「モーリス・ルブラン」の版間の差分
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== 生涯・人物 == |
== 生涯・人物 == |
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===生 |
===生ひ立ち=== |
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[[仏蘭西]]・[[ノルマンディー]]の地方都市[[ルーアン]]市内フォントネル通り二番地に第二子︵長子は年子に長女のジョアンヌ︶に次いで生まる。父エミール・ルブランは海運と石炭卸売とを主業とする[[資本家階級]]の[[実業家]]なりき。[[分娩]]に立ち会ひしは、ルブラン家のかかりつけの[[医師]]に、[[ギュスターヴ・流れ面紗|流れ面紗]]の兄、アシル・流れ面紗なりし︵後に巴里の文壇にモーリス・ルブランがこの事実を自慢することになる<ref>Derouard, Jacques. ''Maurice Leblanc –Arsène Lupin malgré lui–''. Séguier, 千九百九十三. 流れ面紗家とは遠き親戚にもあり。こは母方の大伯母煮こごり・トルカZé臥Torcatが、流れ面紗はらからの父、アシル=クレオファス・流れ面紗と従はらから縁なる、アマン=アドルフ・カンブルメAmand-Adolphe Cambremerとあひたれば。</ref>︶。
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[[千八百七十年]]師走、[[普仏戦争]]のため[[蘇格蘭]]に疎開するものの翌[[千八百七十一年]]の文月までに︵当時未だ[[普魯西]]の占領下なりき︶ルーアンへと呼び戻されたる<ref>﹁いやいやながら ルパン生みいだしし作家 モーリス・ルブラン伝﹂ [[男・ドゥルワール]]著 [[小林佐江子]]・[[相磯佳正]]訳 [[二千十九年]]長月廿四日初版発行 [[国書刊行会]] P一四-十五</ref>。[[千八百七十三年]]神無月よりジャンヌ・ダルク大通りの気屯・パトリ寄宿学校に初等教へを受けし後、同校に通学生にて籍を置きしまま[[千八百七十五年]]より地元の﹁グラン・リセ﹂こと{{仮連結|コルネイユ高等学校|fr|Lyc%C三%A九e_Pierre-Corneille}}に入学。しばしば表彰を受くるほどの秀才なりつつリセの厳格なる空気を嫌へることを後に自叙伝物語﹁L'Enthousiasme︵[[千九百一年]]︶﹂に回顧せり。
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[[千八百七十九年]]の夏には当時鎖式の発明されしばかりの[[自転車]]得、[[壮年期]]以降も[[自転車乗り]]に傾倒すべくなる。この当時のルブランは﹁神経質なるほど感受性こはく、話の際には時折[[チック]]の症状を示せり﹂と、実妹[[ジョルジェット・ルブラン]]の﹁回想録︵[[千九百三十一年]]︶﹂中には記述されたる<ref>﹁いやいやながら ルパン生みいだしし作家 モーリス・ルブラン伝﹂ P三九</ref>。
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[[千八百八十一年]]文月廿七〜廿八日に文系[[バカロレア (仏蘭西)|バカロレア]]の第一部試験受け﹁可﹂の成績に合格、最終学年なる﹁[[哲学]]級﹂に進学す。最終学年にはわざと人心理の分析嗜好し、この時の勉学が後々の作品群に多大なる影響を及ぼすこととなる。
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[[千八百八十二年]]葉月、文系[[バカロレア (仏蘭西)|バカロレア]]の第二部試験と[[数学]]・[[物理]]・[[自然科学]]の試験に「可」の成績に合格、グラン・リセを卒業す。その後、父エミールの要望により[[英語]]をまねぶため[[マンチェスター]]に一年間滞在。 |
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===兵役 |
===兵役よりの反動=== |
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[[千八百八十三年]]にはてづから仏蘭西に戻り、霜月五日にルーアン市庁舎に﹁条件付き兵役︵千五百法を納入することに、本来五年の期間を一年に短縮せられき︶﹂に志願せり。同年霜月十二日、[[ヴェルサイユ]]旧王立厩舎内の第十一連隊︵砲兵︶に配属、翌[[千八百八十四年]]霜月十二日には[[予備役]]編入︵条件付き兵役がため、正式なる予備役編入は[[千八百八十八年]]霜月八日付となる︶までの待命予備期間︵事実上の復員︶となり、ルーアンに帰郷せり。後年、この英吉利居住と兵役の期間につきて、ルブランは﹁L'Enthousiasme﹂に﹁﹃この二年間、我は不幸なりき﹄と率直に言ふべからむ﹂<ref>﹁いやいやながら ルパン生みいだしし作家 モーリス・ルブラン伝﹂ P四九</ref> と述懐せり。
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帰郷後の彼はこの二年の反動のごとく遊蕩に明け暮れ |
帰郷後の彼はこの二年の反動のごとく遊蕩に明け暮れき。劇場や居酒屋に足繁く通ひ、[[玉突き]]や[[葉巻きたばこ|葉巻]]の[[喫煙]]、[[飲酒]]や[[買春]]が日ごろの生活の一部となりし<ref>﹁いやいやながら ルパン生みいだしし作家 モーリス・ルブラン伝﹂ P五零-五十一</ref>。旅行にも興示し、[[ラクロワ]]島訪れ、[[自転車乗り]]に﹁仏蘭西全土を踏破﹂<ref 名="ReferenceA">﹁いやいやながら ルパン生みいだしし作家 モーリス・ルブラン伝﹂ P五零</ref> しせるもこの頃なり。これらにつきてルブランは﹁定められしいとなみに無理矢理就かせられ、何らかの制限設けられすといふ案が、我には突然、忍ばれずなりき﹂と﹁L'Enthousiasme﹂に回想せる<ref 名="ReferenceA"/>。一方に、後の代表作﹁[[奇巌城]]﹂はこの頃訪れし[[エトルタ]]の情景が源流となれり。
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されど、[[千八百八十五年]]睦月廿七日、敬愛する母ブランシュが四十一歳の若さに逝去し、その遺産相続にともなふ親権解除がため、彼は就職せざらばならずなりき。父の伝手によりゆくすゑやうに共同営み者となるべく瑠偉・ミルド=ビシャールの持つ機械式梳毛︵そいま︶工場に勤務することになりしものの、こはルブランにはたえて関心をもたらさぬいとなみに、そこより逃避するよしにて、ルブランは物語の執筆を始めし<ref>﹁いやいやながら ルパン生みいだしし作家 モーリス・ルブラン伝﹂ P五六</ref>。<!-- 低学校を落第後、 -->
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===巴里へ、かくて生業作家へ=== |
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当時、ルブランはある |
当時、ルブランはある色ごとに後ろ指をさされ、ルーアンに居がたくなれる<ref>﹁いやいやながら ルパン生みいだしし作家 モーリス・ルブラン伝﹂ P五八</ref>。一方に、しばしば訪れたりし[[巴里]]には一歳年下の寡婦魔梨威・ラランヌと知り合ひ、色縁を結ぶに至れり。鄙に忍ばれずなり、文の成功も夢見たりしルブランは、低・学校への通学を口実にて[[千八百八十八年]]の末に巴里の[[モンマルトル]]の彼六番地へと居を移す。生活資金は[[千八百九十一年]]に全額支払はるるあらましなりし母親の遺産がら捻出され、千八百八十八年師走廿九日には父より二万法、[[千八百八十九年]]より[[千八百九十年]]の間には約七万法受け取れる<ref>﹁いやいやながら ルパン生みいだしし作家 モーリス・ルブラン伝﹂ P六一</ref>。
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千八百八十九年睦月十日、魔梨威・ラランヌとあひ。ただし当時の風潮より婚礼は行はざりき。またこの頃、﹁文芸酒場﹂にて名を成しそめたりし[[歌謡酒場]]﹁黒ねこま︵シャ・ノワール︶﹂に足繁く足運び、[[ルネ・モロ]]や{{仮連結|モーリス・ドネー|en|Maurice_Donnay}}等多くの文人・芸術家どもと交友せり。あひ後、とばかりルブランは[[ノルマンディ]]を中心とせる生活をやりき。
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兵役の再訓練は、妻 |
兵役の再訓練は、妻魔梨威の妊娠を口げに千八百九十年の秋に延期せり。この結果、当時巴里を襲ひし[[流行性感冒]]の影響より幸運にも逃れらるべかりき。千八百八十九年霜月廿八日、[[姪]]に長女魔梨威・ルイーズが生まれ。日ごろの生活拠点は姪には[[マセナ郡区 (アイオワ州カス郡)|マセナ]]広場近辺のアルベルティ通り十八番地のヴィラ・ラランヌ、巴里には八区、クラベロン通りなりき。
