|1884年||577||241||.418||

|-

|1885年||667||246||.369||Paradox(2000ギニー、パリ大賞)<br />Melton(ダービー、セントレジャーステークス)<br />Lonely(オークス)

|-

|1886年||512||170||.332||[[オーモンド|Ormonde]](ダービー、セントレジャーステークス、チャンピオンステークス)<br />Minting(パリ大賞)

|-

|通算||8,084||2,748|| .340||

|}


== アーチャーが登場する作品 ==

*ピーター・ラヴゼイ『殿下と騎手』(1981年 原題:Bertie and the Tinman)

**主人公のプリンスオブウェールズがアーチャーの自殺の真相を突き止めるミステリ小説。


== 参考文献 ==

*『ダービーの歴史』アラステア・バーネット、ティム・ネリガン著、千葉隆章・訳、(財)競馬国際交流協会刊、1998

*『競馬 サラブレッドの生産および英国競馬小史』デニス・クレイグ著、マイルズ・ネーピア改訂、佐藤正人訳、中央競馬ピーアールセンター刊、1986

*『競馬の世界史』ロジャー・ロングリグ・著、原田俊治・訳、日本中央競馬会弘済会・刊、1976


== 出典・注釈 ==

<references/>


== 関連項目 ==

{{DNB01 poster|Archer, Frederick|Frederick Archer}}

*[[セントサイモン]] - 10戦中6戦でアーチャーが騎乗。[[種牡馬]]として後世のサラブレッドに多大な影響を与えた。

*{{commonscat-inline|Fred Archer}}


{{Normdaten}}

{{DEFAULTSORT:ああちやあ ふれつと}}

[[Category:1857年生]]

[[Category:1857年生]]

[[Category:1886年没]]

[[Category:1886年没]]

[[Category:イギリスの騎手]]

[[Category:イギリスの騎手]]

[[Category:チェルトナム出身の人物]]


[[Category:自殺したイギリスの人物]]

[[en:Fred Archer (jockey)]]

[[es:Fred Archer]]


2023年8月12日 (土) 00:55時点における最新版


""Frederick James Archer, 1857111 - 188611819[1]
19

[1]80842748[2]21187413188629

[]


1857111 調18581860 3

1867116030kg101218701518721873271071874(Atlantic)200017147638[3]172Spinaway100018762001877Silvio20

[]


18801調[3][2]

Robert the Devil[3][2][4][5]500[2]

調[3][6]2

[]


6 (en) 5[3][7]

10[5]1874100調[2][3]

21881Iroquois20002[3][8][9]

1883Galliard2000Highland Chief調[3]

2St. Blaise33[10][11][12]

The Tin Man[1][3][2]56[3]

[]

1885

1883131調姿232157724124123[3]3

1885Melton調1Paradox22000[3][13][14]

504611301Paradaise Lost by MiltonPradox Lost by Milton2[3][13][14][15]

18854246193248

[]

1886

178cm1169.9kg[1]1886170

Saraband2000212220004The Bard3St.Mirin[3]

9210[3]

[]


8653.63調調2[3][2]

114調調5[3]

118Are they coming??[3]29[1][3][2]60000[2]

通算成績[編集]

騎乗数 勝利数 勝率 主な騎乗馬(優勝競走)
1870年 15 2 .133
1871年 40 3 .075
1872年 180 27 .150
1873年 422 107 .253
1874年 530 147 .277 Atlantic(2000ギニー
1875年 605 172 .284 Spinaway(1000ギニーオークス
1876年 662 207 .312
1877年 602 218 .362 Silvio(ダービーセントレジャーステークス
1878年 619 229 .370 Janette(オークス、セントレジャーステークス)
1879年 568 197 .347 Charibert(2000ギニー)
Wheel of Fortune(1000ギニー、オークス)
1880年 362 120 .331 Bend Or(ダービー)
Beau Minet(ジョッケクルブ賞
1881年 532 220 .413 Iroquois(ダービー、セントレジャーステークス)
Bend Or(チャンピオンステークス
1882年 560 210 .375 Ducth Oven(セントレジャーステークス)
Bruce(パリ大賞
1883年 631 232 .368 Galliard(2000ギニー)
Frontin(ジョッケクルブ賞)
1884年 577 241 .418
1885年 667 246 .369 Paradox(2000ギニー、パリ大賞)
Melton(ダービー、セントレジャーステークス)
Lonely(オークス)
1886年 512 170 .332 Ormonde(ダービー、セントレジャーステークス、チャンピオンステークス)
Minting(パリ大賞)
通算 8,084 2,748 .340

[]


殿1981 Bertie and the Tinman

[]


1998

 1986

1976

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(一)^ abcde19 1976147-150 

(二)^ abcdefghi 198682-83,262-263 

(三)^ abcdefghijklmnopqrs199862-66 

(四)^  -2013521

(五)^ abp132

(六)^ TadcasterThoroughbred Owner & Breeder-2013521

(七)^ 調66p132

(八)^  BB-2013521

(九)^ p60

(十)^ Auckland Star1883813-2013521

(11)^ Otago Witness 188377-2013521

(12)^ Southland Times 188394-2013521

(13)^ ab -2013521

(14)^ ab -2013521

(15)^ -2013521

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