ロシア兵士の母の委員会連合
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略称 | Союз КСМР、СКСМР |
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設立 | 1989年(前身組織) |
本部 | ロシア連邦モスクワ |
ウェブサイト | Союз КСМР |
ロシア兵士の母の委員会連合︵ロシアへいしのははのいいんかいれんごう、ロシア語: Союз комитетов солдатских матерей России、略称‥Союз КСМР、СКСМР︶は、ロシア連邦軍内で兵役中に人権侵害の被害を受けた徴集兵の家族によって被害や情報を公開させ、兵士とその家族の権利を守ることを目的に組織された団体である。1989年にロシア兵士の母の委員会︵Комитет солдатских матерей России、略称‥КСМР、КСМ России︶[1]として設立され、1991年に全ロシア団体として登録され、1998年までに現在の名称に改称・解組されている。日本語名称として他にロシア兵士の母の会[2]としても知られる。委員会連合の本部はモスクワに置かれ、ロシア各地に約300の兵士の母の委員会地方組織を有している。また、委員会連合はロシア最大の女性団体でもある[3]。
委員会連合はしばしば人権や平和運動団体として見られている。委員会連合の活動として、軍務に関して法の支配の下でロシアの市民社会に教育をすることが一つとして上げられ、軍隊が民主主義社会の下で可視化され、社会に周知される事を推進している。また、委員会は上官や先輩兵士によるいじめや虐待など、デドフシナに曝されている兵士に代わって介入するだけでなく、組織を上げて彼らの権利や徴兵法について自由な法的助言を兵士やその家族に提供している。
委員会連合はこれまでに4つの国際的賞を受賞しており、代表的なものにライト・ライブリフッド賞がある[3]
歴史
1988年に高等教育機関にいる学生の兵役猶予が取り消された。その結果、1989年に抗議集会や抗議の波が発生した。抗議は主催者と徴兵された兵士の母親が主体であった。抗議の結果、軍は対象者を一時帰国させた上で訓練を継続させ、学生約17,600人が復帰した[4]。 1991年4月、ソ連最高会議議員の参加を得て、全ロシア公共団体﹁ロシア兵士の母の委員会﹂が設立され、マリーヤ・イヴァーノヴナ・ケルバーソワ︵Мария Ивановна Кирбасова︶が委員長に選出された[4]。 1991年6月1日、司法省はロシア公共団体﹁ロシアの兵士の母の委員会﹂を登録する[4] 1993年にはマリーヤ・ケルバーソワ率いる調査団が補給欠乏による悲劇が発生したルースキー島を訪れた。島内の海軍兵営では4人の水兵が餓死し、250人が重度の栄養失調で入院しており、社会団体と軍との間で係争がおき、その結果太平洋艦隊司令官ゲンナディー・アレクサンドロビッチ・ハバートヴ︵ru:Хватов, Геннадий Александрович︶が解任される[5]。 1994年12月、第一次チェチェン紛争勃発後に母の委員会は即時撤退を求める活動を始め、やがてチェチェン紛争は終結した。母の委員会は委員長主導の下でチェチェン・コマンドに監禁されているロシア将兵の名簿を得る[4]。1995年1月3日に赤の広場で最初の反戦デモを開催し、チェチェンで亡くなったすべての人々を追悼した。同年1月6日には委員長ほか兵士の両親グループが戦場を訪れる。これは2月7日までグロズヌイで監禁されていた数十人のロシア将兵を釈放させた。後にチェチェン紛争に抗議するデモを多数開催する[1][4]。 1995年に国際人権団体ヒューマン・ライツ・ウォッチは﹁マリーヤ・ケルバーソワは世界の人権運動で活躍する10大指導者の一人である﹂と評する。同年、委員会はノルウェーのトローフ・ラフト記念賞やショーン・マクブライド平和賞を授与されている[4]。1996年にはマリーヤ・ケルバーソワ率いる母の委員会はノーベル平和賞にノミネートされている[6]。1995年1月、ドイツ連邦議会議員団は委員会の功績を評し人権と平和活動のための章を提示する[1]。1996年、ライト・ライブリフッド賞を受賞する[7]。しかし、受賞者選定の問題でマリーヤ・ケルバーソワ委員長とモスクワ会代表ヴァレンティーナ・メリニコフ︵Валентиной Мельниковой︶との間で内紛が生じ、その結果組織は分裂し、1997年1月に司法省はヴァレンティーナ・メリニコフ率いるロシア兵士の母の委員会連合を登録し公式の後継団体であることを宣言した。一方、マリーヤ・ケルバーソワ率いる兵士の母の委員会は非公式に存続し引き続いて彼女が代表を務めることになった[1]。 