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千八百九十年弥生、リュドヴィック・バシェ美術出版社の﹁挿絵入り雑誌︵ルヴェ・イリュストレ︶﹂におきて短編﹁救助﹂に商業初舞台を果たす。同作は卯月三日にルネ・モロが編集長を務むる﹁挿絵入り盗人︵ヴォルール・イリュストレ︶﹂誌にも載せらるる運びとなる。長月廿二日より霜月廿日までヴェルサイユの第十一連隊に原隊復帰、[[伍長]]階級にて再訓練を受く。<br>
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霜月、サン・ジョセフ通りのエルネスト・コルブ社より短編集﹁Des 対﹂を自費出版。﹁ギ・ド・モーパッサン師に捧ぐ﹂との献辞記されたりき。しかれども売上は惨憺たるものに、後にルブランは﹁八百法かけ千冊刷りしに三、四十冊のみ売れき﹂とぼやける<ref>﹁いやいやながら ルパン生みいだしし作家 モーリス・ルブラン伝﹂ P七一</ref>。
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霜月廿三日にフロベールの記念碑の落成式がルーアンの実家の付近なるソルフェリーノ庭園に行はるることを知りしルブランは、巴里への帰路の列車に、ギ・ド・モーパッサン、[[エドモン・ド・ゴンクール]]、[[エミール・ゾラ]]、{{仮連結|ギュスターヴ・トゥードゥーズ|fr|Gustave_Toudouze}}の乗車する[[区画]]にかづき込み、﹁Des 対﹂の書評を乞はむと試みるものの、むべのことながら彼らは除幕式に疲弊しおり、到底書評を願ふべき空気ならざりき。この件はルネ・モロが﹁シャンピモン﹂の筆名に﹁挿絵入り盗人﹂誌が記事にし、同時に﹁Des 対﹂への好意やうなる書評を載せたる<ref>﹁いやいやながら ルパン生みいだしし作家 モーリス・ルブラン伝﹂P七二-七十四</ref>。
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千八百九十一年の夏には[[ヴォコット]]に滞在、[[エトルタ]]近郊に所在するモーパッサンの別荘「ラ・ギエット荘」を訪れきといふ話を友人にしたれど、モーパッサンが果てにここを訪れしは千八百九十年の夏なるため、虚言の可能性著しく高き<ref>「いやいやながら ルパン生みいだしし作家 モーリス・ルブラン伝」 P七八</ref>。 |
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=== 中堅作家への |
=== 中堅作家への経歴の積み重ね=== |
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ルブランはヴォコットには[[ |
ルブランはヴォコットには[[千八百九十四年]]まで夏ごと滞在することとなる。[[千八百九十二年]]にはモーリス・ドネーに頼まれ、この地に喜劇脚本﹁[[女の平和]]﹂を共同執筆すれど、ドネーが共同執筆者なる彼の名をいださで脚本を発表せることにより、ルブランはこはく落胆する<ref>﹁いやいやながら ルパン生みいだしし作家 モーリス・ルブラン伝﹂ P八零-八十一</ref>。されども、同ころにエトルタに知り合ひし{{仮連結|丸細胞・プレヴォー|en|Marcel_Pr%C三%A九vost}}は﹁ジル・金吹き物﹂紙のヴィクトール・デフォセ会長を取次、これによりルブランは﹁[[ジル・金管楽器]]﹂にコラムニスト兼書き遣り物語家にて用ゐらる。神無月三日には早速ルブランの短編﹁いつはりなり!︵副題‥なやむわたり︶﹂載せられ、これによりルブランの名が世に知れ渡るべくなりき。同日、第二訓練期間にてルブランは第十一連隊に原隊復帰、神無月丗日まで再訓練を受く。師走三日、はやくより入会を求めたりし作家協会の準会員となる。こは﹁女の平和﹂なるルブランの著作権を守るためにも要ることなりき。師走廿二日、{{仮連結|グラン・劇場|en|大いなる_Th%C三%A九%C三%A二tre_de_Bordeaux}}に﹁女の平和﹂の催しの幕開かる。[[千八百九十三年]]卯月九日、﹁ジル・金吹き物﹂に長編物語﹁Une femme﹂の連載が始め、皐月廿三日にオランドルフ社より単行本出版さる。オランドルフ社よりは[[千八百九十四年]]卯月十日にも﹁Ceux qui souffrent﹂の出版さるることとなる。千八百九十四年水無月十一日には﹁自転車﹂の題名に﹁ジル・金吹き物﹂に時評載せらる。[[千八百九十五年]]卯月四日、セーヌ県裁判所におきて既に疎遠となれる妻魔梨威よりの離縁請求認められ、卯月廿七日に離縁成立す。これに関し、ルブランは﹁ジル・金吹き物﹂の時評に﹁きみは、おぼろけなるなり﹂と前妻魔梨威を評せし<ref>﹁いやいやながら ルパン生みいだしし作家 モーリス・ルブラン伝﹂ P一零九</ref>。霜月初旬にはオランドルフ社より﹁L’Œuvre de mort﹂出版さる。こは﹁使者・仏蘭西﹂や﹁新聞と本の雑誌﹂等の書評におきて絶賛を受けし<ref>﹁いやいやながら ルパン生みいだしし作家 モーリス・ルブラン伝﹂P一一二-百十三</ref>。ルブランは﹁ジル・金吹き物﹂以外の著名誌への載せ望みはじめ、[[竿・エルビュ]]に﹁両天下評論﹂誌への口利きを頼めど、つひにこの試みは過ちに終はりし<ref>﹁いやいやながら ルパン生みいだしし作家 モーリス・ルブラン伝﹂ P一一三-百十四</ref>。<br>
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[[千八百九十六年]]弥生、運動記者の{{仮連結|ピエール・ラフィット|fr|Pierre_Lafitte}}の設立せる自転車円﹁芸術の・循環・倶楽部﹂に入会。これが後に[[アルセーヌ・ルパン|ルパン]]続き生みいだすひまとなる<ref>﹁いやいやながら ルパン生みいだしし作家 モーリス・ルブラン伝﹂ P一一四</ref>。皐月十二日には﹁ジル・金吹き物﹂に﹁征服されし自然﹂を寄稿、あらためて自転車への礼賛を示せり。また同月、オランドルフ社より中短編集﹁Les Heures de mystère﹂出版さる。[[千八百九十七年]]初頭頃、夫エドワール・ウルマンと別居中なりしマルグリット・ウォルムセールと出会ひ、語らひを始むる<ref>﹁いやいやながら ルパン生みいだしし作家 モーリス・ルブラン伝﹂ P一二一</ref>。四つごもり、オランドルフ社より﹁アルメルとクロード﹂出版さる。師走、﹁ジル・金吹き物﹂に自転車を主題にせる物語﹁Voici des ailes!﹂載せらる。﹁いやいやながら ルパン生みいだしし作家 モーリス・ルブラン伝﹂の著者なる男・ドゥルワールはこの作品につきて、﹁ニーチェの響きが見出すべし﹂﹁自転車は人に超人の生を与ふるなり﹂と評したる<ref>﹁いやいやながら ルパン生みいだしし作家 モーリス・ルブラン伝﹂ P一二七</ref>。師走廿日、当時発行部数六十五万部を誇れる日刊紙﹁{{仮連結|ジュルナル・デ・デバ|fr|新聞_des_d%C三%A九bats}}﹂に短編を寄稿。前後しコラムニストにて契る<ref>﹁いやいやながら ルパン生みいだしし作家 モーリス・ルブラン伝﹂ P一二八</ref>。[[千八百九十八年]]如月、オランドルフ社より﹁Voici des ailes!﹂出版さる。この際、オランドルフ社編集長の頼みにより匿名に新刊案内を成し。加へ、﹁早撮り写真﹂と題する人物評も執筆すれど、この中に﹁フロベールとモーパッサンの同郷人。彼らより貴重なる言加へを受けたりき﹂と騙れる<ref>﹁いやいやながら ルパン生みいだしし作家 モーリス・ルブラン伝﹂ P一三零-百三十一</ref>。
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===五年もの |
===五年もの不況=== |
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されど、順調かと覚えし作家にての経歴にも[[千八百九十九年]]頃より陰さしそむ。恋人マルグリットの離婚調停うまくゆかず、ルブランは心身ともに健康を損なへる<ref>﹁いやいやながら ルパン生みいだしし作家 モーリス・ルブラン伝﹂P一二一, P一三八</ref>。加へ、﹁ジュルナル・デ・デバ﹂に載せられし短篇物語をまとめし﹁Les Lèvres 結﹂が水無月に売り出されしものの売れ行きは芳しからず、生業の面にも苦境に陥りし<ref>﹁いやいやながら ルパン生みいだしし作家 モーリス・ルブラン伝﹂P一四一-百四十二</ref>。果てとなるべき訓練兵役も﹁消化不良と[[るいせむ|羸痩︵るいせむ︶]]がため、千八百九十九年神無月廿八日、巴里特別委員会によりかりそめなる兵役免除となりき﹂。なほ[[千九百年]]神無月五日には﹁ルーアンの特別委員会より、極度の羸痩と慢性胃病がため﹂、兵役義務を解かれたり。<ref>﹁いやいやながら ルパン生みいだしし作家 モーリス・ルブラン伝﹂P一四二、P一四七</ref> わりなき雌伏の時なりつつもルブランは姪や[[ブルゴーニュ]]のプーク=レ=ゾー村に温泉療養しつつ書き下ろしの物語手掛け、[[千九百年]]皐月十日には丸細胞・プレヴォーならびに[[ジュール・ルナール]]︵﹁[[にんじん (物語)]]﹂の英訳に際し、妹ジョルジェットとその恋人[[モーリス・メーテルランク]]とともにルブランは訳者の仲介を手掛けたりき︶を推薦者にて仏蘭西文芸家協会へ入会申請を行なへり。この申請は無事神無月廿九日に認めらるることとなる。[[千九百一年]]如月初頭に、書き下ろし自伝長編﹁L’Enthousiasme﹂がオランドルフ社より刊行さる。こはルブランとせば相当の推敲とつとめとを重ねし作品なりし<ref>﹁いやいやながら ルパン生みいだしし作家 モーリス・ルブラン伝﹂P一四三</ref> が、反響はさしてなく、初動部数も千部程度とあはれがるべき数字に収まりし<ref>﹁いやいやながら ルパン生みいだしし作家 モーリス・ルブラン伝﹂P一四八-百四十九</ref>。<br>
