「レダと白鳥 (レオナルド)」の版間の差分
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| museum = 現存せず(おそらく破棄あるいは紛失) |
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== 概要 == |
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[[File:Raffaello, studio della leda e il cigno di leonardo.jpg|thumb|240px|ラファエロによる模写。]] |
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レオナルド・ダ・ヴィンチは2つの異なる﹃レダと白鳥﹄を構想したことが知られている。1つはレダがひざまずいたタイプであり、もう1つは立像タイプの2つである。絵画の発注者は不明である。作品に関する記録文書、契約書、レオナルド・ダ・ヴィンチへの支払いの記録は現在まで発見されていない。おそらくこれは芸術家本人による個人的な作品と見なすべきである。美術史家ダニエル・アラス︵Daniel Arasse︶は主題の独創性について﹁[[ローマ]]の[[サン・ピエトロ大聖堂]]のブロンズの扉にある[[アントニオ・フィラレーテ]]のわずかな[[レリーフ|レリーフ彫刻]]を除けば、レオナルド・ダ・ヴィンチはレダと白鳥を重要な構図の中心人物として選択した最初の人物であった﹂と明確に述べている<ref>Daniel Arasse, ''Léonard de Vinci, le rythme du monde'', Hazan p. 420-428.</ref>。まずレオナルド・ダ・ヴィンチは1503年から1504年頃に、レダがひざまずいた姿勢をした﹃レダと白鳥﹄を構想した。それはちょうど彼が﹃[[アンギアーリの戦い (絵画)|アンギアーリの戦い]]﹄の制作に取り組んでいた時期にあたる。[[ウィンザー城]]の王立図書館には﹃アンギアーリの戦い﹄のためのものと思われるレオナルド・ダ・ヴィンチの馬のデッサンの隣に、非常に小さな卵らしきものとともにひざまずいた女性が描かれた紙片が所蔵されている。おそらく彼はひざまずいたレダの構想に基づく簡単な素描を制作しており、弟子のジャンピエトリーノはそれをもとに1508年から1513年の間に絵画を制作した。レオナルド・ダ・ヴィンチが最初の構想からやや遅れて、立像タイプのレダの原寸大の[[カートゥーン|カルトン]]を制作したのは1年後の1505年頃である |
レオナルド・ダ・ヴィンチは2つの異なる﹃レダと白鳥﹄を構想したことが知られている。1つはレダがひざまずいたタイプであり、もう1つは立像タイプの2つである。絵画の発注者は不明である。作品に関する記録文書、契約書、レオナルド・ダ・ヴィンチへの支払いの記録は現在まで発見されていない。おそらくこれは芸術家本人による個人的な作品と見なすべきである。美術史家ダニエル・アラス︵Daniel Arasse︶は主題の独創性について﹁[[ローマ]]の[[サン・ピエトロ大聖堂]]のブロンズの扉にある[[アントニオ・フィラレーテ]]のわずかな[[レリーフ|レリーフ彫刻]]を除けば、レオナルド・ダ・ヴィンチはレダと白鳥を重要な構図の中心人物として選択した最初の人物であった﹂と明確に述べている<ref>Daniel Arasse, ''Léonard de Vinci, le rythme du monde'', Hazan p. 420-428.</ref>。まずレオナルド・ダ・ヴィンチは1503年から1504年頃に、レダがひざまずいた姿勢をした﹃レダと白鳥﹄を構想した。それはちょうど彼が﹃[[アンギアーリの戦い (絵画)|アンギアーリの戦い]]﹄の制作に取り組んでいた時期にあたる。[[ウィンザー城]]の王立図書館には﹃アンギアーリの戦い﹄のためのものと思われるレオナルド・ダ・ヴィンチの馬のデッサンの隣に、非常に小さな卵らしきものとともにひざまずいた女性が描かれた紙片が所蔵されている。おそらく彼はひざまずいたレダの構想に基づく簡単な素描を制作しており、弟子のジャンピエトリーノはそれをもとに1508年から1513年の間に絵画を制作した。レオナルド・ダ・ヴィンチが最初の構想からやや遅れて、立像タイプのレダの原寸大の[[カートゥーン|カルトン]]を制作したのは1年後の1505年頃である{{sfn|池上英洋|2017|p=83-84}}。そこには立った姿のレダに加えてゼウスが変身した白鳥と、2個の卵、4人の子供が描かれていた。これはカルトンを見て描いたと思われる[[ラファエロ・サンツィオ]]の素描がやはりウィンザー城に所蔵されているため確実と考えられている︵ただしラファエロはレダ、白鳥、子供1人のみ描いている︶。また芸術家本人は﹁ジャコモ・アルフェオ︵{{it|Jacomo Alfeo}}︶氏の妻はレダのモデルとして役立つかもしれない﹂と述べている<ref>Ms Windsor 128881.</ref>。
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レオナルド自身によって制作された﹃レダと白鳥﹄の完成作が存在した可能性はあり、実際にレオナルド・ダ・ヴィンチの死後に本人が制作したと思われる﹃レダと白鳥﹄についての言及がいくつか見られる。しかしレオナルド派の多くの複製では背景などいくつかの点において不一致が見られるため、完成作までは制作せず、カルトンのみに留まったのではないかという見解もある |
