「レダと白鳥 (レオナルド)」の版間の差分
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== 参考文献 == |
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* {{Cite book|和書 |author=責任編集: 友部直, 企画・監修: 中山公男, 高階秀爾 |title=神話・神々をめぐる女たち |publisher=集英社 |year=1979 |series=全集美術のなかの裸婦 3 / 座右宝刊行会編集 |NCID=BN02925020 |id={{全国書誌番号|80011392}} |url=https://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000001441960-00 |ref=harv}} |
* {{Cite book|和書 |author=責任編集: 友部直, 企画・監修: 中山公男, 高階秀爾 |title=神話・神々をめぐる女たち |publisher=集英社 |year=1979 |series=全集美術のなかの裸婦 3 / 座右宝刊行会編集 |NCID=BN02925020 |id={{全国書誌番号|80011392}} |url=https://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000001441960-00 |ref=harv}} |
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* {{cite journal|和書|author=[[池上英洋]] |date=2017-03 |url=https://zokei.repo.nii.ac.jp/records/16 |title=レオナルド派<レダと白鳥>再考――主題と源泉、伝播経路 |journal=東京造形大学研究報 |issue=18 |pages=056-087 |naid=120006410240 |CRID=1050564287756226816 |ref=harv}} |
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* Françoise Viatte, in Léonard de Vinci, Dessins et manuscrits, RMN (2003) |
* Françoise Viatte, in Léonard de Vinci, Dessins et manuscrits, RMN (2003) |
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2024年1月9日 (火) 02:00時点における最新版
イタリア語: Leda e il cigno 英語: Leda and the Swan | |
作者 | レオナルド・ダ・ヴィンチ(逸名画家、おそらくチェザーレ・ダ・セストによる複製の1つ) |
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種類 | テンペラ、板 |
所蔵 | 現存せず(おそらく破棄あるいは紛失) |
概要[編集]
ひざまずくレダ[編集]
ひざまずくレダの習作︵チャッツワース版︶[編集]
1504年頃。紙に黒チョーク、ペン・ブラウンインク、筆・ブラウンウォッシュで描かれている。デヴォンシャー公爵のコレクションとしてチャッツワース・ハウスに所蔵されている。レオナルド・ダ・ヴィンチによるこの習作はロッテルダムのボイマンス・ヴァン・ベーニンゲン美術館に所蔵されている素描による習作と似ている。フランソワ・ヴィアート︵Françoise Viatte︶は﹁レオナルド・ダ・ヴィンチが使用した腐食性の茶色のインクは構図の暗い影をいくらか損なわせた﹂と述べている[10]。 選択したポーズは芸術家のアドバイスに対応していると思われる。﹁もし何らかの理由で後ろ向きまたは横向きになっている人を表現したい場合は、あなたは彼女の足とすべての手足を彼女が頭を回している方向に動かしてはいけないが︵・・・︶関節に応じてその動きを分解しなさい[11]﹂。ひざまずくレダの習作︵ボイマンス版︶[編集]
制作年は1504年頃。紙にペン、ブラウンインク、黒チョークで描かれている。ボイマンス・ヴァン・ベーニンゲン美術館に所蔵されている。右下隅に17世紀から18世紀初頭のものと思われる﹁Lionardo da Vinci﹂の署名がある。肖像画家トーマス・ローレンス卿が所有したのち、オランダ国王ウィレム2世が入手した。王の死後の1850年8月12日に一度は売りに出されたが、娘のザクセン=ヴァイマル=アイゼナハ大公妃のソフィー・ファン・オラニエ=ナッサウが相続し、以降は大公家が所有した。20世紀に入って大公家を離れたのち複数の所有者を経て1940年にロッテルダムのD・G・ファン・ベニンゲンが入手し、その翌年にボイマンス美術館財団に寄贈された。馬の隣に描かれた素描[編集]