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この頃、ピエール・ラフィット |
この頃、ピエール・ラフィットの興しし﹁Les Éditions Pierre Lafitte et Cie﹂社よりをんな向け流行り誌﹁Femina﹂への寄稿頼み受け、[[千九百一年]]長月十五日に﹁困難なる選択﹂を発表。[[千九百二年]]水無月よりは﹁Les Yeux purs﹂の連載を始む。同年葉月十二日、マルグリットが長男クロードを極秘出産。また同ころに、かの[[アンリ・デグランジュ]]の頼み受け、﹁自動車・自転車﹂紙︵のちに﹁自動車﹂紙に改名︶に長月七日より短編の冒険・行ひ物語を寄稿しそむ。ルブランがそれまで書きこし心理物語・[[純文学]]物語とはかたの異なるこれらの頼みを受けしは単純に経済的なるよしによるものに︵﹁ジル・金吹き物﹂誌よりの頼みは既に停止せり︶、なほ彼とせば渋々といひし面のこはかりし<ref>﹁いやいやながら ルパン生みいだしし作家 モーリス・ルブラン伝﹂P一五二-百五十六</ref>。[[千九百三年]]、﹁{{仮連結|ル・プティ・ジュルナル|en|Le_Petit_新聞_(新聞) }}﹂紙の付録﹁Le Petit 誌Illustré﹂に寄稿を始め、葉月丗日には中篇﹁シャンボン通り円の罪<!-- 仏蘭西語・英語には当たる作品の見つからぬため﹁いやいやながら ルパン生みいだしし作家 モーリス・ルブラン伝﹂よりやがて日本語名を転載 -->﹂を発表。﹁その題材はアルセーヌ・ルパンの﹃罪のな﹄冒険を予感さす﹂と男・ドゥルワールはこの作品につきて述べたる<ref>﹁いやいやながら ルパン生みいだしし作家 モーリス・ルブラン伝﹂P一六一</ref>。[[千九百四年]]水無月、オランドルフ社より﹁自動車﹂紙発表作品を中心にせる短編集﹁Gueule-rouge 八十-chevaux﹂が出版。この作品は﹁それまでルブランが執筆しこし心理物語とルパンの冒険との接点にて位置づけらる﹂と、男・ドゥルワールは分析せる<ref>﹁いやいやながら ルパン生みいだしし作家 モーリス・ルブラン伝﹂P一六四</ref>。師走廿九日、マルグリットとエドワール・ウルマンの離縁がセーヌ県裁判所に成立。[[千九百五年]]睦月廿四日、父エミールが逝去。享年七十五歳なりし<ref>﹁いやいやながら ルパン生みいだしし作家 モーリス・ルブラン伝﹂P一六五-百六十六</ref>。
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===ルパンの |
===ルパンの生まれ、文芸作家の道との訣別=== |
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はやく中堅作家にて名を成せるルブランなれど、それまで出版されし十冊の総売上は二〜三万部程度に、生業作家とせばさらなる躍進要りありき。そのため[[千九百四年]]には一幕ものの戯曲を数篇発表するなど新機軸に挑みしものの、こはすなはち成功するものならざりし<ref>﹁いやいやながら ルパン生みいだしし作家 モーリス・ルブラン伝﹂P一六四-百六十五</ref>。それと同ころに、ピエール・ラフィットと手の[[アンリ・バルビュス]]は当時隆盛を誇れる雑誌﹁{{仮連結|ル・プティ・ジュルナル|fr|Lectures_注ぐ_tous_(雑誌)}}﹂の対抗馬となる雑誌﹁{{仮連結|Je sais tout|fr|Je_sais_tout}}﹂創刊号を千九百五年如月十五日に売り出し。かくて、[[英吉利]]に﹁[[シャーロック・ホームズ]]続き﹂の載せにより大商ひとなれる﹁[[子縄・雑誌]]﹂の成功踏まへ、これまで﹁Femina﹂誌に頼み通りの原稿を執筆せるルブランに新たに﹁冒険短篇物語﹂の執筆を頼む。ルブランの世なる最大の転機到来なりし<ref>﹁いやいやながら ルパン生みいだしし作家 モーリス・ルブラン伝﹂P一六六</ref>。
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ルブランは﹁自動車﹂紙や﹁Le Petit |
ルブランは﹁自動車﹂紙や﹁Le Petit 誌Illustré﹂に載せられし作品群を習作とし、わざといたはることもなく無意識やうに<!-- 当時当たりせる[[コナン・ドイル]]の[[シャーロック・ホームズ]]物の反英雄となる<ref>当時ルブランはドイルの作品を読みしためしは無かりき。</ref> -->、軽妙に魅惑やうなる﹁盗人紳士﹂の[[アルセーヌ・ルパン]]をつくりいだしし<ref>﹁いやいやながら ルパン生みいだしし作家 モーリス・ルブラン伝﹂P一七二</ref>。[[千九百五年]]文月十五日に﹁Je sais tout﹂第六号に発表せる読み切り﹁アルセーヌ・ルパンの逮捕﹂が大おぼえとなり﹁Je sais tout﹂の売り上げも好成績なりしため、ラフィットと [https://資料.bnf.fr/一千四十四万七百十二/marcel_l_heureux/ 丸細胞・ルールー]︵﹁ジル・金吹き物﹂誌に執筆せる彼もラフィットの会社に転職せり︶[[ギュルス (仏蘭西)|ギュルス]] に滞在し、﹁自動車﹂紙の原稿にかかりきりなりしルブランの元を葉月に訪れルパンの続編書くべく説得せり。ルブランは﹁強盗は投獄されたるぞ﹂と反論せるものの、ラフィットは﹁脱獄させよ﹂と応酬し、﹁続けよ。仏蘭西の[[コナン・ドイル]]になるるなり。栄光を手にするなり﹂とそそのかしき。さりとて﹁他の分野の文に専念せばや﹂と渋るルブランに対し、ラフィットは﹁そうかい?他の分野にこころばみしところでどうにもならずよ。心理物語は終はりけり。今や﹃幻想と怪奇の文﹄の世なり︵こは翌月の﹁Je sais tout﹂に載せらるる{{仮連結|気屯・デシャン|en|Gaston_Deschamps}}﹂の論文の題名にもありき︶﹂と返しき。﹁大衆﹂物語作家に﹁身を落とす︵ルブラン自身の言の葉なり︶﹂事を嫌がるルブランの宿泊先をラフィットはほぼ日ごろ訪れ、﹁文やうなる物語を書くばかりにてありぬべし﹂と繰り返し頼み込み続けき。結果、経済的なるよしもありルブランは続編を書くことにし、以後の作家世のおほかたをルパンに注ぎ込むこととなりし<ref>﹁いやいやながら ルパン生みいだしし作家 モーリス・ルブラン伝﹂P一七五</ref>。<br>
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ルパンの﹁ |
ルパンの﹁始めの十二の短篇﹂の原稿とともにルブランが巴里に戻りし後、霜月十五日売り出しの﹁Je sais tout﹂は次号にルパン続きの載せ仄めかし、翌月号には﹁第一回ルパン懸賞﹂つきに﹁獄中のアルセーヌ・ルパン﹂を載せし<ref>﹁いやいやながら ルパン生みいだしし作家 モーリス・ルブラン伝﹂P一七六</ref>。[[千九百六年]]睦月丗一日、離縁に伴ふ法の猶おもひかけ間の終はりしことにより、晴れルブランはマルグリットと正式にあひき。新居はクルヴォー通り八番地の長屋の六階なりし︵この世、家賃は高層階に行くほど安き傾向ありき︶<ref>﹁いやいやながら ルパン生みいだしし作家 モーリス・ルブラン伝﹂P一七七-百七十八</ref>。<br>