レオナルド自身によって制作された﹃レダと白鳥﹄の完成作が存在した可能性はあり、実際にレオナルド・ダ・ヴィンチの死後に本人が制作したと思われる﹃レダと白鳥﹄についての言及がいくつか見られる。しかしレオナルド派の多くの複製では背景などいくつかの点において不一致が見られるため、完成作までは制作せず、カルトンのみに留まったのではないかという見解もある{{sfn|池上英洋|2017|p=83-84}}<ref name="神話">﹃神話・神々をめぐる女たち﹄p.90。</ref>。レオナルド・ダ・ヴィンチの3つの基本的な伝記でレダについて言及しているは{{仮リンク|アノニモ・ガディアーノ|en|Anonimo Gaddiano}}だけであり<ref>Manuscrit conservé à la bibliothèque Laurentienne de Florence, publié par André Chastel dans ''Léonard de Vinci, Traité de la peinture'', Berger-Levrault, 1987, p.34-38</ref>、[[ジョルジョ・ヴァザーリ]]はこの点について言及していない。レダの言及は[[ジャン・ジャコモ・カプロッティ|サライ]]の死後の財産の目録にあり、リストされた絵画の中で︵たとえば﹃[[モナ・リザ]]﹄を越える︶最大の価値がつけられている。16世紀の画家兼理論家{{仮リンク|ジョバンニ・パオロ・ロマッツォ|en|Giovanni Paolo Lomazzo}}は、本作品を﹁白鳥を抱きしめる裸のレダ、彼女の目は臆病に下がった﹂と説明している<ref>Giovann Paolo Lomazzo, Trattato della Pittura, 1584.</ref>。[[ニコラ・プッサン]]の友人であり後援者である{{仮リンク|カッシアーノ・ダル・ポッツォ|en|Cassiano dal Pozzo}}はフランスの枢機卿{{仮リンク|フランチェスコ・バルベリーニ (1597年–1679年)|en|Francesco Barberini (1597–1679)|label=フランチェスコ・バルベリーニ}}の外交使節の一員であった1625年に、[[フォンテーヌブロー宮殿]]で絵画を見る機会があった。彼は貴重な証言を残している。﹁立っているレダは、ほとんど裸で白鳥と2つの卵をともなっており、その卵の殻から4人の子供︵カストルとクリュタイムネストラ、ポルデウケスとヘレネ︶が孵化したように見える。この作品は非常に完成されているが、特に女性の古色は非常に乾燥しており、風景と残りの部分は非常に勤勉に︵細心の注意を払って︶制作されている。3枚の長い板がバラバラになっていて、塗装の一部が剥がれているため、状態が悪い﹂<ref>Manuscrit conservé à la Bibliothèque Barberini, cité par Françoise Viatte dans Léonard de Vinci, Dessins et manuscrits, rmn, 2003, p.301-304.</ref>。この絵画は1625年のカッシアーノ・ダル・ポッツォの説明に最後に登場する<ref>Wallace, Robert (1966). The World of Leonardo: 1452–1519. New York: Time-Life Books. pp.127, 160, 161.</ref>。レオナルド・ダ・ヴィンチの完成された作品があったとすれば、フォンテーヌブロー宮殿で記録された作品が該当すると考えられている。いずれにせよ、フォンテーヌブロー宮殿には1540年、1625年、1642年、1692年に立像の﹃レダと白鳥﹄が所蔵されていたことが記録されており、1694年に記録されたのを最後に1775年以前に失われている{{sfn|池上英洋|2017|p=83-84}}。
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原寸大カルトンはレオナルド・ダ・ヴィンチの死後、『{{仮リンク|アトランティコ手稿|en|Codex Atlanticus}}』などとともに{{仮リンク|フランチェスコ・メルツィ|en|Francesco Melzi}}に相続されたらしく、[[彫刻家]]{{仮リンク|ポンペオ・レオーニ|it|Pompeo Leoni}}の手を経てアルコナーティ家のコレクションに入った。その後、1721年にカゼネディ家に移ったが、1730年のカゼネディ家の記録を最後に所在が分からなくなり、失われたと考えられている |
原寸大カルトンはレオナルド・ダ・ヴィンチの死後、『{{仮リンク|アトランティコ手稿|en|Codex Atlanticus}}』などとともに{{仮リンク|フランチェスコ・メルツィ|en|Francesco Melzi}}に相続されたらしく、[[彫刻家]]{{仮リンク|ポンペオ・レオーニ|it|Pompeo Leoni}}の手を経てアルコナーティ家のコレクションに入った。その後、1721年にカゼネディ家に移ったが、1730年のカゼネディ家の記録を最後に所在が分からなくなり、失われたと考えられている{{sfn|池上英洋|2017|p=83-84}}。 |
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== ひざまずくレダ == |
== ひざまずくレダ == |
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===ジャンピエトリーノ版=== |
===ジャンピエトリーノ版=== |
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ジャンピエトリーノ版は{{仮リンク|カッセル市立美術館|en|Museumslandschaft Hessen Kassel}}に所蔵されている。1749年にパリで発見されたのち、1756年に[[ヘッセン=カッセル方伯領|ヘッセン=カッセル方伯]][[ヴィルヘルム8世 (ヘッセン=カッセル方伯)|ウィルヘム8世]]によって取得された |