ジャンピエトリーノ版[編集]
ジャンピエトリーノ版はカッセル市立美術館に所蔵されている。1749年にパリで発見されたのち、1756年にヘッセン=カッセル方伯ウィルヘム8世によって取得された[13]。このときすでに後代の塗り直しによって卵と子供が多い隠されていたため、レオナルド・ダ・ヴィンチの﹃カスタリア︵慈愛︶﹄と勘違いされていた[13]。塗り直しの除去は1806年から1835年の間に行われた。 これはレオナルド・ダ・ヴィンチの白鳥を持たない﹁ひざまずくレダ﹂の最も優れた複製である。赤外線リフレクトグラフィーの科学的調査によってレダを表す主題の下に、おそらくレオナルド・ダ・ヴィンチのカルトンから派生した、師に非常に忠実な﹃聖アンナと聖母子﹄の構図が発見された[13]。これはジャンピエトリーノが師に近いことを裏付けており︵ジャンピエトリーノは弟子の1人として彼レオナルド・ダ・ヴィンチのノートに記載されている︶、絵画がレオナルドが生きている間に作られたことを示唆している。制作時期についてツェルナー︵Zöllner︶は1508年から1513年の間を提案している[14]。立っているレダ[編集]
チェザーレ・ダ・セスト版[編集]
この作品はソールズベリーのペンブルック伯爵のウィルトン・ハウス・トラストに所蔵されている。失われたレオナルド・ダ・ヴィンチの原作の模写として知られ、弟子のチェザーレ・ダ・セストによって制作されたことが確実視されている。このバージョンはおそらくアランデル卿のコレクションに由来している。一般的に師に最も忠実であると考えられ、特にレダの頭部はウィンザー城のロイヤル・コレクション︵RL.12516r︶に所蔵されているレダの頭部の習作と非常によく似ている[15]。ボルゲーゼ美術館版[編集]
これはローマのボルゲーゼ美術館に所蔵されているバージョンである。最初の記録である1693年のボルゲーゼ家の財産目録ではレオナルド・ダ・ヴィンチに帰属されていた。19世紀以降は制作者としてソドマ、バッキアッカ、ジュリアーノ・ブジャルディーニ、フランチェスコ・メルツィらの名が挙げられているが、様式的な研究からは否定的な結果が出ている。科学的調査はもともと2つの卵と4人の子どもが描かれていたが、後代の加筆で現在の姿になったことを明らかにしている[15]。ウフィツィ美術館版[編集]
これは﹃スピリドンのレダ﹄︵Spiridon Leda︶と呼ばれているもので、フィレンツェのウフィツィ美術館に所蔵されている。﹁並外れた品質と保存状態の良さ﹂で知られるこの作品は、ロジェール侯爵︵marquis de la Rozière︶のコレクションで初めて言及された。その後、ロブル男爵︵Baron de Roublé︶の手に渡り、ルドヴィコ・スピリドン︵Ludovico Spiridon︶によってパリからローマに移された。第二次世界大戦中にガロッティ・スピリドン公爵夫人からナチス・ドイツのヘルマン・ゲーリングによって買収されたが、1948年に美術史家のロドルフォ・シビエロによって回収された[16][17]。フィラデルフィア美術館版[編集]
1917年までジョンソン・コレクションに所属し、現在はフィラデルフィア美術館に所蔵されている。制作者としてはしばしばフェルナンド・イェーネス・デ・ラ・アルメディナの名が挙げられる[15]。オランダ的な風景はレオナルド・ダ・ヴィンチのオリジナルからの逸脱を示唆している。人物と風景をそれぞれ別の画家が担当して制作に取り組んだ可能性が指摘されている[18]。ヘイスティング版[編集]
ヘイスティングズ侯爵のコレクションに所属していた作品。現在はロンドンのギブス・コレクションに所蔵されている[15]。腰巻のレダ[編集]
現在は所在不明の作品である。裏面に18世紀頃の﹁Leonardo dauincj﹂の銘記がある。2000年にチューリッヒで開かれた展覧会に出品された以外はほとんど何も知られていない。しかしレダと白鳥のポーズや卵と子供たちの配置などからレオナルド派のレダと白鳥から派生した作品であることは明白である。レダの腰の布は本作品が猥褻と考えられた後代の加筆と思われる[19]。ルーヴル美術館の素描による模写[編集]
ルーヴル美術館所蔵の模写はレオナルド・ダ・ヴィンチの﹃レダと白鳥﹄に基づく素描による模写である。制作者の名前は伝わっていないが、おそらく16世紀頃のもとされている。一説によると作者は彫刻家バッチョ・バンディネッリで、1530年頃にバルジェロ美術館のブロンズ製の立像の﹃レダと白鳥﹄を制作している。ただし白鳥の位置やレダの顔と手の向きがこの素描とは左右逆である[19]。ラファエロの模写[編集]