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皐月、ルパン発表前夜に書きし戯曲﹁兮Pitié﹂の上演がアントワーヌ劇場に行はるれど、この作品は大過ちに、上演は八たびに打ち切られき。皐月六日、劇場あるじのアンドレ・アントワーヌは日記にかく記せり。﹁モーリス・ルブラン氏のめでたき戯曲﹃兮Pitié﹄の︵観客つき︶総稽古が、昨日、さんざんなる結果に終はると、作者は﹃よろしき、まらうどに何が要かはよく分かれり。まめやかなる劇作は思ひ絶えむ。これよりは金を稼ぐためにこしらふるぞ﹄と我に言ひき﹂。また、のちにアントワーヌはいくつかの著書にこうも回想せり。﹁本質的に人の、深く掘り下げし作品をもちて︵戯曲作家にての︶初舞台を飾りき﹂が、﹁めでたき演技﹂にかかはらず﹁なかなかすさまじく迎へられき﹂、﹁﹃兮Pitié﹄を是非とも︵再度︶上演せばやと思ひき。いと価値のある作品なれど、観客が正当に評価せべく見えず。﹂﹁この過ちの後、作者は演劇思ひ絶え物語に専念し、アルセーヌ・ルパンをもちて富と名とを勝ち取ることになる﹂<ref>﹁いやいやながら ルパン生みいだしし作家 モーリス・ルブラン伝﹂P一七八-百八十一</ref>。同月の﹁Je sais tout﹂には﹁アンベール婦人の金庫﹂が﹁第五たびルパン懸賞﹂とともに載せらるれど、その回のとぶらひは﹁ルパンの対決するなにしおふ探偵とは誰か?﹂に、次号には﹁遅かりしシャーロック。ホームズ﹂載せられき。結果、﹁Je sais tout﹂にはホームズを無断用ゐられし[[コナン・ドイル]]よりの抗議文やられきたり。一方のルブランはと言はばちょうど﹁[[ルパン対ホームズ]]﹂﹁[[奇巌城]]﹂といふホームズを敵役とする長編二本執筆中に、以後﹁ホームズ﹂の名は[[アナグラム]]によりあやし名さるることになる<ref>﹁いやいやながら ルパン生みいだしし作家 モーリス・ルブラン伝﹂P一八一-百八十二</ref>。師走廿五日、﹁自動車﹂紙に﹁聖誕祭﹂載せらる。ルパンの成功汲み、著者名の下には﹁訳権持ち﹂の但し書きがルブランの作品とせば初めて記述されき。なほ、翌[[千九百七年]]如月七日に載せられし﹁駆け落ち専門﹂が﹁自動車﹂紙への果ての寄稿となる<ref>﹁いやいやながら ルパン生みいだしし作家 モーリス・ルブラン伝﹂P一八三-百八十四</ref>。<br>
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日ごろよりルブランは健康上のよしより自粛せる文士どもとの社交を再開す。弥生、[[猟官運動]]が功奏し、文芸家協会の委員に就任、皐月廿七日の協会会合に﹁訳権に関する事項﹂の担当委員に任命さるる<ref>﹁いやいやながら ルパン生みいだしし作家 モーリス・ルブラン伝﹂P一八六-百八十七、P一九零</ref>。皐月売り出しの﹁Je sais tout﹂に載せられし﹁[[心の七]]﹂︵予告にはルパンと[[ガニマール警部]]に挟まれしルブランの写真載せられき︶ののち<ref>﹁いやいやながら ルパン生みいだしし作家 モーリス・ルブラン伝﹂P一九一-百九十二</ref>、水無月十日に発表済作品の改稿ながらルパン始めの書籍となる短編集﹁[[怪盗紳士アルセーヌ・ルパン]]﹂がラフィットのソシエテ・将軍・デディシヨン・イリュストレ社より出版されき。﹁題名は短編集をいださむと思ひしに頭に浮かびき﹂とルブランは語れり。献辞はラフィットに捧げられき。﹁親愛なる友よ、君は、おのれにはゆめゆめ挑まむと思はざりし道に我を導きき。我は、底にかくも多くの喜びと文上の魅力を見出しければ、この第一巻の冒頭に君の名記し、我が君への友情とうつろはぬ感謝の意を表すがむべと思ふ﹂。優れし商売人なりしラフィットは初版は二千二百部に限り、版重ね広告を兼ぬるよしを選びし<ref 名="ReferenceB">﹁いやいやながら ルパン生みいだしし作家 モーリス・ルブラン伝﹂P一九二-百九十三</ref>。水無月十二日、ソシエテ・将軍・デディシヨン・イリュストレ社と正式契り。初版二千二百部、あたひは三と五分法、印税は一部につき六十サンチーム、契り期間は十年。但し書きは﹁モーリス・ルブラン氏はピエール・ラフィット氏に探偵風俗物語は全てをさしいづること契り、一方、ピエール・ラフィット氏はそれらを同条件のもと同じ双書に出版することを契る。︵中略︶無下一年に一冊の割合に出版し、これらの書籍のうちの一冊の売上げが、売り出し後一年に三千部を上回らざりしついでには、ピエール・ラフィット氏は本契りを解除する権利を有す﹂といふものなりし<ref 名="ReferenceB"/>。
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=== 大 |
=== 大内裏へ === |
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翌[[ |
翌[[千九百八年]]睦月十三日、文芸家協会に﹁物語﹃アルセーヌ・ルパン﹄が[[ブカレスト]]の新聞﹃羅馬尼亜﹄に無断転載されき﹂との廉に、当該新聞を訴ふるために協力を求む。また同ころより各国訳への営み働きをはじむる<ref>﹁いやいやながら ルパン生みいだしし作家 モーリス・ルブラン伝﹂P二零一-二百二</ref>。睦月十七日、文芸家協会なる功績により、﹁公教へと美術﹂の分野に[[レジオン・ド・ヌール]]のシュバリエ章を受章<ref>﹁いやいやながら ルパン生みいだしし作家 モーリス・ルブラン伝﹂P二零二</ref>。如月十日、﹁ルパン対ホームズ﹂が出版。連載版より大幅なる改訂なされ、結末までもが変へられたりし<ref>﹁いやいやながら ルパン生みいだしし作家 モーリス・ルブラン伝﹂P二零四</ref>。この年の秋頃、演劇作家フランシス・クロワッセと共作せる戯曲﹁[[ルパンの冒険]]﹂の脚本が依頼者アベル・ドゥヴァルへ納品さるる<ref>﹁いやいやながら ルパン生みいだしし作家 モーリス・ルブラン伝﹂P二零一</ref>。この四幕物の舞台は神無月廿八日の最終予行より爆ぜやうなる人気見せ、長期やうに上演を重ぬる<ref>﹁いやいやながら ルパン生みいだしし作家 モーリス・ルブラン伝﹂P二零八-二百十一、P二一三</ref>。霜月より﹁Je sais tout﹂に﹁奇巌城﹂が﹁新アルセーヌ・ルパン懸賞﹂とともに連載始め。これにつきて、ルブランは﹁いま無用なりき。我はいまアルセーヌ・ルパンよりかれられざりき﹂と述懐せり。﹁エトルタの針岩の中を穿つ﹂といふ案のひまはけふも不明なるままなる<ref>﹁いやいやながら ルパン生みいだしし作家 モーリス・ルブラン伝﹂P一九九-二百</ref>。<br>
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[[千九百九年]]弥生廿八日、文芸家協会の総会にルブランは副会長︵定数二名︶に選ばる。水無月十五日、﹁奇巌城﹂の単行本の売り出さるる<ref>﹁いやいやながら ルパン生みいだしし作家 モーリス・ルブラン伝﹂P二一五</ref>。霜月八日、さる晩餐会に文芸家協会の代表にて出席し、[[ロラン・ボナパルト]]に文賞の建てを提案する<ref>﹁いやいやながら ルパン生みいだしし作家 モーリス・ルブラン伝﹂P二一九</ref>。弥生五日より﹁ジュルナル・デ・デバ﹂におきて﹁[[八百十三]]﹂が連載始め。[[気屯・ルルー]]と[[レオン・サジイ]]を擁する好敵文﹁{{仮連結|ル・マタン (仏蘭西)|fr|Le Matin (France)|en|Le Matin (France)|札=ル・マタン}}﹂に﹁ジュルナル・デ・デバ﹂の対抗するよしがルパンの連載なりき。水無月、﹁八百十三﹂の単行本売り出さる。初版は一万二千部といふ当時とせば強気なる部数に、さりとて葉月と師走には五千部づつ増刷されし<ref>﹁いやいやながら ルパン生みいだしし作家 モーリス・ルブラン伝﹂P二二二-二百二十三</ref>。神無月廿八日より、ヴィクトール・ダグレとアンリ・ド・ゴルスが共作せる舞台劇﹁アルセーヌ・ルパン対エルロック・ショルメス﹂がシャトレ座に[[千九百十年]]三つごもりまで上演され、大当たりとなりき。こは前年にルブランが二人と交はしし契りに基づく作品なりし<ref>﹁いやいやながら ルパン生みいだしし作家 モーリス・ルブラン伝﹂P二一六-二百十七、P二二七-二百二十八</ref>。霜月十八日、ラフィットが新たに興しし日刊紙﹁エクセルシオール﹂第三号にルブランの﹁ルパン物ならず﹂中篇﹁うろこ柄の桃色の洋服﹂載せられき。<br>
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ルパンは大あたり |
ルパンは大あたり取り、ルブランに作家にての名と、経済の成功をもたらしき。ドイルがホームズ物を飽くまで第三者の視点に描きしに対し、ルブランは千九百七年発表の﹁[[怪盗紳士ルパン]]﹂に、おのれをルパンの伝記作家にて現れさせたる︵﹁王妃の首飾り﹂、﹁[[心の七]]﹂︶。
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ドイルは[[シャーロック・ホームズシリーズ|ホームズシリーズ]]の成功に対して |
ドイルは[[シャーロック・ホームズシリーズ|ホームズシリーズ]]の成功に対してなかなか困惑し、罪物語に成功することを、より﹁尊敬に値す﹂文の情熱より遠ざくるものに、生活妨害されたべくさえありと感じたりきともいはれたり。同様にルブランも、はやく純文・心理物語作家を志せる事もあり、[[罪#罪と虚構|犯罪小説]]・[[推理小説|探偵小説]]なるルパン続きに名を博する事に忸怩たるものありきといはる。ドイルがホームズを[[ライヘンバッハの滝]]に落とししと同様、ルブランも﹃[[八百十三 (物語)|八百十三]]﹄︵千九百十年︶にルパンを自殺させたり。﹁ルパンが我が影なればはあらず、我がルパンの影なり﹂といふ言の葉などにも、その苦悩の跡見らる。その後は歴史物語﹃国境﹄︵千九百十一年︶、モーパッサンの影響のある短編集﹃桃色の貝殻綾の洋服﹄︵千九百十一年︶、空想やうなる作風の﹃棺桶島﹄︵千九百十九年︶、[[科学・虚構|SF]]に分類さるる﹃三つの眼﹄︵千九百十九年、[[第一接触]]・題︶、﹃いな・マンズ・国﹄︵千九百二十年︶などを発表。また千九百十五年頃より映画公開と並行し売り出さるる小説シネロマンといふかたち生まると、その執筆者に名を連ねき。