ジャンピエトリーノ版は{{仮リンク|カッセル市立美術館|en|Museumslandschaft Hessen Kassel}}に所蔵されている。1749年にパリで発見されたのち、1756年に[[ヘッセン=カッセル方伯領|ヘッセン=カッセル方伯]][[ヴィルヘルム8世 (ヘッセン=カッセル方伯)|ウィルヘム8世]]によって取得された{{sfn|池上英洋|2017|p=69-70}}。このときすでに後代の塗り直しによって卵と子供が多い隠されていたため、レオナルド・ダ・ヴィンチの﹃カスタリア︵慈愛︶﹄と勘違いされていた{{sfn|池上英洋|2017|p=69-70}}。塗り直しの除去は1806年から1835年の間に行われた。
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これはレオナルド・ダ・ヴィンチの白鳥を持たない「ひざまずくレダ」の最も優れた複製である。[[赤外線]]リフレクトグラフィーの科学的調査によってレダを表す主題の下に、おそらくレオナルド・ダ・ヴィンチの[[カートゥーン|カルトン]]から派生した、師に非常に忠実な『[[聖アンナと聖母子]]』の構図が発見された |
これはレオナルド・ダ・ヴィンチの白鳥を持たない﹁ひざまずくレダ﹂の最も優れた複製である。[[赤外線]]リフレクトグラフィーの科学的調査によってレダを表す主題の下に、おそらくレオナルド・ダ・ヴィンチの[[カートゥーン|カルトン]]から派生した、師に非常に忠実な﹃[[聖アンナと聖母子]]﹄の構図が発見された{{sfn|池上英洋|2017|p=69-70}}。これはジャンピエトリーノが師に近いことを裏付けており︵ジャンピエトリーノは弟子の1人として彼レオナルド・ダ・ヴィンチのノートに記載されている︶、絵画がレオナルドが生きている間に作られたことを示唆している。制作時期についてツェルナー︵Zöllner︶は1508年から1513年の間を提案している<ref>Frank Zöllner, Léonard de Vinci, tout l’œuvre peint et graphique, Taschen, 2003, p.246.</ref>。{{-}}
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== 立っているレダ == |
== 立っているレダ == |
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===チェザーレ・ダ・セスト版=== |
===チェザーレ・ダ・セスト版=== |
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この作品は[[ソールズベリー]]の[[ペンブルック伯爵]]の{{仮リンク|ウィルトン・ハウス|en|Wilton House|label=ウィルトン・ハウス・トラスト}}に所蔵されている。失われたレオナルド・ダ・ヴィンチの原作の模写として知られ、弟子の{{仮リンク|チェザーレ・ダ・セスト|en|Cesare da Sesto}}によって制作されたことが確実視されている。このバージョンはおそらくアランデル卿のコレクションに由来している。一般的に師に最も忠実であると考えられ、特にレダの頭部はウィンザー城のロイヤル・コレクション(RL.12516r)に所蔵されているレダの頭部の習作と非常によく似ている |
この作品は[[ソールズベリー]]の[[ペンブルック伯爵]]の{{仮リンク|ウィルトン・ハウス|en|Wilton House|label=ウィルトン・ハウス・トラスト}}に所蔵されている。失われたレオナルド・ダ・ヴィンチの原作の模写として知られ、弟子の{{仮リンク|チェザーレ・ダ・セスト|en|Cesare da Sesto}}によって制作されたことが確実視されている。このバージョンはおそらくアランデル卿のコレクションに由来している。一般的に師に最も忠実であると考えられ、特にレダの頭部はウィンザー城のロイヤル・コレクション︵RL.12516r︶に所蔵されているレダの頭部の習作と非常によく似ている{{sfn|池上英洋|2017|p=69}}。
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===ボルゲーゼ美術館版=== |
===ボルゲーゼ美術館版=== |
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これは[[ローマ]]の[[ボルゲーゼ美術館]]に所蔵されているバージョンである。最初の記録である1693年のボルゲーゼ家の財産目録ではレオナルド・ダ・ヴィンチに帰属されていた。19世紀以降は制作者として[[ソドマ]]、[[バッキアッカ]]、[[ジュリアーノ・ブジャルディーニ]]、{{仮リンク|フランチェスコ・メルツィ|en|Francesco Melzi}}らの名が挙げられているが、様式的な研究からは否定的な結果が出ている。科学的調査はもともと2つの卵と4人の子どもが描かれていたが、後代の加筆で現在の姿になったことを明らかにしている |
これは[[ローマ]]の[[ボルゲーゼ美術館]]に所蔵されているバージョンである。最初の記録である1693年のボルゲーゼ家の財産目録ではレオナルド・ダ・ヴィンチに帰属されていた。19世紀以降は制作者として[[ソドマ]]、[[バッキアッカ]]、[[ジュリアーノ・ブジャルディーニ]]、{{仮リンク|フランチェスコ・メルツィ|en|Francesco Melzi}}らの名が挙げられているが、様式的な研究からは否定的な結果が出ている。科学的調査はもともと2つの卵と4人の子どもが描かれていたが、後代の加筆で現在の姿になったことを明らかにしている{{sfn|池上英洋|2017|p=69}}。