2022年ロシアのウクライナ侵攻以降、音信不通となった兵士の家族らからの問い合わせが殺到している。代表のスヴェトラーナ・ゴルブによれば、今回の作戦について家族らにはほぼ何も知らされていないという。また、ウクライナで戦いたくないという兵士の声を伝える家族らからの電話も多くかかってきている。例として、ロシア南部ダゲスタンのある母親は最前線にいる息子が上官に﹁自分は戦闘に加わりたくない﹂と告げたと語っていた。しかし、上官は選択の余地はないと言ったという。﹁これはあってはならないことだ﹂とゴルブは言う。団体は独自のデータベースを用いて兵士の所在を突き止め、当局に安否情報の開示を要求している。他には、死亡した兵士の遺体を自分たちの手によって回収することを検討している。国防省が返還を渋っているのだとゴルブが思い至ったためである[8]。 4月と5月にはヴァレンティーナ・メリニコフがインタビューに応じた。4月のインタビューでは、ロシア軍の徴集兵が心理的圧迫・暴力を受けて入隊契約をすることが後を絶たず、誰が前線に立ってもおかしくない状況を訴えた。メリニコフは軍幹部とのコンタクトがあり、2002年までは大統領の軍事顧問とも直接電話で話せたが、今回、氏名・IDナンバーやデータも正確な死傷兵リストはウクライナ側からの提供であるという。また2014年からウクライナの﹁不明兵士家族連絡会﹂とコンタクトしており、現在もZOOMで連絡を取り合っているが、捕虜交換にはロシア側がウクライナ兵の捕虜がどこに何人いるのか明らかにする必要があり、﹁いない﹂というのなら銃殺されたのだろうと見ている。またウクライナ人捕虜がルハンスクで虜囚になっている可能性に言及し、懸念している。また、クリミア併合のあった2014年に西側に警告を発したが、EUや人権団体は﹁ロシアと事を構えたくない﹂﹁ロシアとは合弁事業が沢山あるから﹂と取り合わなかった。結果、このようなことになってしまったと主張している。5月には、これほど多くの行方不明者が出たことはないと話した。兵士や将校本人の戦闘拒否の訴え、また家族からの訴えに対し﹁︵相談者自身が︶何ができるかを説明するのです。電話や手紙の宛先、訴えを正式に記録する方法。新たな問題が発生した場合は、都度、軍人やその親族に説明できるように心がけています﹂と話している。外国エージェント法のため直接に援助が出来ないためで、既婚者や子どものいる家庭を持っている軍人も多いため、行方不明者の家族に対しての法的支援がないことを懸念しているという[9]。 この連合について日本語で読めるものとして、ピーター・ポマランチェフ著﹃プーチンのユートピア﹄(池田年穂訳、慶應義塾大学出版会、2018年。原著は Peter Pomerantsev, Nothing is True and Everything is Possible, 2014︶の﹁入門儀礼﹂の章︵151-165頁︶が挙げられる。脚注
- ^ a b c d История движения солдатских матерей
- ^ 社団法人部落解放・人権研究所 No.3731ロシア「兵士の母の会」の事務所が何者かに荒らされ、重要なデータが盗まれました。
- ^ a b История Союза Комитетов Солдатских Матерей России
- ^ a b c d e f Из истории КСМ России
- ^ Отчаянная попытка защитить права своих детей
- ^ Депортация из Финляндии отложена
- ^ The Committee of Soldiers' Mothers of Russia, CSMR (Russia) Archived 2014年10月7日, at the Wayback Machine.
- ^ “‘Just a sea of tears’: the group helping anxious mothers of Russian soldiers”. The Guardian (2022年3月2日). 2022年3月5日閲覧。
- ^ “«Можно сравнить с первой чеченской» Как российские власти относятся к солдатам, которых отправили на войну, — и кто помогает их близким. Рассказывает Валентина Мельникова из Комитета солдатских матерей” (ロシア語). Meduza (2022年5月25日). 2022年7月20日閲覧。