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その後 |
その後千九百二十年﹃アルセーヌ・ルパンの帰り﹄ににルパン蘇らせ、千九百二十七年には新しき探偵体育館・棒網ものを発表すれど、この棒網もはやルパンなるが後に明かされき。千九百三十年代には文界よりも作家にて高き評価得べくなり、﹃ラ・レピュブリック﹄紙にフレデリック・ルフェーヴルより﹁けふの偉大なる冒険作家のひとりなり﹂﹁同時に純然たる物語家、正真正銘の作家なり﹂と賞せられたる<ref>男・ドゥルアール﹁モーリス・ルブラン 果ての物語﹂坂田雪子訳︵﹃リュパン、果ての恋﹄東京創元社 二千十三年︶</ref>。千九百三十年代には色物語﹃裸婦の絵︵''L'image de 兮femme nue'' *こは絵ならず彫刻。裸婦像︶﹄﹃青き芝生の醜聞﹄も執筆。物語の戯曲化にも意欲注ぎ、千九百三十五年には﹃赤き数珠﹄を舞台化せる﹃闇の中の男﹄が大成功を収めき。
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晩年、﹁ルパンとの出会 |
晩年、﹁ルパンとの出会ひは事故のごときものなりき。されど、そは幸運な事故なりもこそ﹂との言の葉残し、そのおのれの経歴も受け入れらるべくなりきとも見られ、﹃アルセーヌ・ルパンの数十億﹄︵千九百三十九年︶にいたるまで、ルパン続きを執筆す。
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ルブランは |
ルブランは千九百十九年葉月に文への貢献︵直接のよしは﹁国民の英雄・ルパン﹂のつくりいだし︶をもちて[[レジオンドヌール勲章]]授与され、千九百四十一年に[[ペルピニャン]]のサン=ジャン病院にかくれき。死因の一つ︵直接のものならず︶は肺[[うっ血]]。妹[[ジョルジェット・ルブラン|ジョルジェット]]の死を息子のクロードより伝へらるれど、その時にはいま心の無くなれる<ref>Derouard, Jacques. ''Maurice Leblanc –Arsène Lupin malgré lui–''. Séguier, 千九百九十三. p.三百十二</ref>。
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===没後=== |
===没後=== |
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[[ |
[[文:博物館Maurice Leblanc.jpg|thumb|モーリス・ルブラン博物館「ルパンの隠れ家」le Clos Lupin, Musée de Maurice Leblanc]] |
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[[クロード・モネ]]の絵 |
[[クロード・モネ]]の絵になにしおふ大西洋岸の町[[エトルタ]]には、彼の住居を基にせるモーリス・ルブラン思い出館、通称﹁アルセーヌ・ルパンの隠れ家﹂あり。またモネの絵の題材にもなりしなにしおふエトルタの岸壁は、その頂上に登ると崖の内部にかづくべかるべくなりており、﹃[[奇巌城]]﹄に現るる暗号がやがて金属盤に掲示されたり。また、ルブランの墓は巴里のモンパルナス墓地なり。
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伝記 |
伝記ならねど、日の本に[[隆巴]]書き下ろしし戯曲『ルパン』は劇中劇のルパンと往還する形にルブランの苦悩を描きし作品に、初演は[[仲代達矢]]がルブラン、ルパンの二役を演じき。 |
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二千十二年に、千九百三十六-丗七年に執筆せる『[[ルパン果ての恋]]』の草稿発見され、孫のフロランス・ベスフルグ・ルブランの序文を付して、ルパンの果ての冒険にて出版されき。 |
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===挿話=== |
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{{Wikify| |
{{Wikify|日付=二千二十年七月}}<!-- |
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https://ja.wikipedia.org/wiki/ |
https://ja.wikipedia.org/wiki/助け:%E七%AE%八十七%E六%九D%A一%E六%九B%B八%E三%八十一%八D |
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* ﹃[[ジル・ |
* ﹃[[ジル・金管楽器]]﹄紙に連作短編 "Contes essentiels" を発表せる際︵不定期。千八百九十三年卯月廿八日より千八百九十四年霜月五日まで︶には、﹁L'Abbé de Jumiège︵ジュミエージュ大修道院長︶﹂の筆名を用ゐし︵ただし、千八百九十四年卯月二日号分よりは本名に発表されたり。ジュミエージュ大修道院は仏蘭西革命の時にその元来の役目終へ、﹃奇岩城﹄や﹃カリオストロ伯爵夫人﹄にもその遺跡の姿描かれたり︶。
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* かくるる数週間前に、「ルパンが我が世間に出没し何かと邪魔す」といふよしの被害届を警察署にいだし、そのため警察官が廿四時間体制に警備し、最期の日々の平穏を守りき。 |
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* お金に細か |
* お金に細かき所があり、経済的に不自由無くなるとも、出版社に鉄道の割引券︵permis de circulation︶を度々無心し、南仏などへの旅行に用ゐたりし<ref>Derouard, Jacques. ''Maurice Leblanc –Arsène Lupin malgré lui–''. Séguier, 千九百九十三. p.三百二 他。もっとも、妹のジョルジェットはその晩年に、肺炎などの病に医療費や生活費︵元来のいとなみなる舞台働きに要とされずなり来れば、﹃回想録﹄などの執筆活動をせざるを得ずなり来たりき︶を親族に頼らざる得ずなり、更には、居候やうなる存在︵同性愛の相手にもあり︶の木春菊・アンダーソン等引きぐして、モーリスや姉のジャンヌ夫妻に経済的に迷惑をかけたれば、やむを得ぬ面もありしならむ。</ref>。
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* 千八百九十八年頃、言加へを求めたりし若き作家よりの文に対し、次のごとくいらへたり。 |
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:﹁我々の偉大な作家 |
:﹁我々の偉大なる作家どもをあまた読みたまへ。仏蘭西やうなるかどに恵まれし作家ども、[[モンテーニュ]]、[[パスカル]]{{要曖昧さ回避|日付=二千二十一年十月}}、[[ラ・ブリュイエール]]、短篇物語の[[ヴォルテール]]、[[竿=瑠偉・使者]]、[[フロベール]]、[[ルナン]]を。……﹂
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:﹁生き |
:﹁生きたまへ。さり、何よりも生き、多くのことを心地、思ひ、なやみ、幸福なべく心がけたまへ。我々は生くるために生きたり。それが、我々の第一の義務なり。それに、それのよき作品を書く最良のよしなり。作品は、それが世に基づきたらずは、説得力を持たず。小室に閉じこもりたらむ人の書くは、空虚につきての作品なり。街路に日があらば、あるいはいづらに清げなるをんながあらば、筆を捨てたまへ。後に、筆を取ることはときじくえむ。その後、きみの書くことは、定めてその暑さと麗しさの影響を受けでいられざらむ。﹂
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:「 |
:「いま一つ言加へを。もし能はば、あまた旅したまへ」 |
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:と返信を |
:と返信をやれる<ref>「いやいやながら ルパン生みいだしし作家 モーリス・ルブラン伝」 P一三六-百三十七</ref>。 |
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* ヴォコットの別荘は当時の姿のまま現存し |
* ヴォコットの別荘は当時の姿のまま現存しおり、期間は限らるるものの宿泊すべし。 |
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* 初期の﹁ルパン﹂ |