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===ウフィツィ美術館版=== |
===ウフィツィ美術館版=== |
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これは﹃[[スピリドンのレダ]]﹄︵{{en|Spiridon Leda}}︶と呼ばれているもので、フィレンツェの[[ウフィツィ美術館]]に所蔵されている。﹁並外れた品質と保存状態の良さ﹂で知られるこの作品は、ロジェール侯爵︵{{fr|marquis de la Rozière}}︶のコレクションで初めて言及された。その後、ロブル男爵︵{{fr|Baron de Roublé}}︶の手に渡り、ルドヴィコ・スピリドン︵{{fr|Ludovico Spiridon}}︶によってパリからローマに移された。[[第二次世界大戦]]中にガロッティ・スピリドン公爵夫人から[[ナチス・ドイツ]]の[[ヘルマン・ゲーリング]]によって買収されたが、1948年に美術史家の{{仮リンク|ロドルフォ・シビエロ|en|Rodolfo Siviero}}によって回収された<ref>Rodolfo Siviero, historien d'art ayant étudié à Florence et à Berlin ; L'opera ritrovata: omaggio a Rodolfo Siviero. Firenze, Cantini,1984.</ref> |
これは﹃[[スピリドンのレダ]]﹄︵{{en|Spiridon Leda}}︶と呼ばれているもので、フィレンツェの[[ウフィツィ美術館]]に所蔵されている。﹁並外れた品質と保存状態の良さ﹂で知られるこの作品は、ロジェール侯爵︵{{fr|marquis de la Rozière}}︶のコレクションで初めて言及された。その後、ロブル男爵︵{{fr|Baron de Roublé}}︶の手に渡り、ルドヴィコ・スピリドン︵{{fr|Ludovico Spiridon}}︶によってパリからローマに移された。[[第二次世界大戦]]中にガロッティ・スピリドン公爵夫人から[[ナチス・ドイツ]]の[[ヘルマン・ゲーリング]]によって買収されたが、1948年に美術史家の{{仮リンク|ロドルフォ・シビエロ|en|Rodolfo Siviero}}によって回収された<ref>Rodolfo Siviero, historien d'art ayant étudié à Florence et à Berlin ; L'opera ritrovata: omaggio a Rodolfo Siviero. Firenze, Cantini,1984.</ref>{{sfn|池上英洋|2017|p=68}}。
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===フィラデルフィア美術館版=== |
===フィラデルフィア美術館版=== |
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1917年までジョンソン・コレクションに所属し、現在は[[フィラデルフィア美術館]]に所蔵されている。制作者としてはしばしば{{仮リンク|フェルナンド・イェーネス・デ・ラ・アルメディナ|es|Fernando Yáñez de la Almedina}}の名が挙げられる |
1917年までジョンソン・コレクションに所属し、現在は[[フィラデルフィア美術館]]に所蔵されている。制作者としてはしばしば{{仮リンク|フェルナンド・イェーネス・デ・ラ・アルメディナ|es|Fernando Yáñez de la Almedina}}の名が挙げられる{{sfn|池上英洋|2017|p=69}}。オランダ的な風景はレオナルド・ダ・ヴィンチのオリジナルからの逸脱を示唆している。人物と風景をそれぞれ別の画家が担当して制作に取り組んだ可能性が指摘されている<ref>{{cite web|title=Leda and the Swan |accessdate=2021/07/21 |url=https://www.philamuseum.org/collection/object/102166 |publisher=[[フィラデルフィア美術館]]公式サイト}}</ref>。
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===ヘイスティング版=== |
===ヘイスティング版=== |
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[[ヘイスティングズ侯爵]]のコレクションに所属していた作品。現在はロンドンのギブス・コレクションに所蔵されている |
[[ヘイスティングズ侯爵]]のコレクションに所属していた作品。現在はロンドンのギブス・コレクションに所蔵されている{{sfn|池上英洋|2017|p=69}}。
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===腰巻のレダ=== |
===腰巻のレダ=== |
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現在は所在不明の作品である。裏面に18世紀頃の﹁Leonardo dauincj﹂の銘記がある。2000年にチューリッヒで開かれた展覧会に出品された以外はほとんど何も知られていない。しかしレダと白鳥のポーズや卵と子供たちの配置などからレオナルド派のレダと白鳥から派生した作品であることは明白である。レダの腰の布は本作品が猥褻と考えられた後代の加筆と思われる |