ロイヤル・コレクションとして、ウィンザー城の王立美術館に所蔵されている作品である。青年時代のラファエロがおそらくレオナルド・ダ・ヴィンチのオリジナルに基づいて制作した素描による模写である。こうした模写を行うことでラファエロがレオナルド・ダ・ヴィンチの芸術を吸収したことはよく知られており、ラファエロが本作品から影響を受けて﹃ガラテイアの勝利﹄といった作品を制作したことが指摘されている。ジャンピエトリーノ﹃ヴィーナスとキューピッド﹄[編集]
この作品はミラノのネンビリーニ・コレクションに所蔵されている。レオナルド・ダ・ヴィンチの弟子ジャンピエトリーノに帰属されている本作品は、ヴィーナスのポーズにレダとの明確な影響を見ることができる。ジャンピエトリーノの他の作品との関連などから1510年代半ばの作と推定している[20]。-
フィラデルフィア版
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ヘイスティング版
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ルーヴル美術館所蔵の模写
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ジャンピエトリーノの『ヴィーナスとキューピッド』
レダの頭部の習作[編集]
ウィンザー城版:Inv no.12515[編集]
紙にペンとインクで描かれている。髪は顔の左側面に緩めの小環でコイル状に編まれている。髪に比べて顔の質が低く、レオナルド・ダ・ヴィンチは顔を空白のままにした可能性があり、後から弟子が描き込んだことが考えられる[21]。左側に﹁questa sipo / levare eppo / re sanza gu/ asstarsi﹂とメモされている[22]。ウィンザー城版:Inv no.12516[編集]
紙にペンとインク、黒チョークで描かれている。1枚の紙片にレダの頭部が4つの角度から素描されている。レオナルド・ダ・ヴィンチの関心を捉えていた者は女性の表情というよりは髪型の方にある。非常に緻密であるため、実物を見て描いたものでないとされている[22]。ウィンザー城版:Inv no.12517[編集]
紙にペンとインク、黒チョークで描かれている。髪は顔の左側面に三つ編みでひだ状に配置されている。12515と同様、髪に比べて顔の質が低く、レオナルド・ダ・ヴィンチは顔を空白のまま残し、後から弟子が描き込んだことが考えられる[23]。ウィンザー城版:Inv no.12518[編集]
紙にペンとインク、黒チョークで描かれている。髪は手の込んだ三つ編みでコイル状に固定されている[24]。スフォルツェスコ城美術館版[編集]
スフォルツェスコ城美術館に所蔵されているもので、紙に赤チョークで描かれている。美術史家ジョヴァンニ・モレッリは1890年にソドマに帰属したが、アドルフォ・ヴェントゥーリは1921年にレオナルド・ダ・ヴィンチに帰属した。カルロ・ペドレッティやアレッサンドロ・ヴェッツォージはヴェントゥーリを支持したが、異論も多く、ピエトロ・マラーニ︵Pietro Marani︶やマリア・テレーザ・フィオリオ︵Maria Teresa Fiorio︶たちはレオナルド・ダ・ヴィンチからの模写と考えており、フィオリオはジャンピエトリーノの作ではないかとしている[22]。-
レダの頭部の習作(Inv no.12515) ウィンザー城所蔵
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レダの頭部の習作(Inv no.12517) ウィンザー城所蔵
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レダの頭部の習作(Inv no.12518) ウィンザー城所蔵
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レダの頭部の習作 スフォルツェスコ城美術館所蔵
影響[編集]
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ヤコポ・ダ・ポントルモ『レダと白鳥』1512年-1515年頃 ウフィツィ美術館所蔵
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アンドレア・デル・サルト『レダと白鳥』1513年-1515年頃 ベルギー王立美術館所蔵
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バッキアッカ『レダと白鳥』1518年-1520年頃 ボイマンス・ヴァン・ベーニンゲン美術館所蔵
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バッキアッカ『レダと白鳥』 メトロポリタン美術館所蔵