* 初期の﹁ルパン﹂続き創作につきて、のちにルブランはかく語れり。﹁知らぬほどに、潜在心が我を操れるなり。さるつとめなどせずとも、あやしき趣、荒唐無稽な出会ひ、わづらはき筋立ての案がゆくゆく湧きゆきき。かくて、たえて驚きしことに、それらはあやしきほどやすく解決しぬるなり。何もあらぬところより生まれしアルセーヌ・ルパンは、かくし頭に出来上がりきけり﹂<ref>﹁いやいやながら ルパン生みいだしし作家 モーリス・ルブラン伝﹂P一七五-百七十六</ref>。
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* ﹁Le Censeur politique et littéraire﹂の編集次長 |
* ﹁Le Censeur politique et littéraire﹂の編集次長なりしアンドレ・ビイーは﹁アシル・フロベールの立ち会ひのもと生まれしためしを自慢の種にせり﹂﹁好みすり減らす如き︵ルパン続き︶のいとなみがために、彼は神経を患ひ、クルヴォー通りの露台にいとなみすべかりき。露台は玻璃張りのベランダに囲まれ、その黄色き玻璃がために、︵常時︶日の光差せべく見えき。彼は横臥しつつ鉛筆ばかりに書けり。時々彼に付き添へるジョルジェットの芝居がかりしけしきのおかげに兄の慎み深さよりいとど勝れたりき﹂﹁彼の取り巻きは、ルブランが後戻りせぬ覚悟に、ただただ金儲けの文に励めるを見かこち﹂、かくて﹁彼自身、そのためにあはれがれべく見えき﹂と回想せる<ref>﹁いやいやながら ルパン生みいだしし作家 モーリス・ルブラン伝﹂P一八四-百八十五、P一九四</ref>。
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* 「L’Enthousiasme」につ |
* 「L’Enthousiasme」につかば出版後もルブランが原稿を手元に遺せり。 |
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== 主な作品 == |
== 主な作品 == |
2021年10月20日 (水) 14:56時点における版
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モーリス・ルブラン | |
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国籍 |
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生涯・人物
生ひ立ち
仏蘭西・ノルマンディーの地方都市ルーアン市内フォントネル通り二番地に第二子︵長子は年子に長女のジョアンヌ︶に次いで生まる。父エミール・ルブランは海運と石炭卸売とを主業とする資本家階級の実業家なりき。分娩に立ち会ひしは、ルブラン家のかかりつけの医師に、流れ面紗の兄、アシル・流れ面紗なりし︵後に巴里の文壇にモーリス・ルブランがこの事実を自慢することになる[3]︶。 千八百七十年師走、普仏戦争のため蘇格蘭に疎開するものの翌千八百七十一年の文月までに︵当時未だ普魯西の占領下なりき︶ルーアンへと呼び戻されたる[4]。千八百七十三年神無月よりジャンヌ・ダルク大通りの気屯・パトリ寄宿学校に初等教へを受けし後、同校に通学生にて籍を置きしまま千八百七十五年より地元の﹁グラン・リセ﹂ことTemplate:仮連結に入学。しばしば表彰を受くるほどの秀才なりつつリセの厳格なる空気を嫌へることを後に自叙伝物語﹁L'Enthousiasme︵千九百一年︶﹂に回顧せり。 千八百七十九年の夏には当時鎖式の発明されしばかりの自転車得、壮年期以降も自転車乗りに傾倒すべくなる。この当時のルブランは﹁神経質なるほど感受性こはく、話の際には時折チックの症状を示せり﹂と、実妹ジョルジェット・ルブランの﹁回想録︵千九百三十一年︶﹂中には記述されたる[5]。 千八百八十一年文月廿七〜廿八日に文系バカロレアの第一部試験受け﹁可﹂の成績に合格、最終学年なる﹁哲学級﹂に進学す。最終学年にはわざと人心理の分析嗜好し、この時の勉学が後々の作品群に多大なる影響を及ぼすこととなる。 千八百八十二年葉月、文系バカロレアの第二部試験と数学・物理・自然科学の試験に﹁可﹂の成績に合格、グラン・リセを卒業す。その後、父エミールの要望により英語をまねぶためマンチェスターに一年間滞在。兵役よりの反動
千八百八十三年にはてづから仏蘭西に戻り、霜月五日にルーアン市庁舎に﹁条件付き兵役︵千五百法を納入することに、本来五年の期間を一年に短縮せられき︶﹂に志願せり。同年霜月十二日、ヴェルサイユ旧王立厩舎内の第十一連隊︵砲兵︶に配属、翌千八百八十四年霜月十二日には予備役編入︵条件付き兵役がため、正式なる予備役編入は千八百八十八年霜月八日付となる︶までの待命予備期間︵事実上の復員︶となり、ルーアンに帰郷せり。後年、この英吉利居住と兵役の期間につきて、ルブランは﹁L'Enthousiasme﹂に﹁﹃この二年間、我は不幸なりき﹄と率直に言ふべからむ﹂[6] と述懐せり。 帰郷後の彼はこの二年の反動のごとく遊蕩に明け暮れき。劇場や居酒屋に足繁く通ひ、玉突きや葉巻の喫煙、飲酒や買春が日ごろの生活の一部となりし[7]。旅行にも興示し、ラクロワ島訪れ、自転車乗りに﹁仏蘭西全土を踏破﹂引用エラー:<ref>
タグ内の引数が無効です しせるもこの頃なり。これらにつきてルブランは﹁定められしいとなみに無理矢理就かせられ、何らかの制限設けられすといふ案が、我には突然、忍ばれずなりき﹂と﹁L'Enthousiasme﹂に回想せる引用エラー: <ref>
タグ内の引数が無効です。一方に、後の代表作﹁奇巌城﹂はこの頃訪れしエトルタの情景が源流となれり。
されど、千八百八十五年睦月廿七日、敬愛する母ブランシュが四十一歳の若さに逝去し、その遺産相続にともなふ親権解除がため、彼は就職せざらばならずなりき。父の伝手によりゆくすゑやうに共同営み者となるべく瑠偉・ミルド=ビシャールの持つ機械式梳毛︵そいま︶工場に勤務することになりしものの、こはルブランにはたえて関心をもたらさぬいとなみに、そこより逃避するよしにて、ルブランは物語の執筆を始めし[8]。
巴里へ、かくて生業作家へ
当時、ルブランはある色ごとに後ろ指をさされ、ルーアンに居がたくなれる[9]。一方に、しばしば訪れたりし巴里には一歳年下の寡婦魔梨威・ラランヌと知り合ひ、色縁を結ぶに至れり。鄙に忍ばれずなり、文の成功も夢見たりしルブランは、低・学校への通学を口実にて千八百八十八年の末に巴里のモンマルトルの彼六番地へと居を移す。生活資金は千八百九十一年に全額支払はるるあらましなりし母親の遺産がら捻出され、千八百八十八年師走廿九日には父より二万法、千八百八十九年より千八百九十年の間には約七万法受け取れる[10]。 千八百八十九年睦月十日、魔梨威・ラランヌとあひ。ただし当時の風潮より婚礼は行はざりき。またこの頃、﹁文芸酒場﹂にて名を成しそめたりし歌謡酒場﹁黒ねこま︵シャ・ノワール︶﹂に足繁く足運び、ルネ・モロやTemplate:仮連結等多くの文人・芸術家どもと交友せり。あひ後、とばかりルブランはノルマンディを中心とせる生活をやりき。 兵役の再訓練は、妻魔梨威の妊娠を口げに千八百九十年の秋に延期せり。この結果、当時巴里を襲ひし流行性感冒の影響より幸運にも逃れらるべかりき。千八百八十九年霜月廿八日、姪に長女魔梨威・ルイーズが生まれ。日ごろの生活拠点は姪にはマセナ広場近辺のアルベルティ通り十八番地のヴィラ・ラランヌ、巴里には八区、クラベロン通りなりき。 千八百九十年弥生、リュドヴィック・バシェ美術出版社の﹁挿絵入り雑誌︵ルヴェ・イリュストレ︶﹂におきて短編﹁救助﹂に商業初舞台を果たす。同作は卯月三日にルネ・モロが編集長を務むる﹁挿絵入り盗人︵ヴォルール・イリュストレ︶﹂誌にも載せらるる運びとなる。長月廿二日より霜月廿日までヴェルサイユの第十一連隊に原隊復帰、伍長階級にて再訓練を受く。 霜月、サン・ジョセフ通りのエルネスト・コルブ社より短編集﹁Des 対﹂を自費出版。﹁ギ・ド・モーパッサン師に捧ぐ﹂との献辞記されたりき。しかれども売上は惨憺たるものに、後にルブランは﹁八百法かけ千冊刷りしに三、四十冊のみ売れき﹂とぼやける[11]。 霜月廿三日にフロベールの記念碑の落成式がルーアンの実家の付近なるソルフェリーノ庭園に行はるることを知りしルブランは、巴里への帰路の列車に、ギ・ド・モーパッサン、エドモン・ド・ゴンクール、エミール・ゾラ、Template:仮連結の乗車する区画にかづき込み、﹁Des 対﹂の書評を乞はむと試みるものの、むべのことながら彼らは除幕式に疲弊しおり、到底書評を願ふべき空気ならざりき。この件はルネ・モロが﹁シャンピモン﹂の筆名に﹁挿絵入り盗人﹂誌が記事にし、同時に﹁Des 対﹂への好意やうなる書評を載せたる[12]。 千八百九十一年の夏にはヴォコットに滞在、エトルタ近郊に所在するモーパッサンの別荘﹁ラ・ギエット荘﹂を訪れきといふ話を友人にしたれど、モーパッサンが果てにここを訪れしは千八百九十年の夏なるため、虚言の可能性著しく高き[13]。中堅作家への経歴の積み重ね