現在は所在不明の作品である。裏面に18世紀頃の﹁Leonardo dauincj﹂の銘記がある。2000年にチューリッヒで開かれた展覧会に出品された以外はほとんど何も知られていない。しかしレダと白鳥のポーズや卵と子供たちの配置などからレオナルド派のレダと白鳥から派生した作品であることは明白である。レダの腰の布は本作品が猥褻と考えられた後代の加筆と思われる{{sfn|池上英洋|2017|p=70}}。
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===ルーヴル美術館の素描による模写=== |
===ルーヴル美術館の素描による模写=== |
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ルーヴル美術館所蔵の模写はレオナルド・ |
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===ラファエロの模写=== |
===ラファエロの模写=== |
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===ジャンピエトリーノ『ヴィーナスとキューピッド』=== |
===ジャンピエトリーノ『ヴィーナスとキューピッド』=== |
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この作品は[[ミラノ]]のネンビリーニ・コレクションに所蔵されている。レオナルド・ダ・ヴィンチの弟子ジャンピエトリーノに帰属されている本作品は、ヴィーナスのポーズにレダとの明確な影響を見ることができる。ジャンピエトリーノの他の作品との関連などから1510年代半ばの作と推定している |
この作品は[[ミラノ]]のネンビリーニ・コレクションに所蔵されている。レオナルド・ダ・ヴィンチの弟子ジャンピエトリーノに帰属されている本作品は、ヴィーナスのポーズにレダとの明確な影響を見ることができる。ジャンピエトリーノの他の作品との関連などから1510年代半ばの作と推定している{{sfn|池上英洋|2017|p=71}}。
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===ウィンザー城版:Inv no.12515=== |
===ウィンザー城版:Inv no.12515=== |
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紙にペンとインクで描かれている。髪は顔の左側面に緩めの小環でコイル状に編まれている。髪に比べて顔の質が低く、レオナルド・ダ・ヴィンチは顔を空白のままにした可能性があり、後から弟子が描き込んだことが考えられる<ref>{{cite web|title=The head of Leda c.1505-6, RCIN 912515 |accessdate=2021/07/21 |url=https://www.rct.uk/collection/912515/the-head-of-leda |publisher=ロイヤル・コレクション・トラスト公式サイト}}</ref>。左側に「questa sipo / levare eppo / re sanza gu/ asstarsi」とメモされている |
紙にペンとインクで描かれている。髪は顔の左側面に緩めの小環でコイル状に編まれている。髪に比べて顔の質が低く、レオナルド・ダ・ヴィンチは顔を空白のままにした可能性があり、後から弟子が描き込んだことが考えられる<ref>{{cite web|title=The head of Leda c.1505-6, RCIN 912515 |accessdate=2021/07/21 |url=https://www.rct.uk/collection/912515/the-head-of-leda |publisher=ロイヤル・コレクション・トラスト公式サイト}}</ref>。左側に「questa sipo / levare eppo / re sanza gu/ asstarsi」とメモされている{{sfn|池上英洋|2017|p=67-68}}。 |
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===ウィンザー城版:Inv no.12516=== |
===ウィンザー城版:Inv no.12516=== |
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紙にペンとインク、黒チョークで描かれている。1枚の紙片にレダの頭部が4つの角度から素描されている。レオナルド・ダ・ヴィンチの関心を捉えていた者は女性の表情というよりは髪型の方にある。非常に緻密であるため、実物を見て描いたものでないとされている |
紙にペンとインク、黒チョークで描かれている。1枚の紙片にレダの頭部が4つの角度から素描されている。レオナルド・ダ・ヴィンチの関心を捉えていた者は女性の表情というよりは髪型の方にある。非常に緻密であるため、実物を見て描いたものでないとされている{{sfn|池上英洋|2017|p=67-68}}。 |
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===ウィンザー城版:Inv no.12517=== |
===ウィンザー城版:Inv no.12517=== |
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===スフォルツェスコ城美術館版=== |
===スフォルツェスコ城美術館版=== |