ルブランはヴォコットには千八百九十四年まで夏ごと滞在することとなる。千八百九十二年にはモーリス・ドネーに頼まれ、この地に喜劇脚本﹁女の平和﹂を共同執筆すれど、ドネーが共同執筆者なる彼の名をいださで脚本を発表せることにより、ルブランはこはく落胆する[14]。されども、同ころにエトルタに知り合ひしTemplate:仮連結は﹁ジル・金吹き物﹂紙のヴィクトール・デフォセ会長を取次、これによりルブランは﹁ジル・金管楽器﹂にコラムニスト兼書き遣り物語家にて用ゐらる。神無月三日には早速ルブランの短編﹁いつはりなり!︵副題‥なやむわたり︶﹂載せられ、これによりルブランの名が世に知れ渡るべくなりき。同日、第二訓練期間にてルブランは第十一連隊に原隊復帰、神無月丗日まで再訓練を受く。師走三日、はやくより入会を求めたりし作家協会の準会員となる。こは﹁女の平和﹂なるルブランの著作権を守るためにも要ることなりき。師走廿二日、Template:仮連結に﹁女の平和﹂の催しの幕開かる。千八百九十三年卯月九日、﹁ジル・金吹き物﹂に長編物語﹁Une femme﹂の連載が始め、皐月廿三日にオランドルフ社より単行本出版さる。オランドルフ社よりは千八百九十四年卯月十日にも﹁Ceux qui souffrent﹂の出版さるることとなる。千八百九十四年水無月十一日には﹁自転車﹂の題名に﹁ジル・金吹き物﹂に時評載せらる。千八百九十五年卯月四日、セーヌ県裁判所におきて既に疎遠となれる妻魔梨威よりの離縁請求認められ、卯月廿七日に離縁成立す。これに関し、ルブランは﹁ジル・金吹き物﹂の時評に﹁きみは、おぼろけなるなり﹂と前妻魔梨威を評せし[15]。霜月初旬にはオランドルフ社より﹁L’Œuvre de mort﹂出版さる。こは﹁使者・仏蘭西﹂や﹁新聞と本の雑誌﹂等の書評におきて絶賛を受けし[16]。ルブランは﹁ジル・金吹き物﹂以外の著名誌への載せ望みはじめ、竿・エルビュに﹁両天下評論﹂誌への口利きを頼めど、つひにこの試みは過ちに終はりし[17]。 千八百九十六年弥生、運動記者のTemplate:仮連結の設立せる自転車円﹁芸術の・循環・倶楽部﹂に入会。これが後にルパン続き生みいだすひまとなる[18]。皐月十二日には﹁ジル・金吹き物﹂に﹁征服されし自然﹂を寄稿、あらためて自転車への礼賛を示せり。また同月、オランドルフ社より中短編集﹁Les Heures de mystère﹂出版さる。千八百九十七年初頭頃、夫エドワール・ウルマンと別居中なりしマルグリット・ウォルムセールと出会ひ、語らひを始むる[19]。四つごもり、オランドルフ社より﹁アルメルとクロード﹂出版さる。師走、﹁ジル・金吹き物﹂に自転車を主題にせる物語﹁Voici des ailes!﹂載せらる。﹁いやいやながら ルパン生みいだしし作家 モーリス・ルブラン伝﹂の著者なる男・ドゥルワールはこの作品につきて、﹁ニーチェの響きが見出すべし﹂﹁自転車は人に超人の生を与ふるなり﹂と評したる[20]。師走廿日、当時発行部数六十五万部を誇れる日刊紙﹁Template:仮連結﹂に短編を寄稿。前後しコラムニストにて契る[21]。千八百九十八年如月、オランドルフ社より﹁Voici des ailes!﹂出版さる。この際、オランドルフ社編集長の頼みにより匿名に新刊案内を成し。加へ、﹁早撮り写真﹂と題する人物評も執筆すれど、この中に﹁フロベールとモーパッサンの同郷人。彼らより貴重なる言加へを受けたりき﹂と騙れる[22]。五年もの不況
されど、順調かと覚えし作家にての経歴にも千八百九十九年頃より陰さしそむ。恋人マルグリットの離婚調停うまくゆかず、ルブランは心身ともに健康を損なへる[23]。加へ、﹁ジュルナル・デ・デバ﹂に載せられし短篇物語をまとめし﹁Les Lèvres 結﹂が水無月に売り出されしものの売れ行きは芳しからず、生業の面にも苦境に陥りし[24]。果てとなるべき訓練兵役も﹁消化不良と羸痩︵るいせむ︶がため、千八百九十九年神無月廿八日、巴里特別委員会によりかりそめなる兵役免除となりき﹂。なほ千九百年神無月五日には﹁ルーアンの特別委員会より、極度の羸痩と慢性胃病がため﹂、兵役義務を解かれたり。[25] わりなき雌伏の時なりつつもルブランは姪やブルゴーニュのプーク=レ=ゾー村に温泉療養しつつ書き下ろしの物語手掛け、千九百年皐月十日には丸細胞・プレヴォーならびにジュール・ルナール︵﹁にんじん (物語)﹂の英訳に際し、妹ジョルジェットとその恋人モーリス・メーテルランクとともにルブランは訳者の仲介を手掛けたりき︶を推薦者にて仏蘭西文芸家協会へ入会申請を行なへり。この申請は無事神無月廿九日に認めらるることとなる。千九百一年如月初頭に、書き下ろし自伝長編﹁L’Enthousiasme﹂がオランドルフ社より刊行さる。こはルブランとせば相当の推敲とつとめとを重ねし作品なりし[26] が、反響はさしてなく、初動部数も千部程度とあはれがるべき数字に収まりし[27]。 この頃、ピエール・ラフィットの興しし﹁Les Éditions Pierre Lafitte et Cie﹂社よりをんな向け流行り誌﹁Femina﹂への寄稿頼み受け、千九百一年長月十五日に﹁困難なる選択﹂を発表。千九百二年水無月よりは﹁Les Yeux purs﹂の連載を始む。同年葉月十二日、マルグリットが長男クロードを極秘出産。また同ころに、かのアンリ・デグランジュの頼み受け、﹁自動車・自転車﹂紙︵のちに﹁自動車﹂紙に改名︶に長月七日より短編の冒険・行ひ物語を寄稿しそむ。ルブランがそれまで書きこし心理物語・純文学物語とはかたの異なるこれらの頼みを受けしは単純に経済的なるよしによるものに︵﹁ジル・金吹き物﹂誌よりの頼みは既に停止せり︶、なほ彼とせば渋々といひし面のこはかりし[28]。千九百三年、﹁Template:仮連結﹂紙の付録﹁Le Petit 誌Illustré﹂に寄稿を始め、葉月丗日には中篇﹁シャンボン通り円の罪﹂を発表。﹁その題材はアルセーヌ・ルパンの﹃罪のな﹄冒険を予感さす﹂と男・ドゥルワールはこの作品につきて述べたる[29]。千九百四年水無月、オランドルフ社より﹁自動車﹂紙発表作品を中心にせる短編集﹁Gueule-rouge 八十-chevaux﹂が出版。この作品は﹁それまでルブランが執筆しこし心理物語とルパンの冒険との接点にて位置づけらる﹂と、男・ドゥルワールは分析せる[30]。師走廿九日、マルグリットとエドワール・ウルマンの離縁がセーヌ県裁判所に成立。千九百五年睦月廿四日、父エミールが逝去。享年七十五歳なりし[31]。ルパンの生まれ、文芸作家の道との訣別
はやく中堅作家にて名を成せるルブランなれど、それまで出版されし十冊の総売上は二〜三万部程度に、生業作家とせばさらなる躍進要りありき。そのため千九百四年には一幕ものの戯曲を数篇発表するなど新機軸に挑みしものの、こはすなはち成功するものならざりし[32]。それと同ころに、ピエール・ラフィットと手のアンリ・バルビュスは当時隆盛を誇れる雑誌﹁Template:仮連結﹂の対抗馬となる雑誌﹁Template:仮連結﹂創刊号を千九百五年如月十五日に売り出し。かくて、英吉利に﹁シャーロック・ホームズ続き﹂の載せにより大商ひとなれる﹁子縄・雑誌﹂の成功踏まへ、これまで﹁Femina﹂誌に頼み通りの原稿を執筆せるルブランに新たに﹁冒険短篇物語﹂の執筆を頼む。ルブランの世なる最大の転機到来なりし[33]。 ルブランは﹁自動車﹂紙や﹁Le Petit 誌Illustré﹂に載せられし作品群を習作とし、わざといたはることもなく無意識やうに、軽妙に魅惑やうなる﹁盗人紳士﹂のアルセーヌ・ルパンをつくりいだしし[34]。千九百五年文月十五日に﹁Je sais tout﹂第六号に発表せる読み切り﹁アルセーヌ・ルパンの逮捕﹂が大おぼえとなり﹁Je sais tout﹂の売り上げも好成績なりしため、ラフィットと 丸細胞・ルールー︵﹁ジル・金吹き物﹂誌に執筆せる彼もラフィットの会社に転職せり︶ギュルス に滞在し、﹁自動車﹂紙の原稿にかかりきりなりしルブランの元を葉月に訪れルパンの続編書くべく説得せり。ルブランは﹁強盗は投獄されたるぞ﹂と反論せるものの、ラフィットは﹁脱獄させよ﹂と応酬し、﹁続けよ。仏蘭西のコナン・ドイルになるるなり。栄光を手にするなり﹂とそそのかしき。さりとて﹁他の分野の文に専念せばや﹂と渋るルブランに対し、ラフィットは﹁そうかい?他の分野にこころばみしところでどうにもならずよ。心理物語は終はりけり。今や﹃幻想と怪奇の文﹄の世なり︵こは翌月の﹁Je sais tout﹂に載せらるるTemplate:仮連結﹂の論文の題名にもありき︶﹂と返しき。﹁大衆﹂物語作家に﹁身を落とす︵ルブラン自身の言の葉なり︶﹂事を嫌がるルブランの宿泊先をラフィットはほぼ日ごろ訪れ、﹁文やうなる物語を書くばかりにてありぬべし﹂と繰り返し頼み込み続けき。結果、経済的なるよしもありルブランは続編を書くことにし、以後の作家世のおほかたをルパンに注ぎ込むこととなりし[35]。 ルパンの﹁始めの十二の短篇﹂の原稿とともにルブランが巴里に戻りし後、霜月十五日売り出しの﹁Je sais tout﹂は次号にルパン続きの載せ仄めかし、翌月号には﹁第一回ルパン懸賞﹂つきに﹁獄中のアルセーヌ・ルパン﹂を載せし[36]。千九百六年睦月丗一日、離縁に伴ふ法の猶おもひかけ間の終はりしことにより、晴れルブランはマルグリットと正式にあひき。新居はクルヴォー通り八番地の長屋の六階なりし︵この世、家賃は高層階に行くほど安き傾向ありき︶[37]。 皐月、ルパン発表前夜に書きし戯曲﹁兮Pitié﹂の上演がアントワーヌ劇場に行はるれど、この作品は大過ちに、上演は八たびに打ち切られき。皐月六日、劇場あるじのアンドレ・アントワーヌは日記にかく記せり。﹁モーリス・ルブラン氏のめでたき戯曲﹃兮Pitié﹄の︵観客つき︶総稽古が、昨日、さんざんなる結果に終はると、作者は﹃よろしき、まらうどに何が要かはよく分かれり。まめやかなる劇作は思ひ絶えむ。これよりは金を稼ぐためにこしらふるぞ﹄と我に言ひき﹂。また、のちにアントワーヌはいくつかの著書にこうも回想せり。﹁本質的に人の、深く掘り下げし作品をもちて︵戯曲作家にての︶初舞台を飾りき﹂が、﹁めでたき演技﹂にかかはらず﹁なかなかすさまじく迎へられき﹂、﹁﹃兮Pitié﹄を是非とも︵再度︶上演せばやと思ひき。いと価値のある作品なれど、観客が正当に評価せべく見えず。﹂﹁この過ちの後、作者は演劇思ひ絶え物語に専念し、アルセーヌ・ルパンをもちて富と名とを勝ち取ることになる﹂[38]。同月の﹁Je sais tout﹂には﹁アンベール婦人の金庫﹂が﹁第五たびルパン懸賞﹂とともに載せらるれど、その回のとぶらひは﹁ルパンの対決するなにしおふ探偵とは誰か?﹂に、次号には﹁遅かりしシャーロック。ホームズ﹂載せられき。結果、﹁Je sais tout﹂にはホームズを無断用ゐられしコナン・ドイルよりの抗議文やられきたり。一方のルブランはと言はばちょうど﹁ルパン対ホームズ﹂﹁奇巌城﹂といふホームズを敵役とする長編二本執筆中に、以後﹁ホームズ﹂の名はアナグラムによりあやし名さるることになる[39]。師走廿五日、﹁自動車﹂紙に﹁聖誕祭﹂載せらる。ルパンの成功汲み、著者名の下には﹁訳権持ち﹂の但し書きがルブランの作品とせば初めて記述されき。なほ、翌千九百七年如月七日に載せられし﹁駆け落ち専門﹂が﹁自動車﹂紙への果ての寄稿となる[40]。 日ごろよりルブランは健康上のよしより自粛せる文士どもとの社交を再開す。弥生、猟官運動が功奏し、文芸家協会の委員に就任、皐月廿七日の協会会合に﹁訳権に関する事項﹂の担当委員に任命さるる[41]。皐月売り出しの﹁Je sais tout﹂に載せられし﹁心の七﹂︵予告にはルパンとガニマール警部に挟まれしルブランの写真載せられき︶ののち[42]、水無月十日に発表済作品の改稿ながらルパン始めの書籍となる短編集﹁怪盗紳士アルセーヌ・ルパン﹂がラフィットのソシエテ・将軍・デディシヨン・イリュストレ社より出版されき。﹁題名は短編集をいださむと思ひしに頭に浮かびき﹂とルブランは語れり。献辞はラフィットに捧げられき。﹁親愛なる友よ、君は、おのれにはゆめゆめ挑まむと思はざりし道に我を導きき。我は、底にかくも多くの喜びと文上の魅力を見出しければ、この第一巻の冒頭に君の名記し、我が君への友情とうつろはぬ感謝の意を表すがむべと思ふ﹂。優れし商売人なりしラフィットは初版は二千二百部に限り、版重ね広告を兼ぬるよしを選びし引用エラー:<ref>
タグ内の引数が無効です。水無月十二日、ソシエテ・将軍・デディシヨン・イリュストレ社と正式契り。初版二千二百部、あたひは三と五分法、印税は一部につき六十サンチーム、契り期間は十年。但し書きは﹁モーリス・ルブラン氏はピエール・ラフィット氏に探偵風俗物語は全てをさしいづること契り、一方、ピエール・ラフィット氏はそれらを同条件のもと同じ双書に出版することを契る。︵中略︶無下一年に一冊の割合に出版し、これらの書籍のうちの一冊の売上げが、売り出し後一年に三千部を上回らざりしついでには、ピエール・ラフィット氏は本契りを解除する権利を有す﹂といふものなりし引用エラー: <ref>
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大内裏へ
翌千九百八年睦月十三日、文芸家協会に﹁物語﹃アルセーヌ・ルパン﹄がブカレストの新聞﹃羅馬尼亜﹄に無断転載されき﹂との廉に、当該新聞を訴ふるために協力を求む。また同ころより各国訳への営み働きをはじむる[43]。睦月十七日、文芸家協会なる功績により、﹁公教へと美術﹂の分野にレジオン・ド・ヌールのシュバリエ章を受章[44]。如月十日、﹁ルパン対ホームズ﹂が出版。連載版より大幅なる改訂なされ、結末までもが変へられたりし[45]。この年の秋頃、演劇作家フランシス・クロワッセと共作せる戯曲﹁ルパンの冒険﹂の脚本が依頼者アベル・ドゥヴァルへ納品さるる[46]。この四幕物の舞台は神無月廿八日の最終予行より爆ぜやうなる人気見せ、長期やうに上演を重ぬる[47]。霜月より﹁Je sais tout﹂に﹁奇巌城﹂が﹁新アルセーヌ・ルパン懸賞﹂とともに連載始め。これにつきて、ルブランは﹁いま無用なりき。我はいまアルセーヌ・ルパンよりかれられざりき﹂と述懐せり。﹁エトルタの針岩の中を穿つ﹂といふ案のひまはけふも不明なるままなる[48]。 千九百九年弥生廿八日、文芸家協会の総会にルブランは副会長︵定数二名︶に選ばる。水無月十五日、﹁奇巌城﹂の単行本の売り出さるる[49]。霜月八日、さる晩餐会に文芸家協会の代表にて出席し、ロラン・ボナパルトに文賞の建てを提案する[50]。弥生五日より﹁ジュルナル・デ・デバ﹂におきて﹁八百十三﹂が連載始め。気屯・ルルーとレオン・サジイを擁する好敵文﹁Template:仮連結﹂に﹁ジュルナル・デ・デバ﹂の対抗するよしがルパンの連載なりき。水無月、﹁八百十三﹂の単行本売り出さる。初版は一万二千部といふ当時とせば強気なる部数に、さりとて葉月と師走には五千部づつ増刷されし[51]。神無月廿八日より、ヴィクトール・ダグレとアンリ・ド・ゴルスが共作せる舞台劇﹁アルセーヌ・ルパン対エルロック・ショルメス﹂がシャトレ座に千九百十年三つごもりまで上演され、大当たりとなりき。こは前年にルブランが二人と交はしし契りに基づく作品なりし[52]。霜月十八日、ラフィットが新たに興しし日刊紙﹁エクセルシオール﹂第三号にルブランの﹁ルパン物ならず﹂中篇﹁うろこ柄の桃色の洋服﹂載せられき。 ルパンは大あたり取り、ルブランに作家にての名と、経済の成功をもたらしき。ドイルがホームズ物を飽くまで第三者の視点に描きしに対し、ルブランは千九百七年発表の﹁怪盗紳士ルパン﹂に、おのれをルパンの伝記作家にて現れさせたる︵﹁王妃の首飾り﹂、﹁心の七﹂︶。 ドイルはホームズシリーズの成功に対してなかなか困惑し、罪物語に成功することを、より﹁尊敬に値す﹂文の情熱より遠ざくるものに、生活妨害されたべくさえありと感じたりきともいはれたり。同様にルブランも、はやく純文・心理物語作家を志せる事もあり、犯罪小説・探偵小説なるルパン続きに名を博する事に忸怩たるものありきといはる。ドイルがホームズをライヘンバッハの滝に落とししと同様、ルブランも﹃八百十三﹄︵千九百十年︶にルパンを自殺させたり。﹁ルパンが我が影なればはあらず、我がルパンの影なり﹂といふ言の葉などにも、その苦悩の跡見らる。その後は歴史物語﹃国境﹄︵千九百十一年︶、モーパッサンの影響のある短編集﹃桃色の貝殻綾の洋服﹄︵千九百十一年︶、空想やうなる作風の﹃棺桶島﹄︵千九百十九年︶、SFに分類さるる﹃三つの眼﹄︵千九百十九年、第一接触・題︶、﹃いな・マンズ・国﹄︵千九百二十年︶などを発表。また千九百十五年頃より映画公開と並行し売り出さるる小説シネロマンといふかたち生まると、その執筆者に名を連ねき。 その後千九百二十年﹃アルセーヌ・ルパンの帰り﹄ににルパン蘇らせ、千九百二十七年には新しき探偵体育館・棒網ものを発表すれど、この棒網もはやルパンなるが後に明かされき。千九百三十年代には文界よりも作家にて高き評価得べくなり、﹃ラ・レピュブリック﹄紙にフレデリック・ルフェーヴルより﹁けふの偉大なる冒険作家のひとりなり﹂﹁同時に純然たる物語家、正真正銘の作家なり﹂と賞せられたる[53]。千九百三十年代には色物語﹃裸婦の絵︵L'image de 兮femme nue *こは絵ならず彫刻。裸婦像︶﹄﹃青き芝生の醜聞﹄も執筆。物語の戯曲化にも意欲注ぎ、千九百三十五年には﹃赤き数珠﹄を舞台化せる﹃闇の中の男﹄が大成功を収めき。 晩年、﹁ルパンとの出会ひは事故のごときものなりき。されど、そは幸運な事故なりもこそ﹂との言の葉残し、そのおのれの経歴も受け入れらるべくなりきとも見られ、﹃アルセーヌ・ルパンの数十億﹄︵千九百三十九年︶にいたるまで、ルパン続きを執筆す。 ルブランは千九百十九年葉月に文への貢献︵直接のよしは﹁国民の英雄・ルパン﹂のつくりいだし︶をもちてレジオンドヌール勲章授与され、千九百四十一年にペルピニャンのサン=ジャン病院にかくれき。死因の一つ︵直接のものならず︶は肺うっ血。妹ジョルジェットの死を息子のクロードより伝へらるれど、その時にはいま心の無くなれる[54]。没後
thumb|モーリス・ルブラン博物館﹁ルパンの隠れ家﹂le Clos Lupin, Musée de Maurice Leblanc クロード・モネの絵になにしおふ大西洋岸の町エトルタには、彼の住居を基にせるモーリス・ルブラン思い出館、通称﹁アルセーヌ・ルパンの隠れ家﹂あり。またモネの絵の題材にもなりしなにしおふエトルタの岸壁は、その頂上に登ると崖の内部にかづくべかるべくなりており、﹃奇巌城﹄に現るる暗号がやがて金属盤に掲示されたり。また、ルブランの墓は巴里のモンパルナス墓地なり。 伝記ならねど、日の本に隆巴書き下ろしし戯曲﹃ルパン﹄は劇中劇のルパンと往還する形にルブランの苦悩を描きし作品に、初演は仲代達矢がルブラン、ルパンの二役を演じき。 二千十二年に、千九百三十六-丗七年に執筆せる﹃ルパン果ての恋﹄の草稿発見され、孫のフロランス・ベスフルグ・ルブランの序文を付して、ルパンの果ての冒険にて出版されき。挿話
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