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[[スフォルツェスコ城美術館]]に所蔵されているもので、紙に赤チョークで描かれている。美術史家[[ジョヴァンニ・モレッリ]]は1890年にソドマに帰属したが、{{仮リンク|アドルフォ・ヴェントゥーリ|en|Adolfo Venturi}}は1921年にレオナルド・ダ・ヴィンチに帰属した。{{仮リンク|カルロ・ペドレッティ|en|Carlo Pedretti}}や{{仮リンク|アレッサンドロ・ヴェッツォージ|en|Alessandro Vezzosi}}はヴェントゥーリを支持したが、異論も多く、ピエトロ・マラーニ(Pietro Marani)やマリア・テレーザ・フィオリオ(Maria Teresa Fiorio)たちはレオナルド・ダ・ヴィンチからの模写と考えており、フィオリオはジャンピエトリーノの作ではないかとしている |
[[スフォルツェスコ城美術館]]に所蔵されているもので、紙に赤チョークで描かれている。美術史家[[ジョヴァンニ・モレッリ]]は1890年にソドマに帰属したが、{{仮リンク|アドルフォ・ヴェントゥーリ|en|Adolfo Venturi}}は1921年にレオナルド・ダ・ヴィンチに帰属した。{{仮リンク|カルロ・ペドレッティ|en|Carlo Pedretti}}や{{仮リンク|アレッサンドロ・ヴェッツォージ|en|Alessandro Vezzosi}}はヴェントゥーリを支持したが、異論も多く、ピエトロ・マラーニ︵Pietro Marani︶やマリア・テレーザ・フィオリオ︵Maria Teresa Fiorio︶たちはレオナルド・ダ・ヴィンチからの模写と考えており、フィオリオはジャンピエトリーノの作ではないかとしている{{sfn|池上英洋|2017|p=67-68}}。
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== 影響 == |
== 影響 == |
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レオナルド・ダ・ヴィンチの﹃レダと白鳥﹄は人気を博し、いくつかの翻案作品を生んだ。よく知られているのが[[ヤコポ・ダ・ポントルモ]]、[[アンドレア・デル・サルト]]、[[バッキアッカ]]であり、彼らはいずれも立像の﹃レダと白鳥﹄を制作している。しかしこれらの作品ではレオナルドの影響が明らかである半面、レオナルドのレダに特徴的なねじれたポーズはなく、顔と腕の向きも一致している |
レオナルド・ダ・ヴィンチの﹃レダと白鳥﹄は人気を博し、いくつかの翻案作品を生んだ。よく知られているのが[[ヤコポ・ダ・ポントルモ]]、[[アンドレア・デル・サルト]]、[[バッキアッカ]]であり、彼らはいずれも立像の﹃レダと白鳥﹄を制作している。しかしこれらの作品ではレオナルドの影響が明らかである半面、レオナルドのレダに特徴的なねじれたポーズはなく、顔と腕の向きも一致している{{sfn|池上英洋|2017|p=71-73}}<ref name="神話" />。
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== 参考文献 == |
== 参考文献 == |
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* {{Cite book|和書 |author=責任編集: 友部直, 企画・監修: 中山公男, 高階秀爾 |title=神話・神々をめぐる女たち |publisher=集英社 |year=1979 |series=全集美術のなかの裸婦 3 / 座右宝刊行会編集 |NCID=BN02925020 |id={{全国書誌番号|80011392}} |url=https://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000001441960-00 |ref=harv}} |
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* {{Cite journal|和書|author=[[池上英洋]] |title=レオナルド派<レダと白鳥>再考――主題と源泉、伝播経路 |journal=東京造形大学研究報 |year=2017 |month=mar |issue=18 |pages=056-087 |naid=120006410240 |url=http://id.nii.ac.jp/1592/00000007/ |ref=harv}} |
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* 『神話・神々をめぐる女たち 全集美術のなかの裸婦3』[[中山公男]]監修、[[集英社]](1979年) |
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* [[池上英洋]]「[https://zokei.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=16&item_no=1&page_id=29&block_id=44 レオナルド派<レダと白鳥>再考 ―主題と源泉、伝播経路]」『東京造形大学研究報』18号、pp. 56–87(2017年) |
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* Françoise Viatte, in Léonard de Vinci, Dessins et manuscrits, RMN (2003) |
* Françoise Viatte, in Léonard de Vinci, Dessins et manuscrits, RMN (2003) |
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==関連項目== |
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{{レオナルド・ダ・ヴィンチ}} |
{{レオナルド・ダ・ヴィンチ}} |
2022年3月26日 (土) 22:28時点における版
イタリア語: Leda e il cigno 英語: Leda and the Swan | |
作者 | レオナルド・ダ・ヴィンチ(逸名画家、おそらくチェザーレ・ダ・セストによる複製の1つ) |
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種類 | テンペラ、板 |
所蔵 | 現存せず(おそらく破棄あるいは紛失) |
概要
ひざまずくレダ
ひざまずくレダの習作︵チャッツワース版︶
1504年頃。紙に黒チョーク、ペン・ブラウンインク、筆・ブラウンウォッシュで描かれている。デヴォンシャー公爵のコレクションとしてチャッツワース・ハウスに所蔵されている。レオナルド・ダ・ヴィンチによるこの習作はロッテルダムのボイマンス・ヴァン・ベーニンゲン美術館に所蔵されている素描による習作と似ている。フランソワ・ヴィアート︵Françoise Viatte︶は﹁レオナルド・ダ・ヴィンチが使用した腐食性の茶色のインクは構図の暗い影をいくらか損なわせた﹂と述べている[10]。 選択したポーズは芸術家のアドバイスに対応していると思われる。﹁もし何らかの理由で後ろ向きまたは横向きになっている人を表現したい場合は、あなたは彼女の足とすべての手足を彼女が頭を回している方向に動かしてはいけないが︵・・・︶関節に応じてその動きを分解しなさい[11]﹂。ひざまずくレダの習作︵ボイマンス版︶
制作年は1504年頃。紙にペン、ブラウンインク、黒チョークで描かれている。ボイマンス・ヴァン・ベーニンゲン美術館に所蔵されている。右下隅に17世紀から18世紀初頭のものと思われる﹁Lionardo da Vinci﹂の署名がある。肖像画家トーマス・ローレンス卿が所有したのち、オランダ国王ウィレム2世が入手した。王の死後の1850年8月12日に一度は売りに出されたが、娘のザクセン=ヴァイマル=アイゼナハ大公妃のソフィー・ファン・オラニエ=ナッサウが相続し、以降は大公家が所有した。20世紀に入って大公家を離れたのち複数の所有者を経て1940年にロッテルダムのD・G・ファン・ベニンゲンが入手し、その翌年にボイマンス美術館財団に寄贈された。馬の隣に描かれた素描
ジャンピエトリーノ版
ジャンピエトリーノ版はカッセル市立美術館に所蔵されている。1749年にパリで発見されたのち、1756年にヘッセン=カッセル方伯ウィルヘム8世によって取得された[13]。このときすでに後代の塗り直しによって卵と子供が多い隠されていたため、レオナルド・ダ・ヴィンチの﹃カスタリア︵慈愛︶﹄と勘違いされていた[13]。塗り直しの除去は1806年から1835年の間に行われた。 これはレオナルド・ダ・ヴィンチの白鳥を持たない﹁ひざまずくレダ﹂の最も優れた複製である。赤外線リフレクトグラフィーの科学的調査によってレダを表す主題の下に、おそらくレオナルド・ダ・ヴィンチのカルトンから派生した、師に非常に忠実な﹃聖アンナと聖母子﹄の構図が発見された[13]。これはジャンピエトリーノが師に近いことを裏付けており︵ジャンピエトリーノは弟子の1人として彼レオナルド・ダ・ヴィンチのノートに記載されている︶、絵画がレオナルドが生きている間に作られたことを示唆している。制作時期についてツェルナー︵Zöllner︶は1508年から1513年の間を提案している[14]。立っているレダ
チェザーレ・ダ・セスト版
この作品はソールズベリーのペンブルック伯爵のウィルトン・ハウス・トラストに所蔵されている。失われたレオナルド・ダ・ヴィンチの原作の模写として知られ、弟子のチェザーレ・ダ・セストによって制作されたことが確実視されている。このバージョンはおそらくアランデル卿のコレクションに由来している。一般的に師に最も忠実であると考えられ、特にレダの頭部はウィンザー城のロイヤル・コレクション︵RL.12516r︶に所蔵されているレダの頭部の習作と非常によく似ている[15]。ボルゲーゼ美術館版
これはローマのボルゲーゼ美術館に所蔵されているバージョンである。最初の記録である1693年のボルゲーゼ家の財産目録ではレオナルド・ダ・ヴィンチに帰属されていた。19世紀以降は制作者としてソドマ、バッキアッカ、ジュリアーノ・ブジャルディーニ、フランチェスコ・メルツィらの名が挙げられているが、様式的な研究からは否定的な結果が出ている。科学的調査はもともと2つの卵と4人の子どもが描かれていたが、後代の加筆で現在の姿になったことを明らかにしている[15]。ウフィツィ美術館版
これは﹃スピリドンのレダ﹄︵Spiridon Leda︶と呼ばれているもので、フィレンツェのウフィツィ美術館に所蔵されている。﹁並外れた品質と保存状態の良さ﹂で知られるこの作品は、ロジェール侯爵︵marquis de la Rozière︶のコレクションで初めて言及された。その後、ロブル男爵︵Baron de Roublé︶の手に渡り、ルドヴィコ・スピリドン︵Ludovico Spiridon︶によってパリからローマに移された。第二次世界大戦中にガロッティ・スピリドン公爵夫人からナチス・ドイツのヘルマン・ゲーリングによって買収されたが、1948年に美術史家のロドルフォ・シビエロによって回収された[16][17]。フィラデルフィア美術館版
1917年までジョンソン・コレクションに所属し、現在はフィラデルフィア美術館に所蔵されている。制作者としてはしばしばフェルナンド・イェーネス・デ・ラ・アルメディナの名が挙げられる[15]。オランダ的な風景はレオナルド・ダ・ヴィンチのオリジナルからの逸脱を示唆している。人物と風景をそれぞれ別の画家が担当して制作に取り組んだ可能性が指摘されている[18]。ヘイスティング版
ヘイスティングズ侯爵のコレクションに所属していた作品。現在はロンドンのギブス・コレクションに所蔵されている[15]。腰巻のレダ
現在は所在不明の作品である。裏面に18世紀頃の﹁Leonardo dauincj﹂の銘記がある。2000年にチューリッヒで開かれた展覧会に出品された以外はほとんど何も知られていない。しかしレダと白鳥のポーズや卵と子供たちの配置などからレオナルド派のレダと白鳥から派生した作品であることは明白である。レダの腰の布は本作品が猥褻と考えられた後代の加筆と思われる[19]。ルーヴル美術館の素描による模写
ルーヴル美術館所蔵の模写はレオナルド・ダ・ヴィンチの﹃レダと白鳥﹄に基づく素描による模写である。制作者の名前は伝わっていないが、おそらく16世紀頃のもとされている。一説によると作者は彫刻家バッチョ・バンディネッリで、1530年頃にバルジェロ美術館のブロンズ製の立像の﹃レダと白鳥﹄を制作している。ただし白鳥の位置やレダの顔と手の向きがこの素描とは左右逆である[19]。ラファエロの模写
ロイヤル・コレクションとして、ウィンザー城の王立美術館に所蔵されている作品である。青年時代のラファエロがおそらくレオナルド・ダ・ヴィンチのオリジナルに基づいて制作した素描による模写である。こうした模写を行うことでラファエロがレオナルド・ダ・ヴィンチの芸術を吸収したことはよく知られており、ラファエロが本作品から影響を受けて﹃ガラテイアの勝利﹄といった作品を制作したことが指摘されている。ジャンピエトリーノ﹃ヴィーナスとキューピッド﹄
この作品はミラノのネンビリーニ・コレクションに所蔵されている。レオナルド・ダ・ヴィンチの弟子ジャンピエトリーノに帰属されている本作品は、ヴィーナスのポーズにレダとの明確な影響を見ることができる。ジャンピエトリーノの他の作品との関連などから1510年代半ばの作と推定している[20]。-
フィラデルフィア版
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ヘイスティング版
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ルーヴル美術館所蔵の模写
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ジャンピエトリーノの『ヴィーナスとキューピッド』
レダの頭部の習作
ウィンザー城版:Inv no.12515
紙にペンとインクで描かれている。髪は顔の左側面に緩めの小環でコイル状に編まれている。髪に比べて顔の質が低く、レオナルド・ダ・ヴィンチは顔を空白のままにした可能性があり、後から弟子が描き込んだことが考えられる[21]。左側に﹁questa sipo / levare eppo / re sanza gu/ asstarsi﹂とメモされている[22]。ウィンザー城版:Inv no.12516
紙にペンとインク、黒チョークで描かれている。1枚の紙片にレダの頭部が4つの角度から素描されている。レオナルド・ダ・ヴィンチの関心を捉えていた者は女性の表情というよりは髪型の方にある。非常に緻密であるため、実物を見て描いたものでないとされている[22]。ウィンザー城版:Inv no.12517
紙にペンとインク、黒チョークで描かれている。髪は顔の左側面に三つ編みでひだ状に配置されている。12515と同様、髪に比べて顔の質が低く、レオナルド・ダ・ヴィンチは顔を空白のまま残し、後から弟子が描き込んだことが考えられる[23]。ウィンザー城版:Inv no.12518
紙にペンとインク、黒チョークで描かれている。髪は手の込んだ三つ編みでコイル状に固定されている[24]。スフォルツェスコ城美術館版
スフォルツェスコ城美術館に所蔵されているもので、紙に赤チョークで描かれている。美術史家ジョヴァンニ・モレッリは1890年にソドマに帰属したが、アドルフォ・ヴェントゥーリは1921年にレオナルド・ダ・ヴィンチに帰属した。カルロ・ペドレッティやアレッサンドロ・ヴェッツォージはヴェントゥーリを支持したが、異論も多く、ピエトロ・マラーニ︵Pietro Marani︶やマリア・テレーザ・フィオリオ︵Maria Teresa Fiorio︶たちはレオナルド・ダ・ヴィンチからの模写と考えており、フィオリオはジャンピエトリーノの作ではないかとしている[22]。-
レダの頭部の習作(Inv no.12515)ウィンザー城所蔵
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レダの頭部の習作(Inv no.12517)ウィンザー城所蔵
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レダの頭部の習作(Inv no.12518)ウィンザー城所蔵
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レダの頭部の習作 スフォルツェスコ城美術館所蔵
影響
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ヤコポ・ダ・ポントルモ『レダと白鳥』1512年-1515年頃 ウフィツィ美術館所蔵
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アンドレア・デル・サルト『レダと白鳥』1513年-1515年頃 ベルギー王立美術館所蔵
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バッキアッカ『レダと白鳥』1518年-1520年頃 ボイマンス・ヴァン・ベーニンゲン美術館所蔵
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バッキアッカ『レダと白鳥』メトロポリタン美術館所蔵